「お父様、お願いがありますの」
「おやナディス、どうしたんだい?」
朝食が終了し、のんびりとお茶を楽しもうとしていた父・ガイアスに、ナディスは可愛らしくおねだりをする。
にこやかに告げられた内容は、その日ヴェルヴェディア公爵家をとてつもなく驚かせるものだったのだ。
「お父様、わたくし殿下の婚約者候補は、もう嫌です」
「…………ん?」
にっこりと、まるで天使の微笑みを浮かべてさらりと宣言したナディスを見て、ガイアスは目を丸くしている。
確かに、今回の婚約は王家から『是非ナディス嬢を王太子妃候補に』と懇願されたものであって、ナディス自身が望んだものではない。しかし、王家からの打診とあれば、そうそう簡単に『はい、それではなかったことに』というわけにはいかないのだ。
「……ナディス、急にどうしたんだい?」
「なぁに?」
「いや、だって……今は王太子妃候補の勉強だって……」
「つまらないわ、あんなもの」
「つまらない!?」
「あなた……」
こっそりとターシャが耳打ちする。
内容は、つまりこうだ。
ナディスは初めて行うことでも、王太子妃候補として『やれ』と言われればあたかも最初から知っていたようにしれっとこなしてしまう。
同じ王太子妃候補であるロベリアのやってきた内容に、あっという間に追いついただけではなくて、彼女をいとも簡単に追い越しにかかっている、ということなのだ。
だが、別に自分は王太子妃候補になって、のちの王太子妃になりたいとも、思っていない。王妃なんてもっと真っ平ごめんなのだから。
「な、ナディス……」
「なぁに、お父さま」
「しかしお前は少し前までは、王子様かっこいい!! って……」
何だそれ、とナディスは自分の記憶を急いで思い起こす。
<ツテヴウェ!>
<これっしょ>
頭の中で叫んで呼ぶと、望んでいた記憶がぱっと再生されてくる。
その中ではナディスが『王子様って、とってもかっこいいのね! お父さま、わたくし将来あんな人と結婚したいですわ!』と叫んでいる。何してくれてやがるんだ、ちょっと前のわたくし! と罵倒してから、すぐに困ったような笑顔を浮かべる。
「あらお父さま、実際に見てみたらお父さまの方がかっこよかった、っていうだけですわ」
「そうかい?」
「あなた」
可愛い可愛い愛娘にそういわれた瞬間に、ガイアスの表情がでれりと崩れ、ターシャに軽く叱られてしまった。
「だって仕方ないだろう? ナディスがこんなにも可愛いことを言うなんて!」
「それは確かに可愛いですが、王家からの打診ですのよ……?」
「そうなんだよなぁ……」
両親がうんうんと唸っている様子を、見ていたナディスだったがふと思い立ってにこり、と微笑んだ。
「お父さま、お母さま、わたくしがこの家の跡取りとなることが大前提だったのかもしれませんが、それって、一旦なかったことになります?」
「……へ?」
実はもう始まっていた当主教育。
ナディスは前回の知識をフル活用していたから、家庭教師から大変評判が良かったのだが、『ヴェルヴェディア公爵家の跡取りだから王太子妃候補となることを避けたい』のであれば、別の道を自分で用意してしまえばいい。
――そう、例えば。
「家のことがあって、王家がわたくしをどうにかして……と仰るのであれば、わたくし、他国へ嫁ぐことだって問題ありませんもの。当家は……そうですわね、おじさまのところの次男、カイトを養子に引っ張ってくれば良いのではないでしょうか」
前回、ナディスの代わりに当主教育に臨んでいたナディスの従兄であるカイト。
同い年だから、ナディスとも仲がいいし、ガイアスの弟であるエルネストとガイアスも仲がいい。
「だが、ナディスは本当にそれでいいのか!?」
「はい」
あっけらかんと言い放ったナディスと、まさかこんなにあっさりと公爵家の跡取り問題をかいけつできそうな案を出してきてしまうだなんて……とガイアスはぽかんとする。
