金銭を使わなくてもとりあえず当面の宿もどうにかなった天結は長期宿泊者が留まるフロアだという3階に案内された。
1階が食堂と日帰り客用の入浴施設、2階は短期宿泊者用の客間と女将が教えてくれた。
石畳の両脇が玉砂利という小粋な廊下に縁台と障子の引き戸が見える。
「湯の花、湯の花……。」
渡されたのは鍵ではなく一つの勾玉でこれが一体なんの役に立つのか検討もつかない。5年も放浪生活をしていたので、あちこち宿泊してきたが勾玉を渡されたのは初めてだった。
儀式でよくお目見えするタイプの翡翠でできたと思われる石はバランス良く、つるんとした滑らかな手触りが職人の腕の良さを物語っている。
一緒にやってきた狐山親子も同じ階で、2人は早々に木蓮の間に入っていったので姿はもう見えない。
「っていうか部屋の表記で湯の花なんて初めてみたわ。」
ちなみに湯の花とは温泉の成分が析出、沈殿したもので、他國の温泉地でも見たことを思い出す。
勾玉を持った手で障子に触れたときだった
「!?」
澄んだ水面に一滴の清水が滴り落ちたような、そんな音が頭に直接響いた。
「結界?……結界を宿の錠に使うってどういうこと?そんな高等技術を?」
一体どんな豪奢な部屋なのかと若干ビビりつつ障子をゆっくりスライドさせる。
が、用意された部屋は畳にベッドが置かれたごく一般的な部屋だった。下手な錠鍵よりも厳重な施錠方法で一体どれだけ高価な調度品かと思いきや、ごくごく普通の部屋である。
備え付けのテーブルに荷物をおろしてバフっとベッドに飛び込んでみる。ピンと伸びたシーツが頬に当たって気持ちがいい。
「あ〜。もう旅しなくていいとか最高かよ〜。」
仰向けに転がって見上げた天井は初めて見る。木造の梁に木目の模様。
「初めて見る天井だ……。」
初めて泊まるのだから当たり前である。
「もうこれで長距離歩かなくてすむぞぉぉぉ〜!」
体を大の字にしてぐぐっと伸ばすとなんだか目が覚めるような思いがした。
「あ。忘れるところだった。」
懐に手を入れてゴソゴソと取り出したのは白いハンカチ……に包まれた5cm角の絵である。幼児が画材をぐりぐりと押し付けたようなそれをそっと撫でて神通力を流すと絵の部分が張り出して左右にぐいぐい揺れるとスポンと小気味のいい音を立ててこぶし大の毛玉が飛び出す。
抹茶のような色をベースに深緑や青緑に黒、たまに黄色や茜色が毛の奥で見え隠れしていて、大きな目玉が2つあり中につぶらな黒目がある。
「あびぃちゃん、無事に殺魔についたよ。」
言葉と共に揃えた両手を差し出すと毛玉こと、あびぃちゃんはぽふっと手に乗りじっと天結も見上げる。何を考えているかは定かではない。
口も耳もないので鳴くこともない。ただそこに浮いて漂っているのである。
あびぃちゃんの顕現に成功したのは天結が3才のとき。あまりにも理不尽に修業をつける祖父に嫌気がさした。若干の嫌がらせもあったと思う。野草や野花などで近くにあった紙の端にグリグリと押し付けてたくさんの色で染めると仕上げに炭で2つの黒丸を描いた。
まぁ、我ながら良い仕事したと子供ながらに満足していればどうやらそれは祖父にとってそこそこ大事な書類とやらだったようで青筋を立てて見下されたものである。
もちろん3才で書類の中身なんぞ読めるはずもない。だが気に入った絵を持ち去られてはたまらないので紙を手放さないでいると祖父と取り合いとなり、破れたのは言うまでもない。
破れてもなお手放さないので祖父もため息とともにその切れっ端は諦めたらしいが後で祖母にくどくど言われたが子供だったので半分以上何を言ってるか理解不能だった。
