翌日――
昨日のうちに、屋敷内のめぼしい場所を探っておこうと思っていた筈だった。
しかし、あてがわれた二階にある部屋のベッドがこれまでに体験したことがないほど心地よく、疲労が溜まっていたこともあって、少し横になるつもりが不覚にも爆睡してしまったようだ。
「……俺としたことが……あり得ない……夜が明けているなんて……いったい、何時間……」
外から差す陽の光と朝の鳥のさえずりを聞き、怪盗エッジことラウルがまばゆさに目を細めた。
――従者とはいえ、こんな高級ベッドを与えるとは。……ここに勤める限り、思ったよりいい待遇を受けられるのかもしれんが……それにしても、寝心地の良すぎるベッドというのは危険だな。『仕事』の妨げになりかねん。
くっ、と歯を食いしばり、ラウルは身を起そうとした。
が……
「……動けん……バカな……」
上体を起こすことさえままならず、ラウルの額から汗がしたたり落ちた。
それは、金縛りのような不快感や息苦しさからくるものではない。
当然、薬を盛られたというわけではないだろう。
あまりの快適さに、起き上がることが困難となっていたのだ。
――こんなことは初めてだ。いったい、どうして……。
横たわったまま、額に手を当てたラウルは――しかし、ノックの音が聞こえると、はっとして飛び起きていた。
「はいっ」
『ラウルさん、本日からのお勤めということですので、ご説明いたしますわ。身支度を整えられてから、階下へお越しください』
「しょ、承知いたしました」
マリーからの声掛けに反応し、快適ベッドから飛び降りると、下着姿のラウルは支給された執事の制服を着こんだ。
階下へという説明だけでは、どこの部屋に行けばいいのか具体的には分からなかったが、部屋から階段を下ったところに、マリーが立っていた。
「時間がかかりすぎですね。しかも、髪型服装に乱れがありますわ」
「⁉」
厳しい表情で上から下までラウルの姿を眺めたマリーは、櫛を取り出し、彼の寝ぐせを整え、タイの歪みを直した。
――素早い。隙のない動きだ……。この俺が見切れなかった……。
躱す隙さえ与えず、高速でラウルの身だしなみを整えたマリーは何事もなかったかのように「まずは屋敷内を案内致します」と言った。
屋敷とはいっても、使用人を除けば女性のひとりの住まいであるため、想像していたよりも小さかった。
ぐるりと一周する形で簡単に屋敷内を案内されたラウルは、大きめのキッチンの台に大量に並べられている、黒く変色した銀食器を見て、唖然としていた。
「まずは――食器磨きから。従者としての基本ですから」
マリーが淡々と言った。
「こ、これを全部……?」
「なかなか手が回らず、放置していたものもありましたので。ここで説明を兼ね、実践していただこうと思います」
まずは手本として、専用の液体に浸した布できゅっきゅと拭いて見せたあと、「磨いたものはこちらへ」と、食器棚を指さした。
「単純作業ですので、こちらはお任せ致しますね。わたくしは別の仕事に」
「あ……」
「男手は調理師のエアトンしかありません。しかも高齢ですから、力仕事もこなしていただきたいのです。そちらが終わったら、お声がけいただけますか? 自室におりますので」
「え……ええ」
「では、よろしくお願い致します」
テキパキとした様子でマリーはキッチンを出て行った。
――思った以上にハードだな。この隙に屋敷内を探るつもりだったが、この調子ではなかなか……。
銀食器を片付けていると、こんこん、とドアをノックされた。
「はい」
「新しい執事の方が来られたってお話聞いちゃったんで、ご挨拶に。あたし、イリアっていいますぅ。こちらに勤めて半年くらいですぅ」
メイド服を身に着けたツインテールの茶髪の娘が、挨拶をした。
「あ、ああ。どうも。ラウルと申します」
一応は彼女に目を向け挨拶を返すも、のんびり会話している場合ではないと、ラウルは作業に戻った。
「お手伝いしましょうか?」
「いいんですか?」
「ええ。こちらの仕事はひと段落付いたところだから……うふっ」
と、頬を赤く染めつつ、イリアがラウルの隣に並んだところで――
「ちょっと、ラウルいる?」
今度は、着替えて身支度を整えたとおぼしきナディアが入ってきた。
「え、ええ。どうなさいました?」
「今から車出して? 街に行きたいの」
「え? しかし……」
持っている皿とイリアを見比べながら、ラウルは困惑したように瞬きをした。
「彼女に任せておけばいいわ。わたしは出かけたいから」
「お出かけ……ですか? ……あの、お嬢様はお休みになられていたのでは?」
ナディアの物言いに少々ムッとしながら、イリアが尋ねた。
「昨晩ぐっすり眠ったおかげでリフレッシュできたわ。今日はアクティブに過ごしたい気分なの」
言いながら、車のキーを見せてきた。
「車庫まで案内するわ」
現状……誰の言葉に従うのがまっとうなのかを考えると、侍女長のマリーだろう。
しかし、彼女はこの場にはおらず、雇い主は令嬢のナディアである。
――まあ、俺自身も『彼女』に『用』があることを考えれば、ここは彼女に従うべきだろうな。
秘宝の在処について、彼女と接することが多ければすぐにヒントが得られるかもしれない。
そう思い、ラウルは彼女の外出に付き合うこととなった。