王妃の部屋にシェランはいた。広い部屋。都の自室の数倍はある。
机の上に本を開いてなにかうめいていた。
「ええっと......」
そこには大鳳皇国官語で書かれた詩がまるでミミズのようにのたくっていた。
「これは『月』」
一文字ずつゆっくりと読み上げていく。
「これは......『猫』?」
大鳳皇国官語は上流階級のみが使う文字である。普段、シェランは全く使わない。
「そして、それは『走』」
すっと文字の上を人差し指でなぞる。
「最後は、『魚』か......」
大きくうなずく、シェラン。
「月に行った猫が走りながら魚を食べている......」
大鳳皇国でも有名な詩人の作品。教養のあるものなら読めて当然である。
冷や汗が出るシェラン。おかしい、これは確か男女の悲劇的な愛を歌った詩だったはずでは。
ふと指先を見ると黒く汚れていた。墨がついたらしい。
「あー、黒くなっちゃったよ」
はははと乾いた笑いをもらす。
やばい!これはやばい!
先日のファルシードとの会話を思い出す。
『期待している。都の貴人は様々な有職故実に通じていると』
通じてない!わからない!
シェランは思わず両手で顔をおおう。
詩だけではない。王妃がもっているべき教養を全く持っていないことに初めて気づいたのだった。
全く父親がそのような教育をしてくれなかった。
「......私自身もそれが嬉しかったからなぁ......」
自分のできることを考える。
「あ!はいはい!私、鉱物に詳しいです!虫とか動物とかにも!いっぱい父様に教えてもらったから!」
右手を上げて大きな声で叫ぶシェラン。
しかし、すぐにヘナヘナと右手は勢いを失う。
「......王妃が火薬調合してどうすんの。カエルの毒の有無とか知ってても役に立たないよ......」
化粧の仕方とかも正直、結構いい加減の自己流である。
皇帝から下賜された上等な化粧品があるうちは、なんとか誤魔化しもきくがそれを使い切ってしまったら......
「いろいろやばい」
父親の死のショックでなんか流れ流されてきたシェランだったが、ここに至ってかなり危機的な状況にあることを自覚したのだった。
もし自分が、全く役に立たない王妃ということがバレてしまったら......
婚約解消。
王都に返却。
皇帝の怒りを買い、処刑。
ひいいい、とシェランは思わず叫びを上げる。
「シェラン王妃様?入ってよろしいですか?」
びくっと反応するシェラン。侍女の声らしい。
「は、はい。どうぞ、どうぞ」
静かに扉が開く。
「夕食のお時間です。今日は大臣などを集めて内々のお披露目の宴とのことです。お召し物をおもちしました。着替えお手伝いします」
着替えたシェランは鏡の前で自分の姿を見る。
見たこともない異国のドレス。自分に似合っているのかどうかは分からないが、多分高級なものだろう。
「とにかくおしとやかに......上品に......」
ゆっくりと王宮の廊下を行くシェラン。その後ろには侍女が付き従う。
王宮の庭からそれを遠目に眺める使用人たち。
『あれが都からきた王妃様か』
『やはり、先進国の皇族様は違うのぉ。振る舞いも都会的じゃ』
『国王様は良い方といっしょになれたのう』
当然、そのような言葉はシェランには届かない。
大広間。
そこには家臣たちが酒肴を並べて待っていた。
オアシス都市の風習らしく、豪華な絨毯の上にあぐらをかいての宴である。
ファルシードも一段高いところで盃をかたむけていた。
おお!と家臣たちの歓声。
正装したシェランの姿を見つけたのである。ファルシードも気づき、ちらっとシェランの方を見る。
「......」
ぎくしゃくしながら、ファルシードの隣に座るシェラン。座り方は正座である。
「本日はかの大鳳皇国のご皇族、朱菽蘭(ジュ=シェラン)殿下をないないにお披露目いただく栄誉に預かりました。家臣一同、ファルシード国王陛下にただただ感謝するばかりであります!」
年長らしい家臣がそう叫ぶと、『乾杯!』の歓声が飛ぶ。
ファルシードは盃を前に突き出しながらそれに答えた。
震えが止まらないシェラン。手のひらには汗がにじみ出る。
「このような辺地ではありますが、とびっきりのごちそうを用意しました。どうかお召し上がりください」
眼の前の皿には見たこともない料理が盛られている。匂いは食欲を刺激するいい匂いで、見た目も美しい。
でも
この状況でご飯が食べられるとしたら、よっぽどの豪傑であろう。
普段は結構食べる方のシェランも完全に食欲を失っていた。
眼の前にある星型の果物......?なにかいっぱいトゲトゲがついている。
(これ、どうやって食べるんだろう......っていうか、こんなん食べ方知らないよ!)
さらに家臣たちがシェランの食べ方に興味津々でじっと見つめている。
『大鳳皇国の皇女はどのような優雅な食べ方をするのだろう』という視線。
あはは、と青くなる。もう精神的に限界に来ていた。いっそこの場を逃げ出してしまおうか――
その時に右手に触れる温かい感触。それは――隣りに座っていたファルシードの手であった。