ナディスがいくら頭がいいとはいっても、まだようやく七歳になろうかという娘があっという間に提案してくるだなんて思っていなかったのだ。
「とはいえ……せめてナディスが王立学園に入学してからの話にしておこう」
「どうして?」
「ナディス、貴族として王立セントヘレナ学園に通うことが義務付けられているのは知っているわね?」
「はい、お母さま」
「試験だってもうすぐでしょう?」
「勉強はしておりますもの」
「……」
この子、いつ勉強していた、と両親の背中につつ、と揃って冷や汗が流れるのを感じた。
王太子妃教育も、当主教育も、入学試験の勉強も全て同時進行、という離れ業を披露していること、ナディス自身も気付いているが何せ彼女は二回目を悠々自適に謳歌している。
王太子妃教育なんて、前回結構早めに終わって王妃教育に進んでいたナディスだったから基礎学習なんて寝ていても理解できるというものだ。
そして学園の入学試験に関しては、前回の知識をまるっと持ったままにやり直しをしているために、先日過去の入学試験問題を試しに解いてみたところ、あっさり満点。
<二回目だもんなー>
<ええ、ありがとうツテヴウェ>
<姫さんの執念が引き起こした奇跡なんだから、別にお礼はいらんって>
<あとで改めてケーキでもいかが?>
<チョコたっぷりのやつで>
<太りますわよ>
<運動するもーん>
こいつ、悪魔の威厳はどこに捨ててきたんだ……? というレベルで、ツテヴウェはすっかりナディスに懐いていた。
ナディスの傍にいると、常にとてつもなく質の良い魔力がもらえるというだけではなく、寝床だって最高に居心地がいい。そして、ナディスが幸せを感じれば感じるほどに魂の質がどんどん上がっているのだから、ナディスのことを想って行動しないわけがない。
「ナディス、ちなみに試験は明後日だけど準備は万全かな?」
「勿論です、お父さま」
「そういえば、殿下やロベリア嬢も同じ学園に行くのよね」
「恐らくそうですわ。でも、セントヘレナ学園は入試の成績によって最初のクラス分けがなされるでしょう?」
「まぁ、良く知っていたわね。えらいわ」
優しくターシャに頭を撫でられたナディスは、猫のように目を細めて微笑む。
二回目とはいえ、母に頭を撫でてもらえるのはとても嬉しい。たとえ、やり直しをしていて二回目の人生とはいえ、嬉しいものは嬉しいのだ。
「お母さま、わたくし念のために問題のおさらいをしたいですわ」
「そうね、お母さまもお父さまも邪魔なんかしないから、今日はお部屋でゆっくり過ごしなさい。王太子妃教育も、今日はお休みなのでしょう?」
「はい! ロベリア嬢が少し遅れているのでわたくしはちょっとだけお休みをいただきましたの!」
「まぁ……!」
なんて優秀なのだろう、とターシャの微笑みは一層美しくなる。
クレベリン家が決して悪いわけではない、単に本人の努力の問題だろう、とターシャは心の内でため息を吐いた。
人の家の子をこうやって無理に王太子妃候補なんかにするから、比較されるようになってしまったわけだし。こちらはお断りしようと丁寧にあいさつまでしてやったのに、馬鹿なこと……と、王家に対してもクレベリン家に対しても心の中で毒を吐いた。
一方、おかげでナディスの優秀さが露わになって、あっという間に有名人になってしまったのだが、それは別に宣伝しようと思ってそうなったわけでもないから、ある意味ロベリアのおかげともいうべきか。
何はともあれ、ナディスが嫌がっていることだし、王太子妃候補にナディスをする際の書類を引っ張り出してきてしまえば、どうとでもできる。
万が一のことを考えて、ありとあらゆる準備をしておくに越したことはない、とガイアスと話して用意していたものが、今ここで役に立ちそうだ、とターシャはほくそ笑んだ。
あの王家がナディスを欲しがる理由なんて、ミハエルの後見としてヴェルヴェディア公爵家を手放したくない、という安直な理由だけなのだから。