「それでミハエル様、次はどうなさるの?」
「ああ、次は……」
学院で、ミハエルと過ごせる貴重なお昼休み。
だというのに、何故かナディスとミハエルが普段よく利用しているカフェには、ロベリアが同席している。二人は同じクラスということに加えて、席が隣同士ということもあって、とても仲がいい。
「(何なの……!?)」
ミハエルの前だから、怒り狂って怒鳴り散らすわけにもいかない。かといって、今のこの状況はナディスにとって地獄でしかなかった。
「(わたくしには……こんな砕けた表情を見せてくれることなどないのに)」
じわりと目頭が熱くなり、涙が零れそうになってしまうが、こんなことで泣いてしまうだなんて淑女としてはとてもよろしくない。必死に我慢して、ナディスは食後のお茶をゆっくりと飲んでいく。
「それで……っ、あ、ごめんなさい! ナディス様はクラスが違っているから共通の先生でもないのに、あれこれ殿下と盛り上がってしまって……」
「構わん、ナディスは真面目だから俺たちの話がつまらなくて拗ねているかもしれんが、こういった話を聞き続けることで得られる知識もある。なぁ、ナディス?」
「はい、殿下」
にこ、と微笑んで余裕綽々であることをロベリアに見せつけるが、ロベリアは全く気にしていない様子で笑う。
だが、ほんの一瞬、ナディスを小馬鹿にしたような微笑みを浮かべ、そして無意識を装ってロベリアはすい、とミハエルに寄りかかる。
さすがにこればかりは見過ごすことができず、ナディスは勢いよく立ち上がる。
「貴女、何をなさっているの!?」
「ひゃっ!」
「ナディス、うるさいぞ!」
「ですが殿下、ロベリア嬢の行動はさすがに目にあまります!」
「はぁ!? お前に何の関係がある!」
無関係、とでも言いたいのだろうか。いいや、無関係なんかではない。
婚約者がいる男性にしなだれかかるなど、言語道断だ、と言わんばかりに、ナディスは立ち上がった勢いのまま、思いきり手を振りかぶってロベリアの頬を打った。
――バチン!
「あう……っ!」
「ロベリア!」
「関係ない、だなんて言わせませんわ! わたくしは殿下の婚約者なのですよ!? それなのに何という……」
「……ここでは、生徒皆平等なはずだが?」
「そ、それは……」
そう言われてしまうと、ナディスといえど何も言えない。ぐっと我慢をし、必死に色々と言い加えたいのを堪えてから、ロベリアへと頭を下げた。
「申し訳ございません、ロベリア嬢」
「い、いいえ……でも……私の方こそ、ごめんなさい……」
申し訳なさそうに謝って顔を上げた瞬間、ミハエルには見せないような笑みを浮かべているのを見れば、やはり……! と、ぎろりと睨みつけてみたが、ロベリアは気にする雰囲気など見られない。
それどころか、またナディスが𠮟られてしまうかもしれないと、慌てて表情を元に戻した。
「……婚約者のいる人へ、あんなにもべたべたするものではないわ」
「ええ、本当ですよね! 気を付けます!」
「ロベリアは物分かりが良い、さすが我が友!」
あっはっは、と楽しそうなミハエルを見て、ナディスは取り残されたような、何とも言えない感情がこみあげてくる。
怒りのまま、ロベリアをまた打ち付けて心のままに罵ってしまえればどれだけ楽なのだろう。それがかなわないことは、ナディス自身が一番よく知っている。
どうしてこんなことに……と思うが、まさかここまでロベリアがつけあがるとは思ってもみなかったのだ。
「……あ、いけない! 私、少し用事を思い出しちゃったので、先に戻りますね!」
「そうか、もう少ししたら俺も戻る」
また後で、と微笑み合う二人が、何となくまるで恋人同士のように見えてしまい、ロベリアは泣きたくなる。だが、ロベリアがいなくなったのだからチャンスだ、と慌ててミハエルを問い詰める。
「ミハエル様、何なのですか先ほどのあれは!」
「何だ」
「わたくしという婚約者がいるのですよ!? なのに」
「……うるさいな」
「え……?」
聞き間違いかもしれない、と問い返そうとしたナディスの頬を、ミハエルが思いきり叩いた。
「……っ」
「何なんだ貴様は! 婚約している、だからどうした! 学院に通っている間、多少は好きにさせろ!」
怒鳴りつけられた内容は、ナディスにとって信じられないものだった。
いくら学生といえど、限度があるのではないだろうか。それに、婚約しているのだから文句の一つだって言えるくらいの関係だと思うのは、間違っているのだろうか。
ナディスが何もかも悪い、と言いたげな様子でミハエルは更に言葉を続けていく。
「息苦しいんだよ、お前といると! 確かにお前はとても優秀だろうさ! 学院を卒業する前に王妃教育に入って、お母さまだってとても鼻が高いだろう! いつもその話を聞かされる方の身にもなってくれ!」
「わ、わたくしは、ただ、王妃殿下よりミハエル様をお支えするようにと……!」
「頼んでないだろうが!」
怒鳴られた内容に、ナディスは思いきり頭を殴られたような感覚になってしまう。どうしてここまで言われなければいけないのか。
しかも、ここは学院のカフェ。
いつもミハエルとは個室を使っているが、あまり大きな声で話していては他の生徒に聞かれてしまうかもしれない。だめだ、今何かトラブルを起こすのは得策ではない、とナディスは己に言い聞かせた。
「……では、今後、公務はそれぞれ分かれて行うということでよろしいでしょうか。それがミハエル様のお心でしょうから」
「はぁ!? 王太子と王太子妃候補なのだから、お前は俺と共に行動する必要があることくらい、想像できるだろうが!」
