主たる
本来ならこのポジションは年若いものが人との接し方や基本的な規則、書類への慣れなど学ぶことが多いためにやることが多いのである。それをベテランである補佐官にまで付き合わせていることが申し訳ない。
おまけに……。
「やたらと今日は視線を感じるな。」
副隊長なる肩書をもらってから初めてこの役をするからだろうか、たしかに物珍しいとはいえ何も中庭の隅からこちらが見えるせいか訓練してた奴らまで手を止めて様子をうかがっているのがわかる。
そう。わかるのである。見苦しいからさっさと散れと言いたいところであるが、その最も上の立場である
出歯亀がすぎるだろうに。暇なんか?
「そりゃそうだろうなぁ、先輩の運命の一瞬なら誰だって立ち会いたいですよ!ま、俺もその一人なんで今日は約得ですね!」
運命って何?ただの関所当番だよね?受付当番してるだけだよね?なんて内心突っ込みつつもそわそわは酷くなるその時、一際甘く瑞々しい香りがする。
「水密桃の香りか……。」
誰となく独りごちると小犬丸が耳ざとく反応する。
「水密桃?時期も違いますし、そんな香りしませんよ?」
否定されても鼻はヒクヒクと動くし、毎日嗅いでもはや気にもならなくなった硫黄の匂いに混ざって芳醇に香るそれに体が自然と反応する。
それでも旅行者や商人など慣れた手つきと質問で関所に並ぶ人々を捌いていると、ふと香りが強くなる。
普段からさほど口数が多くないのがこのときばかりは助かった。街の外へと繋がる坂を下ってこちらに向かって歩いてくる長いおさげ髪が風に煽られて揺れている。それすらも目が離せない。
瑠璃色のキャスケットからのびた三角の立ち耳は淡い花紺青色。髪は上のほうが色素が薄いのか、白群で毛先に行くほど薄い露草色となって神秘的でこんな色合いの同族は32年生きてて始めてみた色合いだった。
好奇心に満ちたその瞳は一度立ち止まって道の先に広がる景色を見渡している姿は小柄な事も相まってとても愛らしい。感情を素直に表して体の後ろで揺れてくるんと上向きに丸まった尻尾の特徴から柴犬系だと思うが体が小さいことを見れば豆柴辺りだろうか。
水密桃に混じって絵の具の匂いがする。
列の後ろに並びつつも用心深く周囲を警戒したり、列の先頭が何をしてるか観察したり詰め所の様子を観察したりと表情がクルクル変わってずっと見ていられる。
視線はぼうぅっとその獣人に固定したまま耳では小犬丸と関所を通る人とのやり取りを聞き、手元の用紙を渡したり会話の切れ目になんとなく頷いてみる。
「先輩?なんか気もそぞろ過ぎません?」
「すまん、どうも気になって。」
「不審者でもいましたか?」
いつにない自分の行動を不思議に思った小犬丸が彼女を見ようとしたその時である。
バシぃぃぃぃぃン!
