「何をしているのですか、ロベリア嬢!」
「きゃあ!」
バチン! と容赦なく振り下ろされてしまう鞭。
出来ていなかったから、と掌を上にするよう命じられたロベリアの広い手に、それは容赦なく痛みを与えた。
「う……」
「何と情けない……! 同じ間違いを繰り返すなど、言語道断!」
王太子妃の教育係として招かれた夫人に関して、ナディスはよく見覚えがあった。一度目で、ナディスも容赦なくあの鞭に痛い目にあわされたのだから。
<ひー、痛そうだなー>
<ええ、とっても痛いわ>
ロベリアとナディスが、一体どう異なっていたのか。
単純なこと、ナディスは同じ間違いを二回しなかったこと。加えて、同じ間違いをしないように、家で徹底てきに復習をしていたからだ。
どうやらロベリアは問題ないだろう、と己の実力を過信しているらしいが、何せこの教育係の夫人は容赦がない。一度覚えたことは間違えてはならない、というのが彼女の持論。
もっとも、彼女はそれをやってのけるほどの実力があるからこそ、それが言えてしまうのだが。
「……後から教育を始めたナディス嬢に追い抜かれるだなんて……!」
「……!」
そしてこれはきっと、ロベリアにとって一番屈辱的な言葉なのだろう。的確に逆鱗に触れてきているが、事実なのだからロベリアは何も言えない。
決して、ロベリアが優秀でないというわけではない。
「(ただ、わたくしの努力に負けているだけよ、ロベリア)」
心の中の声は決して聞こえないようにしつつ、ナディスは言われるがままにじっと立っている。
重心がぶれないように、背筋を伸ばして真っすぐ、そして頭に乗せた本を落とさないようにバランスもとる必要があるのだが、手を前でやんわりと組んでいることでほんのちょっとバランスを崩してしまえば、あっという間に頭に乗せた本は落ちる。先ほどのロベリアのように。
「ナディス嬢、そのままゆっくり歩きなさい」
「はい」
指示される通り、ナディスはゆっくりと一歩目を踏み出した。
慎重に、だが、決して足元を確認することなく丁寧に一歩ずつ歩みを進めていく。
「まぁ……!」
視線を下に落とすこともなく、静かに歩いているナディスを見て、教育係の夫人がとても嬉しそうな声を出した。
これこそ王太子妃を目指すものの姿だ、と感動でもしているのかは分からないが、表情までもを明るくして、指定された距離を歩き切ったナディスの元へと駆け足で歩み寄る。
「素晴らしいです、ナディス嬢! とても優雅な身のこなし、体感もぶれていない、ええ、大変素晴らしいとしか言いようがございません!」
「恐れ入ります」
本を頭に乗せたままで、カーテシーを行うという器用なことをしれっとやってのけたナディスは、本を頭の上から取って、くるりとロベリアの方を見て、にっこりと楽しそうに微笑んで、こう告げた。
「きっと、ロベリア様はわざと下手なご様子を見せてくださったのですわ。でなければ、わたくしよりも早く王太子妃教育をやっている方が……このような失態を、犯すはずもございません」
暗に『お前、私のために手を抜いてくれていたのよね』と告げてみれば、ロベリアは悔しそうに顔を真っ赤にしている。
ロベリアは決して手を抜いてなどいないから、ナディスのこの発言はとんでもなく彼女をイラつかせるだけだろう。
<恐ろしい女だな、お前>
<あら、前回はこいつに冤罪ふっかけられてしまったんだから、これくらいの戯れなんてとぉっても可愛らしいじゃないの>
<ははっ、違いない!>
けらけらと笑っているツテヴウェの声が頭に響いてきて、ナディスは自然と微笑みが浮かぶ。
まるでそれは、怒り狂っているロベリアのことを嘲笑っているようにしか見えなくて、ロベリアはかっとなってナディスに掴みかかろうとしたが、あらかじめ用意してあったツテヴウェの防御魔法が自動で発動した。
「きゃあ!」
「……あら」
