およそ騎士から出てくるような単語に思えず、天結は思わず聞き返してしまいました。
「貸借帳?」
金銭出納帳のようなものだろうか。なぜ初めて会う男に帳簿の心配をされているのかわからず、天結は首をひねった。
「はい。大体の人は手軽にメモ帳を持ち歩き、メモをもとに自宅で貸借帳の管理を行います。これは他國で言う出納帳と同じ役割です。この國では金銭はほぼ役に立ちませんから。」
「え?金銭……ってお金使えないんですか?両替とかでもなく?」
そんな話聞いたことがない。
これまでなら入國するときに手続きに加え通行料を支払っていた。それなのに金銭が使えないとはどういうことか。意味がわからず大きい騎士を見るが、彼は無言無表情でじっと天結を見るばかり……いや、2人の騎士を交互に見る天結が視線を向けるときだけ目の奥が少し緩んでいる。
「この國は基本的に物々交換で成り立っていて金銭はほとんど役に立ちません。その場で交換できるものなら交換だけで終わらせますが、片方が交換できるものを持っていない場合は後日同等のものを渡すか、労働力を提供することで交換が成立します。その際に双方の貸借帳に誰と誰が何と何を交換するかいつ行うかなど記録をします。基本的に交換を申し入れた日から1年以内に交換を履行させることが暗黙の了解となっています。」
なんと前時代的な社会システムだろう。目眩がしそうだ。しかしそれで國が成り立つと言うならそうであろうし、郷に入っては郷に従えと言う言葉もある。それがこの國のルールと言うなら従うのみ出るが、これまでの経験が役に立たないというのは後頭部を殴られるくらい衝撃であった。青天の霹靂とはこのことか、と。
「あの、では入國料や通行料はどうなりますか?」
「そうですね。基本的に商人なら荷物の5%を収めてもらってます。冒険者ならその日の糧の一部ですね。旅人や初入國の場合は後日労働ということになります。大体は役所周りの環境整備になります。」
思ったよりも簡単な内容で天結は胸をなでおろす。
「苦役のようなものではないようなので安心しました。」
まぁ、悪いことをしているわけではないのでそんなことになるはずもないが。
するとプードル騎士は不思議そうに首を傾げた。
「苦役……ですか?」
「小犬丸、他國では罰則として重労働を課す所がある。彼女が言っているのはそういうことだ。」
ハスキー騎士の指摘にプードル騎士が驚愕の表情を浮かべる。なぜだ。
「小柴殿、少なくともこの國において労働は罰則ではありません。労働は祖先たる神々も行った尊い行為と殺魔では考える。故に労働とは好きなことを夢中になってやったことの結果でしかないと考えているので、罰則として扱われることはないので安心してほしい。」
眩しい笑顔を向けられて反射的に目を閉じそうになるのを堪えれば隣のプードルが納得顔で続ける。
「なにか納られる品物があればそれでも構いませんが。」
納められるものといわれ一瞬考える。天結は絵を描くがちょっと特殊なのでこんなところで出して騒ぎになるのは勘弁願いたい。騒ぎだけで済めばいいがなんらかの危険性でも見出されて足止めされてはたまらない。
「では後日労働で。」
「わかりました。では入国申請書の備考欄に1年以内に労働と記載してその下にサインを。それと何か記帳できるものはありますか?」
言われて腰のポーチからまだ使用していないスケッチブックを1冊取り出す。これからはこれを貸借帳とやらにすることにして騎士に差し出す。
何故かさっきから何も言わない大きい騎士が受け取ると慣れた手つきで日付、入國料として1年以内に5回の労働を行う。の一文と、その下に担当:狛犬東郷藤右衛門まで書いて隣のプードル騎士に渡す。
渡された騎士は狛犬東郷の下に小犬丸夜叉と記入した途端に狛犬にスケッチブックを取られた。小犬丸は気にした風でもなく天結から用紙を受け取り、用紙に不備がないかをチェックした。
「手続きはこれで終了ですが1年以内に履行されない場合は指名手配の上、國外追放となりますのでご注意ください。……それと、これは簡易マップです。始めてきた人にお配りしています。宿と冒険者協会、商業組合が記載してますのでご活用ください。それから街での注意事項が裏に記載してあります。落ち着いたらご一読ください。自衛にもなりますので。」
こっわ!殺魔こっわ!若干顔が引きつるのを自覚しつつ天結は頷く。
熊獣人もそうであるが犬獣人が本気で追跡しようとすれば追えないモノはないと言われているので、あながちただの脅し文句とは言えないのである。
大きい騎士はスケッチブックに書いた文字が乾いたか確認をしてから天結に差し出した。
返された文面は神代文字で力強くはっきりとだが角ばることなく流麗に書かれている文字とサラサラと細く書かれた名前。神代文字はどの國でも使える共通文字である。発音に関して國による違いはないが、文字に関しては地域性があり同じ言葉でも國によって文字が異なる。
筆跡の違いが書いた本人たちを表しているようでちょっと面白い。思わず微笑みを浮かべた天結の耳に再び棒切れを全力で振り回して風を切るような音が届いた。
何事かと見上げると夜空を思わせる紺碧の瞳に捉えられた。その瞳の主は何かに気づいたふうに上着のポケットから白い手袋を取り出して身長に見合った大きな手に嵌めながらつぶやく。
「今日は水位が高めだからそのままだと濡れてしまう。」
バリトンのよく響く声でそれだけいうと今度はタイを解いて広げたことでそれが白布だとわかる。長机を回って天結の後ろに立つと2つの長い三つ編みを折りたたみ白布に包み込んでリュックサックの上に載せた。
「これでいい。」
何故か満足げな狛犬はもとの位置に戻る。戻る際に見えた後ろ姿に長い大きな尻尾が一度だけ揺れたように見えたは天結の気のせいだろうか。ブンと風を切る音がしたので見間違いではなかろう。