ばふ、とクッションを床にたたきつけたロベリアは、ふーふーと荒い息を吐いていた。
「何で! 何で何で何で!!」
どうしていきなりあの人が王太子妃候補として名乗りを上げてきたのか、どうして自分という王太子妃候補がいるというのに、王家は更なる候補を持ってくるのだろうか。
ロベリアがいくら考えても結論など、いいや、彼女の望んだとおりの答えなんか出るわけもなかった。
「お嬢様、失礼いたします……お、お嬢さま!?」
「……何よ」
ぎろりと睨んでくるロベリアに、ロベリアを小さいころから世話している乳母がぎょっとした。普段と全く異なっている様子のロベリアに、慌てて駆け寄ってから心配そうに見つめた。
「お嬢様、一体どうされたというのですか……!」
「…………が」
「え?」
「あいつが!」
「あい、つ……?」
ばっと顔を上げたロベリアの顔は涙に濡れていた。
王太子妃候補の勉強がどれだけ辛くても、こんなに泣いているロベリアなんか見たことがなく、乳母はただおろおろとするしかなかったのだ。
「あいつ、とは……あの、最近王太子妃候補としてやってきているという、ヴェルヴェディア公爵令嬢、でございますか?」
「そうよ!」
ああ、なるほどな、と乳母はすぐ色々と理解した。
というか、王家の見え透いた意図が何となく察せてしまったのだが、幼いロベリアにとっては『自分こそが王子様にも王家にも選ばれた優秀な王太子妃候補』なのだから、いきなりやってきたナディスのことが気に食わないのも仕方ない。
……だが、優秀な人材がいれば、これがロベリアでなくとも、ナディスであっても、誰であろうと王家は人材として持ってくる。
ただ、それだけなのだが、きっと事実を告げたところでロベリアは納得なんかしないだろう。
困った、と小さくため息を吐いた乳母は、ロベリアと視線を合わせるようにしゃがみ込んで、よしよしと優しく頭を撫でてやった。
「お嬢様がご不安になる気持ち、このばあやはよくわかりますよ」
「……本当?」
「はい」
にこ、と笑ってくれた乳母に、ロベリアはぱっと顔を輝かせる。
「なら、お父さまにお願いしたらあの女を排除できるかしら!」
「……ええと……」
目をきらきらさせながら言った内容に、乳母は苦い顔をする。
そもそも、『あの』ヴェルヴェディア公爵家を排除なんかできるわけがない。
使用人仲間の間ですら、有名な話になっているのだ、今回の『王太子妃候補の追加』については。
「お嬢様……それは、難しいかと……」
「どうして!?」
「家柄を……お考え下さい」
「いえ、がら……って?」
ぼんやりと呟いたロベリアは、ここでようやく気付いた。
「(そうか! あいつ、ミハエル様に近付きたいから、家の力を最大限使ったんだわ!)」
とんでもない勘違いであるが、世の中の王太子妃、あるいは王子妃を目指しているご令嬢からすれば、こういう思考回路になってしまって当然なのかもしれない。
昔のナディスならば、これが正解だったのだが……今のナディスに関しては全く異なっているというのがとっても痛いところ。
しかもナディスはミハエルを眼中に入れていない。それどころか、眼中からはじき出している。
「(それに、あの人のことだから、特別授業を王妃様にお願いしているかもしれないわ! きっとそうよ!!)」
ロベリアの勘違いは、どんどんと加速をしていく。周りが止めれば良かったのだが、周りはロベリアの癇癪がこれ以上ひどくならないようにするためで精いっぱいで、そこまで気が回っていなかったことも、最悪の要因の一つとなってしまっているのだが、今は誰も、それに気付いていなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「卑怯者!」
「……は?」
出会い頭、開口一番にロベリアに怒鳴られたナディスは盛大に不服そうな顔をした。
表情を簡単に変えてはなりません。と指導されていたとしても、この罵倒は意味が分からなかったし、ナディスには罵倒されてしまう謂れはどこにもないはずなのだ。
「一体何ですの?」
嫌悪感すら隠すことなくナディスがぎろりと睨んだ途端、ロベリアは『うぐ』と、令嬢にあるまじき声音で悲鳴のようなものを上げてしまった。
「誰が、卑怯なのか、お教えいただいてもよろしくて?」
「あ、あなたです!!」
