大切なもの。
そんなもの、簡単だ。未だナディスの胸に燻っている『想い』そのものを差し出せばいい、それだけのこと。ナディスにとってはとても、ある意味で命よりも大切なものなのだから。
他に何を差し出せるのだろうかと考えてはみたけれど、一番手っ取り早いのはこれなのだ。この想いが一体どれだけ重たいものなのか、当事者であるナディス自身が一番よく理解している。だからこそ、こんなものをさっさと無くしてしまえば、すっきりもするし巻き戻せるし一石二鳥、というわけである。
「おや、心は決まったのか」
「ええ」
ふ、と微笑んだナディスに、何か裏があるのかとツテヴウェは一瞬考えたものの、決意は固そうだと察して改めて手を差し出した。
「さぁ、この悪魔の誘いに乗るか? 乗るなら我が手を取るがいい。そして対価と望みを言え」
「……」
ナディスはすい、と己の手をツテヴウェの手に重ねる。
大きく深呼吸して、良く通る声で告げた。
「我が望みは、愚か者共への復讐と、我が幸せ! 差し出すものは、……あの王子。ミハエルへの恋心、感情、思い、全て、何もかも!」
「……へぇ」
ナディスの言うものを受け取ろうとツテヴウェが己の力を発動させたところ、思った以上の力が一気に流れ込んできた。
「は、ははっ……!」
対価を、といえば大体自分の命を、と差し出してくる人が多かった。
または、自分の全財産、という人も多かった。
それなのに、このナディスは、己の感情や想いというものを差し出すというではないか。
「あはははははは!! 笑ってしまうほどの重さだな、これは!」
「……フン、あの馬鹿を想い続けた十年以上をお前にさす出すんだから、重くて当たり前でしょう?」
全ての想いを渡し切ったナディスは、とてもスッキリした顔になっていた。
それだけ彼への想いが強く、愛していたという証拠にもなるだろうが、残念ながらもうミハエルは彼女のこの献身的すぎる愛を受け取れることはない。
これを反面教師の形として、ナディスは彼を含めた自分に対して害成したものへ、全てをかけて復讐すると決めているのだから。
「……確かに、受領した」
「力は十分にあって?」
「はは、十分すぎるほどだから、オマケをやろう」
「……オマケ?」
ツテヴウェからの提案に、ナディスは怪訝そうな顔をする。
「お前……って、そろそろ名前を聞いた方が良いな」
「ナディスよ」
「……そんな呆気なく教えて良いのか?」
「ええ、悪魔って対価を受け取った以上はきちんとこちらに協力する義務が発生するものですから」
「……あーあー、頭が良すぎるのも考えもんだが……まぁいい」
ツテヴウェは困ったように呟くも、ナディスに対して膝まづいた。
「これから俺は、お前に対して害成すもの全てから守る。……ずっと、そばに付き従うことを、ここに約束するものなり」
「……?」
はて、とナディスは首を傾げた。
もう既に守る、という宣言をしているのに、一体どういうことなのだ、と思っていると顔を上げたツテヴウェと目が合った。
「言葉通りだ。いつ、いかなる時も守れるように、姿を変えて俺はお前のそばにいよう」
「……ああ、守護獣のようなイメージかしら」
「そうだ、そんな神聖なものじゃないがな」
「だとしても、周りへのけん制にはなるから良いんじゃなくて?」
ナディスは理解も早く、ツテヴウェの言わんとしていることに対してすぐに頷き、了承してくれた。
これに気を良くしたツテヴウェは、早速、と言わんばかりにとん、と軽く飛んでからくるりと空中で一回転する。そうすると小さな猫の姿へと変化して、ナディスの元へととことこ歩いてきたのだ・
「あら、可愛い」
「だろう?」
「でも、わたくしの前でのみしゃべった方が良いと思うわ。不気味だもの」
「……遠慮、って知ってる?」
「ヴェルヴェディア公爵令嬢たるわたくしが、どうしてそんなことを?」
「……」
まぁ、言われてみればそうなのだが、まさかこんなにもさっくりと言い切られるとは思っていなかった。