え!? と慌てている教育係の夫人がロベリアに駆け寄るが、しれっとしているナディスは可愛らしく見えるように首を傾げてみせた。
「まぁ、ロベリア嬢どうなさいまして?」
「……何したの」
「え?」
「何したの、って聞いてるでしょう!?」
「わたくしは、何も」
そう、ロベリアは何もしていない。
ちょっと不安だから、ツテヴウェの防御魔法をかけてくれない? と、ナディスはここに来る前にお願いしていただけで、それが今発動しただけなのだが、ロベリアからすればナディスが何かしらの妨害をしていたようにしか映っていなかっただろう。
悲しきかな、ツテヴウェは悪魔なのでナディスの魔力反応を真似することだって簡単にできてしまった。
だから、魔力反応を調べられるとナディスが悪いように思えてしまうかもしれないのだが、今、この場においては『ロベリアが先にナディスにいちゃもんを付けようと掴みかかろうとしていた』ようにしか見えない。
「あの……わたくしは何もしておりませんわ」
「……っ」
「自分からは、ね」
ダメ押しをするかのように付け加えてからナディスが微笑むと、ロベリアは悔しそうに歯ぎしりしている。
だが、そうしたところで何も変わらない。
教育係の夫人の眼差しはどこまでも鋭いし、ロベリアをじっと見つめている。それに気づいたロベリアがそちらに視線をやった瞬間、がっちりと腕を掴まれてからナディスと引き離す……までは良かった。
「い、っ……」
「自分が出来ていないからと、ナディス嬢を睨むだなんて言語道断でしょう! ロベリア嬢、何を考えているのですか!」
言い切られた言葉の内容に、ロベリアは悔しそうにして渋々ながらナディスに対して頭を下げた。しかし、それを更に下げさせるようにがっちりと頭を掴まれてから、ぐいっと更に下げさせられた。
「ナディス嬢、誠に申し訳ございません」
「気にしておりませんわ、わたくしは家でも似たようなことをしておりますし……」
笑っているナディスだが、言外にこれまたロベリアを小ばかにしている。
意味が早々に分かったツテヴウェがげらげら笑っているのを聞いたナディスは、困ったように声を送った。
<ツテヴウェ、そのように笑うものじゃなくってよ?>
<いやだって、めっちゃ面白い……!>
きっとナディスの部屋でころころと愛らしい黒猫の姿で転げまわりながら爆笑しているのだろう。
なお、猫に擬態しているツテヴウェは、ヴェルヴェディア公爵家のアイドル的な立ち位置となって、すっかり溶け込んでいる。
メイドたちは『猫ちゃん待って~』とメロメロだし、ナディスの専属メイドでさえ、普段ツテヴウェをじっと見てから『お嬢様、どうかラヴェちゃんを撫でさせていただけますと……』と懇願したところ、ナディスからあっさりと許可が下りてしまった、という話もあるのだが『それは、それ』なのだ。
そして、一旦それは置いておくとして、ツテヴウェはしっかりとナディスと視覚共有をしつつ、やらかしを披露しているロベリアの観察をしているのだが、見事すぎるほどに墓穴を掘っているのだから楽しくて仕方ないだろう。
<いやー……お前、何で前はコレに負けたんだ?>
<わたくしが以前好きだったクソのせいよ>
<あっはっは!!!! 恋心っつーか感情は本当に消えてるな!!>
<だって、それを代償にしたでしょう?>
それはそうだ、とツテヴウェはまたげらげら笑う。
見事すぎるほどに、ナディスの心の中には『愛しのミハエル様』は消え去っている。
だから、二回目の初対面に関しては何の特別な想いも抱かなかったし、前に見せたような一目ぼれのようなものもなかったし、『まぁ何かおるけど、イケメンなだけの馬鹿だもんなこいつ』という感情しか持っていない(現在進行形)。
「けれど、ロベリア嬢もわたくしもこれから……です。ねっ、ロベリア嬢」
そうですね、以外の答えを封じ込めるようなナディスの言葉に、ロベリアは引きつりながら微笑むことしかできなかったのだった。