「……ここは……」
むくり、とナディスは起き上がった。見渡す限りの『白』なので、ここは恐らく現実世界ではないのだろう、と容易に想像できてしまうあたりが悔しくて、辛くてたまらない。
恐らくナディスは心臓を一突きされて、呆気なく死んでしまったようだ、と想像する。確か胸元に激しい痛みを感じたような気がするが、如何せん、目が覚めたらここにいたのだ。
生きている内に来るような場所ではない、とすればやはり自分は死んでしまったのだろう、ととても冷静に『今』を受け止めることにした。喚き散らしたところで、結果として何も変わらないのだから。
「わたくし……あの人に……いいえ、あの人の指示で、ころされ、て……」
言いながら、ぼんやりとしたナディスの目に、じわじわと光が灯る。
それは、普段の穏やかなものではない、苛烈そのもの、怒りの現れだった。
「あの……男……!」
あんな奴を愛してしまって、自分の運命はこんなにも簡単に、あっけなく破壊された。ふざけるな、とナディスは激しく憤った。
自分のできなさっぷりを棚に上げて、どうしてこちらばかりを責め立てるのか、と思うと何とも腹の立つ話だ。
「へぇ……殺されてシクシク泣いてるかと思えば……とんでもないぎらつきの魂に変化しやがった」
「……誰」
怒りで目がぎらついたままのナディスは、ひたりと声の主を見据える。
「そうだな、アンタらの感覚で言えば……『悪魔』ってやつ」
「おふざけになるの、おやめになってくださいませね」
「ふざけてないって! いやだなー、俺はアンタのためを思って……」
「うるさい!」
ナディスが叫んだ瞬間、その『悪魔』は慌てた様子で手をぶんぶんと大きく振った。
「待った! マジで俺はアンタの力になりたいんだって! 憎たらしいんだろ!? やり返したい、って思ってんだろ!?」
その言葉に、ナディスの怒りが一瞬霧散した、ような気がした。
降参しました、と言わんばかりに両手を挙げている悪魔とやらは、にこ、と人懐こい笑顔を浮かべてから、ナディスの方に一歩歩み寄る。そして、恭しくお辞儀をしてから自己紹介をし始めた。
「初めまして、ニンゲン様。俺の名前はツテヴウェ、策謀の悪魔 ツテヴウェ。以後お見知りおきを」
「……策謀の……悪魔?」
「そう!」
「……」
ナディスは、じっと考える。
そもそも、悪魔というものと契約すれば、死後、魂を持っていかれると聞いているし、そうやって知識を得ている。
だが今のナディスは、既に死んでいるのではないだろうか。
だとすれば、ナディスの魂はこれから天に召されるはずであるから、今更悪魔が何の用があるのだろうか、とナディスは警戒心を見るからに露わにした。
「あっはっは、いい度胸だ! そう、俺だって何も無駄にアンタに声をかけたんじゃない」
ツテヴウェが、ナディスの目の前に一気に移動してきて、すい、とナディスの首に手をかける。
「……!?」
あまりに一瞬すぎたせいか、ナディスの反応は遅れ、逃げようとしてもナディス自身の華奢な首ががっちりと掴まれているから、逃げることは難しそう、というよりは逃げられない。
「何が……目的なの。何かなければ、悪魔が我々人間の前に現れるだなんて、そんなこと」
「そう! そうなんだよ! いやー賢いご令嬢だ!」
「は……?」
ナディスのことを『ニンゲン』と蔑んだかのように読んだかと思えば、『ご令嬢』と呼んでみたりしている。一体何が……と若干ナディスが引き気味になっていると、ツテヴウェはきょとんと眼を丸くしている。
ツテヴウェは、見た目がとても良い。
だがしかし、ナディスの好みではないために見惚れるなどもなかったのだが、恐らく好きな人は彼の外見はとても好きなのだろう。
艶やかな黒髪に、切れ長で黄金色の美しい瞳、しっかりと鍛えられた肉体に、甘く、低い聞き取りやすい声。黒髪は後ろでひとまとめにされているが、ツテヴウェが顔を動かすたびにさらさらと揺れているから、触るときっととても触り心地が良いのだろう。
だが、何度でも言うがナディスはこの大変整った見た目の悪魔に、見惚れることもなく平然と対峙している。