だが、ナディスから受け取ったこの力のおかげで、ナディスの望んだ以上の復讐がやり遂げられるかもしれないどころか、むしろ相手が可哀想なくらいにぼっこぼこにされてしまうかもしれないが、それはツテヴウェの知ったことではない・
「まぁ、ともかく。これからよろしくな」
「よろしく。……で?」
「ん?」
「どこまで戻してくれるというのかしら」
あー、とツテヴウェが唸ってから、一旦元の姿に戻った。
「どこまで戻りたい?」
「……そうね……」
ナディスはじっと考える。
もしも、婚約した後に巻き戻った場合、婚約の解消がとてもめんどくさいことになる。それどころか、ある程度ナディスが優秀なことを王妃に見せつけているから、あの強欲な王妃がナディスをそう簡単に手放すとも思えない。
まぁ、ついうっかりナディスが気に入られるように行動していた、ということも原因の一つではあるのだが。
色々バレた直後に戻されても、それはそれで厄介なことになるから、これも却下。
だとすれば、いつがいいのか。
そして、戻る際のおまけもナディスはほしいと考えた。
「ねぇ」
「ん?」
「どうせ戻るなら、記憶は引き継ぎたいのだけれど」
「あー」
言われてみればそうだよな、とツテヴウェは考える。そしてすぐににこりと微笑んでみせた。
「了承した、では契約者ナディスの望みのままに戻そう。記憶の他は何かあるか?」
「そうね……」
他と言われても、すぐには思いつかない。
記憶が持ち越せるだけでも相当なアドバンテージがあるし、王妃や国王を出し抜けるだけではなく、あの馬鹿ともう婚約しなくても良いということだから、これ以上に何かあるか……とナディスは考えたが、ふる、と首を横に振った。
「特にないわ」
「そうか?」
「ええ、望みすぎてもいけないかしら、と思って」
「懸命だ」
に、と双方笑い合う。
まさかナディスが悪魔と契約するとは、誰も思わないだろう。むしろ、そこまで強い恨みを抱くだなんて想像するのはミハエルくらいかもしれないが、あのミハエルはそこまで思慮深くもない。
「……では、よろしくね。ツテヴウェ……って長いわね、猫ちゃんになっている間は適当に縮めて呼ぶわよ」
「俺の意思は?」
「何であると思っているのかしら」
「……へいへい」
笑いながらツテヴウェは再び猫の姿へと変身し、そしてナディスの前にふっと浮かんできて、前足をぺた、とナディスの額に当てた。
ナディスの額に不思議な形の魔方陣が浮かび上がり、一瞬眩く光り輝いたと思えばナディスは真っ白な空間へと投げ出されたのだ。
「……っ!」
浮遊感のような、落下しているような、不思議な感覚に包み込まれたかと思えば、一気に周りが暗くなる。
「(気持ち、悪い……!)」
得体のしれない感覚に襲われたナディスだが、これに耐えれば戻れる、という思いを抱き、必死に耐えた。
どれぐらい待ったのか、分からない。
だが、ふっとナディスを襲っていた奇妙な感覚がおさまったかと思えば、足が地についているような感覚になっている。
「……?」
「お嬢様、猫ちゃんを飼うならまずは旦那様と奥様にお伝えしませんと……」
「え……」
ナディスがぱっと顔を上げれば、そこにはナディス専属侍女が困ったように笑ってナディスを見つめている。そして、ナディスの腕の中にはぱちん、とウインクをしているツテヴウェがいるではないか。
「そう、ね」
なるほど、こうやってヴェルヴェディア公爵家に居つくのか、とナディスはツテヴウェをじっと見降ろしてから、優しく頭を撫でた。
「じゃあ、お父さまとお母さまにお願いしてくるわ」
「そうなさいませ、きっとお二方は快く受け入れてくれます」
「ええ、行ってきます!」
にこ、と可愛らしくナディスが微笑んでみれば、侍女は表情を優しいものにする。
そして、いってらっしゃいませ、と背中を押してくれた彼女に、ナディスはもう一度微笑みかけて慣れ親しんだヴェルヴェディア家の廊下を歩き始めた。
「……さぁ、お覚悟なさいませね、殿下」