<おいおい、ナディス! お前卑怯だってよ!>
<でしょうね。だってわたくし、やり直し中なんですもの>
<あっはっは!! そりゃそうだ!!>
<あなたのおかげ、なんですけどね>
<お、おう>
はて、とナディスはこっそり首を傾げる。
一体何でツテヴウェが照れ臭そうにしているのか、と思う。そもそも取引を吹っかけてきたのは向こうだろうに、と思いつつナディスは改めてロベリアへと向き合った。
「……というか、何を持って卑怯だと仰ったのかしら」
「貴女、家の力でミハエル様の婚約者候補になったのでしょう!? 私は必死に努力をして、そして家の力もあって、こうしてここにいるというのに、貴女は家の力だけで!!」
うわめんどくさ、とナディスは内心苦虫を嚙み潰したような顔になっている。
どうしてそんな発想になったというのか、全くもって理解に苦しむことしかできない。
「きっと、ミハエル様のことがお好きだから、無理やり王太子妃候補になったに決まっております!! ええ、間違いないわ!!」
「(馬鹿なんでしょうかしら、このクソ令嬢)」
<おいナディス、口悪い>
<悪くなったの、当たり前じゃないかしら>
<いやまあ、そうだろうな>
<……あのクソのことを、この、わたくしが……?>
<おう落ち着け>
心の内の会話で、ツテヴウェと会話しているのだが、さすがのナディスのキレっぷりには驚いているらしい。
<落ち着いていられまして?>
<そこは頑張って落ち着いてもらっていいか?>
きっと、ツテヴウェがいなかったら、ナディスは問答無用で思いっきりロベリアのことをひっぱたいていたに違いない。何なら、今まさに殴りかかろうとしているのを、鋼の精神で必死に堪えているところだ。
「認めなさいよ! じゃないと説明がつかないの!」
「…………あなた…………」
「何よ!?」
「……大バカ者、ですわね」
「は!?」
ナディスは淡々と。
しかしロベリアは感情むき出しで怒りまくっているのだが、では、ここはどこなのだろうか。
「…………ロベリア嬢」
ナディス、ロベリアがいる、ということは。
「大体ねぇ、貴女は最初から気に食わなかったの!」
「……」
「……ロベリア嬢」
「ああもう何よ、うるさいわね!」
ロベリアが勢いよく振り返った先、王太子妃教育に力を貸してくれている夫人が鬼の形相で立っているではないか。
「……え」
なお、これについてはナディスはばっちり見ていた。
ロベリアがめちゃくちゃに怒鳴り散らしている間に、いつの間にか教育係の夫人が歩いてやってきたのだ。
ちなみに、割と早い段階からこの夫人は二人のいざこざを見ていた。はたしてどうやって解決するのだろうか、と興味津々だった、という方が正しいかもしれないのだが、思った以上にロベリアが暴走し始めてしまった。
ちなみに、ここは王宮の廊下。
人通りが少ないところだとはいえ、いつか誰かは通るところなのだから、あれだけ騒いでいては嫌が応にも目に入ってきてしまう、というもの。ましてそれが王太子妃候補の二人ならばなおさら、である。
「貴女が誰よりうるさいということはご理解なさっておいでですか、ロベリア=フォン=クレベリン」
「あ、の……」
「……」
ナディスは叱られ始めているらしいロベリアを、心底興味なさそうに見つめているだけだった。
――だって、本当にどうでもいいから。
<ねぇツテヴウェ、わたくし帰って良いと思う?>
<やめとけ姫さん、お前が困る>
<何よその姫さん、というのは>
<俺がお前につけたあだ名、的な>
はは、と笑い声が聞こえ、まぁそれくらいならば好きにさせておけばいいか、とナディスはツテヴウェに構うのを一旦やめた。
ロベリアは教育係の夫人にそこそこ叱られているのだが、そんなものにナディスは興味がない。だから、すい、と夫人の近くに行ってこう告げた。
「夫人、大変申し訳ございませんが……本日は公爵家の跡取り教育が優先される日でございますので、わたくしは失礼させていただいてもよろしいでしょうか?」
「……問題ございません、ナディス嬢。ごめんなさいね、ばかげたことで時間を取ってしまって」
「いいえ、わたくしは、問題ございません。失礼いたしますわね」
にこり、と微笑んでナディスはその場をさっさと立ち去った。
ミハエルが、このやりとりを聞いていたことには、気付かないまま。