だがそれからその絵を懐に入れて持ち歩くようになった。
小柴家には土埋めという修行がある。
山中に縦穴を掘り襦袢1枚にした子供を肩まですっぽり埋めるというものだ。
三日三晩その状態で放置される。
何事もなく生還できればの御の字、上手くいけば強大な神通力を手にすることができる。というものでこの修行は7つまでに行わなければ効果がないとされるが6歳までの幼児にそんなことすればトラウマものである。
というか実際トラウマになって山を見るだけで震え立ち入る事を強要した日には泣き叫ぶ者も続出した。
それもそのはず、三日三晩飲まず食わずで夜ともなれば暗闇に頭だけ地面から出た状態なのだ。
魔物に食われるかもしれない。踏みつぶされるかもしれないという恐怖で眠る事もできない。
そんな意識の中で当時の天結は祈りに祈った。早く帰りたい。なんでもいいから誰か助けてくれと。
そのときに出てきたのがあびぃちゃんである。天結の頭の上に鎮座したり、風にのってふわっと浮き上がったかと思えば放物線を描き下がり始めると、つつっと空中で跳ねて高度を保つ。
鳴くこともなければ歩くこともない毛玉である。たまにその毛玉から綿毛のようなものが落ちるがそれはすぐに空気に溶けて消える。
なんとも不思議な生き物である。
描いた本人は何かを描いた覚えもないためこの生き物が何なのかもわからない。
不思議なことにあびぃちゃんが顕現してる間は魔物に襲われることなどなかった。
その日から天結は絵を顕現させる能力を行使できるようになった。それは恐怖から引き出されたものなのか先天的に備わっていたのかは誰にもわからない能力である。
その日からあびぃちゃんと一緒である。鳴きもしなけりゃ返事もないがそばにいて独り言を聞いてもらうにはちょうどいい相手だった事もある。文句も言わなければ注意もされないし説教も飛んでこない。言いたい放題なのは言うまでもない。
「そうだっ!女将がお風呂はいつなんどきでも入れるって教えてくれたからお風呂入ろう!長期の部屋は内湯がついてるって言ってた。」
当然湯船は温泉である。
正直殺魔に到着して硫黄の匂いにウキウキしていたものの人前であるがゆえに我慢していたのである。
「温泉、温泉!」
独特の節で歌声軽やかに鞄から着替えを取り出してはテーブルの上に重ねていく。最後にタオルを2枚載せて腕に抱くと、室内に唯一ある引き戸を開けると棚に洗面がある。そこからさらに向こうに扉が一つ。
棚に抱えた衣類を置くと、向こうの扉を開けば新鮮な空気に混じって硫黄の匂いがする。竹垣に囲われた二畳ほどの空間に石造りの湯船が並々と湯を讃えている。
「源泉かけ流し!しかも露天!」
厳密には上階が屋根になってる作りなので露天とは言えないのだろうが外気に触れるという意味では、露天と言えなくもない。着ていたものをさっさと脱ぎ手近な桶に入れると人目も気にしなくていいので遠慮もなくザバザバと湯船に浸かる。
足洗いのときと同じ原理が湯船では起こると女将が言っていたのでかけ湯すらしなかった次第である。
流石に他所ではこんなことできないなと冷静になってしまう。普段は三つ編みにした髪もこのときは結びを解くと水面にゆらゆらと揺蕩う。
「はふぇぁ〜。生き返るぅ〜。これが殺魔の湯かぁ〜。」
顎まで浸かってマズルを湯船の縁にのせ温泉を堪能する。たとえその姿が妖怪の如しだろうとも、この至福の前にはなんの障害にもならなかった。
温泉に濡れた手はケガぺしゃりとなって細く見える。手のひらをすっかり陽の傾いた空に掲げて呟いた。
「今日も星は燃えている……。」
広げた手、指の隙間からちょうど一番星が輝いていた。