俺の朝は、リンディ国の末姫ことエーヴァファリン・リンディ第三王女の護衛騎士として、彼女の私室の扉の前に控えるところからはじまる。
本来の護衛騎士の仕事は、主君が扉から出てきたタイミングから邪魔にならないよう気配を殺して外ならば前方、王城内や何かしらのパーティー、会議室内などでは後方にお仕えしお守りすることである。間違っても主君の私室、それも寝室などに足を踏み入れることなどあってはならないが、緊急事態とみなされる状況の時のみ入ることが許可されていた。
緊急事態とは例えば刺客の侵入が確認された時、部屋の中の主君の様子に異変を感じ取った時、そして。
「くそっ、今日もだな!?」
主君の脱走に気付いた時、である。
バンッと乱雑に開いた部屋の中には案の定誰もおらず、二階のバルコニーへ出る扉が開いている。
「今日は窓からか! あーもう、二階だから脱出できるんだ、いっそ三階とか四階に――配置されても脱走を試みそうだな……」
万一そうなって足を踏み外されたら大変だ。十九にもなってもまだ脱走癖のある主君にがくりと項垂れつつ、俺はそのままバルコニーから外を見る。幸いエヴァ様の気配が部屋にないことにすぐ気付いたお陰でどうやら遠くまでは行っていないようだが、私室から脱走した後は一度王城内へ入ったらしい。上からではどこかへ走り去ろうとしている彼女の姿は確認できなかった。
こうなってはいそうな場所をしらみつぶしに探すしかない。なんとしても王城の敷地内から外へ出る前に捕まえなくてはならず、俺はバルコニーの手すりをひょいと飛び越えた。
ソードマスターである俺は当然魔力を自在に操れる。魔女と呼ばれる一族のように魔力で何かを操ったりすることは出来ないが、代わりに自身の魔力を体に纏い身体強化が可能だ。
「全身に巡らす必要もないな」
今必要なのは着地時の足の強化のみ。そう判断した俺は足裏にだけオーラを纏い着地の衝撃に備える。足元に注意を向けながら、背後の気配も探っていた俺は飛び越えてすぐ自らの失態に気が付いた。エヴァ様、室内にはいなかったがバルコニーにいる。
「トラップかよ、小癪な!」
「主君に小癪な、は暴言よオスキャル! でも特別に許してあげる。アディオス!」
地面へと落ちていく俺にそんな言葉を投げたエヴァ様がにこりと笑って部屋の中へ入っていくのを落ちながら見上げた俺は、足裏にだけ纏っていたオーラの範囲を広げ太股までを覆った。
エヴァ様の脱走は今に始まったことではない。ソードマスターという国内に十人もいない実力者が護衛騎士として彼女に付きっきりになったのは、まさしくこの脱走癖のせいだった。彼女に対する悪意を跳ねのけ、そして彼女との追いかけっこに確実に勝つ人材としてソードマスターが専属候補に選ばれたのである。そしてそのソードマスターの中からエヴァ様の護衛騎士に任命されたのは他でもない、俺だ。
「そんな俺から逃げられると思わないでください、よっと!」
何度もバルコニーから脱走されていたせいで今日もだと思い込んでしまったことは失態だが、リカバリー出来ないほどのミスではない。
地面へと着地した俺はそのままグンッと足を曲げ、オーラで強化した足でそのまま再び飛び上がる。空中で体を捻った俺は飛び降りた高さと同じだけ飛び上がり、エヴァ様の私室のバルコニーへとジャンプひとつで戻ってきた。
「さぁ、追いかけっこは終了ですよ」
「ちょ、ちょっと! 流石にそれは卑怯だわ!」
一瞬で戻ってきた俺に慌てふためいたエヴァ様が、私室の扉から飛び出して廊下に逃げるか、バルコニーの扉まで戻り鍵を掛けて俺をバルコニーに閉じ込めるかを迷ったようにキョロキョロとする。
(チェックメイトだな)
結局猛ダッシュで私室から出ることを選んだエヴァ様だったが、一瞬の迷いは命取り。あっさりと彼女を確保した俺は、にこりと微笑んだ。
「さぁ、家庭教師の先生がお待ちですよ」
「うぐぐ……」
そうして俺は今朝の攻防を無事に終え、彼女を家庭教師の元へ連行したのだった。
◇◇◇
「お疲れ様でした、エヴァ様」
俺がにこりとそう告げると、勉強を終えたエヴァ様がムスッとした表情で近付いてくる。勉強内容にももちろんよるが、護衛騎士である俺は彼女が授業を受けている最中も扉の近くで控えていた。
俺自身も一応は伯爵家出身でそれなりにマナー教育を受けてはいるが、やはり王族が受けるものは俺が受けたようなものとは全然違い指先の動かし方まで厳しかった。公務に出ていないせいで忘れ去られた亡霊、居なくても気付かれない存在と揶揄され『幽霊姫』とあだ名されている彼女だが、きっといつか堂々と現れた彼女を見た人たちは、自身が噂していた内容に恥じることとなるだろう。
「すっごく疲れたしお腹がすいたわ。誰かが私を突き出したせいで」
「ハイハイ。で、今日はどうされますか?」
「んー、そうね、今日は離れの裏で食べようかしら」
「かしこまりました」
結構適当な返しをするが、俺のそんな不遜な態度は気にもしないエヴァ様は、どこで昼食を食べようか考えて俺にそう答えた。
主君の希望を聞いた俺が近くにいたメイドへ声をかける。バスケットに簡単な軽食を詰めてくれるよう、厨房担当への言伝を頼み、そのまま俺はエヴァ様を一度私室へと送った。彼女の着替えのためである。