一方、そこから数キロも離れていない、教会の向かいの画廊――
「なんなのよ、また取り逃がしたって言うの⁉」
怒りの形相で制服の警官に詰め寄るのは、ナディア・ピオーネ・ルオ。
国内屈指の富豪エルシス・セミヨン・ルオのひとり娘だ。
美しいと評判の端麗な筈の容姿は、残念なことに一晩中張り込んでいたことが祟り、自慢の赤髪は艶や白い肌の艶が失われ、思いっきりくすんでいた。
「し、しかし、我々警察は『偽物』の近辺をマークしていましたから……」
画廊に飾られた偽物の聖母の絵を指し、怯えた表情で訴えた。
「本物の方は手薄だったってこと? バッカじゃないの⁉」
「とはいえ……本物と偽物を入れ替えてあったことは、本当にごく一部の関係者にしか知らされておらず……」
警官の胸倉を掴んでがくがくと揺さぶっていると、地下から姿を現した巨漢――レオナルド・ライ警部が渋い顔をしていた。
「おそらく、関係者に紛れてここへ入り込んだのでしょう。変装の名人との噂がありますから……」
「~~~簡単に言わないで下さる? 今度こそは絶対にヤツを捕らえられるって、そう自信たっぷりに言い放ったのはどこのどなた?」
ナディアが腕を組み、冷たい視線を投げた。
「そうおっしゃられると……辛いものがありますが……」
ライ警部がハンカチを取り出し、汗を拭った。
「恩着せがましく言うわけじゃないけれど、うちから支援した分の働きくらい、見せていただきたかったわ」
「まあ……あの……高級中華フルコースのケータリングで士気が上がった者もおりましたが……しかし、あれはさすがに場違いといいますか……」
「腹が減ってはいくさは出来ぬと申します! ナディアさんのご支援、感謝してますよ、ボクは! 特にふかひれスープは絶品でした‼」
警部のあとから続いてきた彼の部下である青年――カイン・リー刑事が、目をランランと輝かせながら、ナディアの手を手に取った。
「そ、そう? それならよかったけど……」
といいながら、ナディアは彼の手を払いのけた。
「今回、怪盗が現れる時間と場所の見当はついていた。だけど……結局……」
「捕まえることは出来ませんでしたが、ヤツはこんな手がかりを落としていきました!」
茶色の毛の束のようなものを見せられ、ナディアはぎょっとした。
「な、なに?」
「ヅラですよ。ヤツは変装道具の一部を落としていきました。これは、いい手掛かりになる!」
リー刑事はマッシュルームヘアのウィッグの装着部に鼻を当て、くんくんと匂いを嗅いだ。
その仕草に対し、ナディアは顔をこわばらせながら後ずさる。
「ふむ、男ですね。年齢は……ちょっと曖昧ですが……20代後半から30代というところでしょうか。……4、50代の紳士がよく使用しているオーデコロンが付着していますが、これはフェイクのように思えますね」
残り香からプロファイリングする様子を眺めながら、素晴らしい特技だと称えていいのか、素直にキモイと言い放っていいのか悩みながら、ナディアはライ警部の方を見た。
「――ヤツの嗅覚は犬並みでしてな。そこに関しては我々も一目置いておるのです」
葉巻を口に咥え、アンニュイな様子でライ警部は応えた。
「……ということは、あのマッシュルームヘアの学芸員風の丸眼鏡の男が怪盗だったということになるのね? ……確かに、変な髪型だと思ったけど……まさか、ヅラかどうかなんて訊けるわけもないし」
犯人がどのような姿で潜入していたかを知っていたのに、何もできなかったことを悔しがるよう、ナディアが歯噛みした。
それだけ、ナチュラルなやり口だったのだ。
「その上、あからさまに生え際を凝視したり、髪の話題に触れたりするのは憚られますからな。そこを突いた見事な作戦ともいえます」
「一筋縄じゃいかないってわけね……」
「分かりましたよ! 身長175~178センチ、靴のサイズは27~27.5センチ。視力は恐ろしくいい。2.0は優に超えます。聴覚もかなり優れているでしょう。あとは……
「な、なんでヅラの残り香でそこまで分かるわけ?」
「当たり前ですよ。ボクはプロです。なんなら、ナディアさんの首筋の匂いから、昨日の朝食から夕食まで全部当て――ぐぉっ」
リー刑事が台詞を言い終える前に、ナディアの膝蹴りが炸裂していた。
「犯人のプロファイリング以外で、その能力を発揮しないでくれる?」
「うぐぐ……い、いい膝蹴りですね。いつも以上に……キレがあります……」
腹部を押さえてしゃがみこんだ彼が、微かに親指を立てた。
「怪盗を捕まえるための武術なのに、なんでいつもあんたが食らうのよ。――もう、ここに居ても仕方ないから帰るわ」
ナディアは台の上に置かれていたベルを手に取り、それを鳴らした。
しかし、それによって何かが起こる様子もなく、虚しく鳴り響いていた。
「デンギル? 寝てるの? 車出して欲しいんだけど」
「デンギルさんといのは、ナディアさんをこちらへ送ってこられたあと、ケータリングを手配された執事の方、ですよね?」
リー刑事が身体を起こしながら、訊いた。
「ええ。だけど……何してるのかしら?」
「ああ、その方なら、ケータリングの片付けをされたあと、すぐに引き上げられたようで……それから見ていませんが……」
「え? どういうこと? 何やってるのよ。わたしに1人で帰れってことなの?」
「我々が送っていけば問題ないじゃないですか。警部、ナディアお嬢さんをお送りしてもいいですか?」
ライ警部は頬を紅潮させているカイン・リー刑事と、険しい表情のナディアを一瞥すると、「リー、おまえはまだ事後処理があるだろ。そこのおまえ」と、制服の警官に声を掛けた。
「は、はい」
「お嬢さんを送って差し上げろ。そのあと、上がっていい」
「あ、はい」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! こ、こいつに任すんですか? ボクの方が安心安全確実に、お送りすることが出来るのに……!」
「俺にこれ以上、余計な気苦労を背負わすな。おまえに任せて、徐行しながら公道を進むようなことでもあったら、えらいことだからな。あいつの方が確実だ」
「じょ、徐行なんてそんな……渋滞を引き起こしそうな非常識なことなんて、するわけないじゃないですか‼ やったとしても、せいぜい街を何周かして引っ張ったあとに目的地へ送り届けるくらいでしょ⁉ 善良な警察官であるボクが悪さするわけないんだし、それくらいの役得、認めてくれたっていいじゃないですかぁーー! 鬼っ! 鬼警部――!」
「あ~~、うるさい。――急いでお送りしろ」
ぎゃーぎゃーと喚くリー刑事の首根っこを掴んだライ警部は、制服警官に向かって顎をしゃくった。
「ま、参りましょうか」
「助かるわ」
うちまで送り届けてくれるという警官に続き、ナディアは怪盗の襲来した画廊をあとにした。