思わず手が動いた。そんなに強くしたわけではないが勢いがあったので無駄に音が響いた。彼女は後ろから人が来たこともあってか、前を向いていなかったのでこの失態は見られていない。
「いった!ちょっ、先輩!?」
急に視界を塞がれたのだから抗議の声が上がるのは当然のことである。当然のことだとわかってはいるのだが小犬丸が彼女を無遠慮に見つめると思ったら何かを考えるより先に手が動いたのである。
「すまん。」
「らしくないですね。本当にどうしたんですか。」
「あ〜。いや、不審者ではないし指名手配犯でもない。……んだが。」
「はぁ……?」
なんとも要領を得ない自分の様子に不審者でないならまぁいいか、と次の検査にうつる。
「ふぅ。」
このため息は自分の行動に対する呆れなのか、小犬丸に彼女を見られなくてすんだ安堵なのか。それとも両方なのか。それでもやはり自然と視線は吸い寄せられて……。
彼女が前に来た。もう前のやつなんて見てられなかった。早く終われと思ったのは職務怠慢じゃない。見慣れた冒険者だったからにすぎないのだ。
「こんにちは。お願いします。」
かわいい小さな口から響いたのは以外にも篠笛のようなアルトの声が愛らしい。少しの緊張と期待感が含まれているのがわかる。
渡された通行証に朝から感じていた水密桃と絵の具の匂いが混ざって香ってくる。思わず鼻が動いて反射手に自分の尻尾が大きくひとふり揺れると、結果的に小犬丸の太もものあたりを叩いてしまった。
「先輩……?」
「すまん。」
悪気はない。ただの反射だと言いたいが、これまで何度も関所番はしたが尻尾が揺れるなんて初めてのことに自分でも戸惑っている。
台帳に彼女の名前、発行國を記載し通行証をひっくり返せばびっしりと彼女が通過してきた國の名が入國日と出國日と共に記載されている。もしもこの國を出るとしたら再発行が必要になるだろう。
(ずっとここにいればいいのに……。)
頭の片隅でそんなことを思いながら右下最後の隙間に殺魔國と日付を書いていると彼女の永住目的という言葉が聞こえてまた尻尾が揺れた。
さらさらと用紙に書かれた神代文字は丸みを帯びていて文字の重心が低めの癖字が面白い。小さな手から書き綴られている文字が特徴的でかわいらしい。
見上げてくる瞳は大きく毛並みと同じ淡い花紺青が水面のようにキラキラと光っている。
(ずっとこっちを見ていればいいのに。)
通行証を彼女が申請用紙を書いてるスペースの横にそっと置くと、彼女は入國料について驚いていた。自分は主の護衛で何度か他國に行ったこともあるので通貨制度や苦役があることを知っているが、最近副官になった小犬丸はまだ國外の護衛任務はないので貨幣という存在とあり方はこういった場所で耳にするから知っているが、労働が罰になるというのが衝撃だったようだ。
そもそも殺魔では動くことを苦労と思ったりしない。その日食べるに必要なことを行い、生活するのに必要なことを行い、余った時間に1日好きなことをしているだけなのだ結果だけ見ればその日労働をしたと言えなくないが、そもそも好きなことをしていたのだ。単純に夢中になっていたら何かできていた。という認識で労働をするという概念がない。
ただ外國の人間でもわかりやすくする表現として労働と伝えているに過ぎないのだ。
自分なりに間に入って伝えてみたつもりなのだがそれは彼女にとって驚きだったらしい。生まれたときから殺魔にいる自分たちには一生わからないのだろうとも思う。かく言う自分も武術が好きで夢中になっていろいろやっていたら、ちょっとした武人と言われるようになり気付けば今があると言った具合である。
入國料は労働にするといったのでその手続きをするため何か書くものを持っていないか小犬丸が尋ねれば、今度は腰の鞄から1冊のスケッチブックを出して表紙をめくってからこちらに差し出してくれた。先程よりも濃い香りに思わず深呼吸をしていまう。犬丸があずかる前に素早く受け取る。
手続きも終わって彼女が立ち去ろうとしたとき名残惜しいと思ってしまった。同時に何か自分の物を渡さねばならないと思い咄嗟に思いついたのは彼女の膝まで伸ばされた髪だった。たいして今日の水位が高いとは思わないが初めて訪れた彼女にはわからないだろう。
朝から首元につけていたタイを広げて髪をまとめると、彼女に混じって自分の臭がすることに満足感を覚える。同時に手袋を使ったことで彼女の甘い香りが移ったのを感じる。当の本人は尻尾が揺れていたので不快には思われていないだろう。
宿まで送って行けなかったのは残念だが、滞在先もわかったし、1年のうちに5回は会える機会があると思えば満足できたし、名前で呼ぶことも許されたのでそれでいい。
彼女が通り過ぎてから小犬丸が横で「え、先輩の反応的に絶対だと思ったのに相手の子無反応過ぎない!?違うの!?」と小さくつぶやいていたが、番ならば雌雄両方が相手を特別と感じひと目でわかるものだ。
彼女のことは愛らしいと思うが相手からの反応を見るに周囲の勘違いだろう。騎士数名の視線が彼女に移っていたが邪な目を向けたやつは全員覚えたので後で呼び出して特別訓練をつけてやろうと心の底から誓うのであった。