今お前が『頼んでない』と言っただろうが! と反射的に怒鳴りつけたくなるが、ナディスの恋愛馬鹿がここでとんでもない方向に向かってしまう。
なんと、『ミハエルは心からナディスを必要としている』と誤解したのだ。
この会話を他の人が聴いていたならば、きっと誰かがナディスにこんこんと言い聞かせてくれた上に、ミハエルを叱ってくれたかもしれない。
最悪なことに、今ここにいるのはナディスとミハエルだけ。
それを助言してくれる人はおらず、あくまでナディスがどうにか己人都合のいいように考えてしまったのだ。
「……では、せめてこういったことがあると、報告させてくださいませ」
「どうせこちらの行動を曲解して、お前のいいように報告するのだろう! させんからな!」
「そんな……!」
本当に、どうしてナディスは他のことであればとんでもなく天才なのに、ミハエルが……いいや、好きな人が絡むとただの馬鹿になってしまうのだろうか。
王家の影から、この会話だって報告されてしまうのだから、ナディスが報告しようがしまいが、大して関係ない。報告した場合、それが偽りがないかどうかの精査が入る、というだけのことだ。
「わかり、ました……。それでは、わたくしからは報告などいたしません。殿下の、お心のままに……」
「それでいいんだよ。ああそうだ、明日も個室が使えるようにしておけ、いいな」
「かしこまりました」
先に戻る、と言い残してからミハエルはさっさと己の教室へと戻っていった。
でも大丈夫、きっと心は自分にあるのだから、と言い聞かせてからナディスはここの後片付けをし、自身の教室へと走った。
――だが、同日の放課後。
王宮へと向かうための迎えの馬車に乗り、がたがたと揺られているナディスは、街中を走っているときにとんでもないものを目にしてしまう。
「……え?」
今、ふと見かけたのは見間違いなどではないだろう。
仲睦まじく歩いているミハエルと、ロベリア。とても楽しそうに歩いている様子は、ミハエルを王太子だと知らない人が見れば、ただの恋人同士ではないか。
「何で……? 今日は、二人でダンスの授業があるから、早く戻るように、って王妃様に言われていて……」
ナディスが呆然としている間に、無情にも馬車は王城へと進んでいく。
止まることなく、王城へと進んで、そしていつもの馬車の停車場までくれば、従者によって扉が開かれた。
ああそうだ、あれは見間違いだ。
ナディスがそうやって現実逃避をして、どこまでもミハエルを信じたままで案内されるがままに歩いていく。
自分へと宛がわれた部屋に入り、ダンスの練習をするための簡素なドレスへと着替えたナディスを待っていたのは、ミハエルが帰ってきた、という報告ではなく、『ミハエルは所用が出来たためにナディス一人でダンスレッスンを受けておくように』という、何とも残酷な知らせだった。
「嘘でしょう!?」
「わたしも目を疑ったのですが……確かにミハエル様からの知らせでして……」
「わ、わたくしはダンスの練習は……」
そう、ナディスはもう練習しなくてもいい。
女性パートはミハエルに恥をかかせないようにと、しっかりと身につけた。ミハエルのリードに合わせるように踊ったり、他の人にパートナーを仮に申し込まれても良いように対処できるように、あれこれと叩き込まれている。
だから、今日のこの授業は、ある意味ミハエルのためのものだったというのに、ナディスに一人でやっておけ、と言われたのだ。
「王妃様には……」
「ご報告しましたが……」
ああ、この様子では間違いなく王妃はミハエルの味方なのだろう。ナディスがそう察するのには時間がかからなかった。
ナディスは、こんな目にあったとしてもミハエルを愛している。
だが、周りから見ればまるでナディスは王妃とミハエルに面白いように使われているだけだ、というようにも見えてしまうのだ。
婚約を結んだあと、ナディスの家がミハエルの後見となったことにより、王妃の立場も大変良くなった。
まるで、虎の威を借る狐だ、と誰かが言う。
その通りなのだが、ナディスの前では婚約を結んだときのままの、謙虚な一面だって見せていたから、猫かぶりに関しては抜かりがない。見抜けないのは別にナディスが悪いわけではないのだ。
ただ、大人のずるさを、まだナディスが見抜けていないだけ。
どれだけ頭がよく、優秀だと褒められていてもまだまだナディスは子供だということに他ならなかった。
とはいえ、今のこの状況はどうすればいいのだろうか。
ダンスの講師も来てくれているが、講師はナディスの実力を知っているから、まさに『困惑』という表情を浮かべている。
「ナディス様、簡単にナディス様のステップのおさらいをしましょうか。咄嗟の動きに対応できるようにいたしましょう」
「え。ええ……」
嫌な予感がしていたけれど、きっと大丈夫。
ミハエルはきっと遅くなっているだけだから、何も問題はない。そう、もしかしたら一人でやっておけ、と言っていても後で考えや行動が変わって、すぐに戻ってきてくれるに違いない。
そう願ったナディスだったが、その日の自分の授業がすべて終わった頃にミハエルがこっそりと帰ってきたという知らせを聞き、ぽとり、と涙をこぼした。
「(どうして……)」
何か悪いことをしてしまった?
何がいけなかった?
そう自分に問いかけても、答えなんかない。けれどナディスの中ではっきりしていることが、ただ一つ。
「(悪いのは……ミハエル様ではない。あの女よ……!)」
怒りの向かう先は、勿論、ロベリア。その人だったのだ。