「……ふむ。大体は俺の容姿を見てすぐに惚れ込んでくる女ばかりなんだが……」
「首を絞められるかもしれない、っていう恐怖心があれば、そんなに簡単に見惚れたりしませんもの」
「手厳しいご令嬢だ」
「……それで?」
「ん?」
「悪魔がこのわたくしに、何の御用かしら」
ほう、とツテヴウェが目を細める。
臆することなく真っすぐにツテヴウェを見据えるだけでなく、一体何が目的なのかと急かすように問いかけてくるナディスの豪胆さ。普通の人間なら怯えて会話にもならないというのに、首をこのままきゅ、と占められて殺されるとは考えないのか。
いいや、もう既にナディス自身は己の死を理解しているから、一度も二度も、死ぬことはもう体験しているのだからやるならやれ、とあっという間に心を決めてしまったのだが。
「……単刀直入に言おう。お前、復讐はしたくないか?」
「……復讐?」
ナディスの形の良い眉が、ぴくりと跳ねた。
「そうだ。お前を軽んじた者どもに、復讐したくないか?」
かかった、そう思ったツテヴウェだが、ナディスはすい、と己の腕を組んで、ジト目でツテヴウェを見据えたままこう続けた。
「それをやって、わたくしのメリットはあるとでもいうの?」
「そりゃ――」
「もう既に、わたくしは死んだというのに?」
次はツテヴウェがぎょっとする番だった。
死んでもなおこの落ち着きか! というだけでなく、死んでいるから己にメリットはない、ということまでも突き付けてきたのだから、さすがに驚いてしまう。
「ふむ、さすがに賢いな」
「それから、仮に復讐できたとしてわたくしはそれを」
ナディスが続けた言葉に、今度こそ、ツテヴウェは目を真ん丸にしてしまった。
「どう、楽しめというのかしら」
「は……――」
「そうではなくて?」
しれっと続けられた言葉に、ツテヴウェは目をキラキラと輝かせる。
ああそうだ、これだから人間の考えることというのは面白い! これだから取引を持ち掛けるのはやめられないのだ! そう考えてから、ナディスの首から手を離して膝まづいた。
「ああ、その通りだ。御見それした」
「で?」
「提案は、二つ」
ツテヴウェは、己の指をすっと立ててみせる。
「一つは、お前がやり直せるようにしたうえで、狙いの奴に復讐をしてみればいい。そうすればお前は思う存分楽しめる」
「ふぅん」
「そしてもう一つは、俺が、お前を、守ろう」
「………………は?」
「ただ復讐するにしても、絶対的な力……というか、何があっても裏切らない護衛は必要だろう?」
なるほどな、とナディスは頷く。
絶対的な味方を得た上で、あのバカ共の顔に思う存分泥を塗りたくれると、そういうことか、とナディスは笑みを深くした。
「それで、叶った暁にはわたくしの魂をお前にやれ、そういうこと?」
「ああ」
「そうよね、望みをかなえたとて、わたくしが死んでしまっては、元も子もない。……そういうこと?」
「そうだ」
「でも、対価は他にも必要なんでしょう?」
ああ、そこまでしっかり理解してくれているならば話は早い、とツテヴウェはニタリと笑い、立ち上がってナディスの鼻先ギリギリまで己の顔をずい、と近づけた。
「話が早くて助かる! そう、対価を寄越してくれれば、最高の復讐劇をやり切ってみせよう!」
「……ちなみに、その対価は?」
ナディスの問いかけに、ツテヴウェはふむ、と考える。だが、顔があまりにも近く、ナディスは遠慮なくツテヴウェの顔を鷲掴みにしてから己の目の前からどかせた。
「うっぷ」
「邪魔」
「……思ったより雑だな、俺の扱い」
「そんなことどうでもいいから、さっさと対価をお教えなさいまし!」
「まぁ、そんな難しいもんじゃない」
「だから何!」
「お前の、大切なものだ」
自分の、というところにナディスは不思議そうな顔になる。
だがそれを言われたとき、はっと思い当たるものがあったのだ。ナディスにとっては、きっと命より大切にしていたもの。それを差し出せば……とすぐに思い至り、ツテヴウェにふっと微笑みかけたのである。