ナディスは、何よりも最悪なことを思ってしまった。
あぁ、最初から悪い虫は自分が駆除したら良かったんだ、と。
「……簡単なことに気がつけなかったのね、嫌だわわたくしったら」
最初からそうしてきたのに、今更また、改めて気が付くだなんて、とナディスは自室で大きく笑う。
何かを発散させたい時、幼い頃に学んだ。
静音魔法を展開して、外に音が聞こえないように細工をして思いきり罵るなり、叫ぶなりすればいいんだ、と。
「あっははははは!!」
大きく息を吸って嗤う。
ひとしきり笑って、少し息がしづらいな、と思ったからナディスはゆっくり深呼吸を繰り返す。
吸って、吐いて。
何度か繰り返して、いつしか呼吸は整い、冷静になっている自分がいた。
「……大丈夫、ミハエル様はわたくしの王子様なの……。わたくしが……ミハエル様をお支えするんだから……」
その役割は、他の誰にだって務まらない。自分が、いいや、自分こそがミハエルのことを誰よりも理解して、誰よりも愛しているのだから、とナディスは言い聞かせるようにし、己の体をぎゅう、と抱き締めた。
「学生時代の一時的なお遊び、……そう、それだけ……。でもね……」
たかがそれくらい、理解はしている。理解はしているけれど、嫌でたまらない。
ミハエルが自分以外に微笑んでいることが、自分以外の手を取っているであろうことが。
あの人の微笑みは、気遣いは、全て将来の王太子妃である自分へと向けられるべきものなのだれなのに、どうして他の令嬢に向けてやらなければいけないのだろうか。そう思い、ナディスは手をぐっと握りしめた。
「……そうよ、そうだわ……」
ナディスが辿り着いてしまった、彼女の中では最善だが最悪な結論。
――他を、全て潰せばいい。
ナディスの家柄、ナディスの能力、何もかもが他の令嬢の追随を許したりなんかしない。
更に、ヴェルヴェディア公爵家は、この国唯一の公爵家なのだから、更にこの家のたった一人の公女たるナディスが軽んじられるわけもない。
「何もかも、わたくしとミハエル様の邪魔をする者は、全て、消し去ってしまえば良いの!」
とてもいいことを思いついた、と無邪気にナディスは言う。それがどれだけ残酷なことなのかを考えることもなく、己の思うがままに発言する。ここに聞いている人はいないのだから。
「どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのかしら! そうよ、わたくしったら……うふ、うふふ、あっははははは!」
ひとしきり楽しそうに笑って、ナディスは狂気を乗せたような笑みのまま、締めくくる。
「他にもいたわよね……身の程知らずの、お馬鹿さんたち……いえ、害虫が」
静かに呟いたその言葉は、誰に聞かれることもなく、部屋の空気の中に溶けていく。
部屋の中をきっちり片付け、そして指をぱちん、と鳴らして展開していた静音魔法を解除して、ちりり、と使用人を呼ぶためのベルを鳴らした。
「お嬢様、お呼びでしょうか」
こんこんこん、と三回ノックをされてナディスが『入りなさい』と声をかければ、ナディスつきの侍女がすっと入ってくる。
「ご用件をお伺います」
「ねぇ、レターセットを持ってきてもらえる? それから、公爵家の封蝋も」
「え? あ、はい……かしこまりました」
「よろしくね、頼りにしているわ」
「は、はい!」
ナディスがあまり人を褒めることはない。
だから、褒められたその侍女はぱっと顔を輝かせ、嬉しそうに微笑んでナディスの部屋を後にする。
「……摘み取らなければならない雑草は、どのくらいあるかしらね」
不穏な言葉は、また、部屋の空気に溶けていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ナディスは、とても上機嫌だった。
「ナディス、どうした」
「ふふっ」
ミハエルの問いかけに、ナディスは本当に楽しそうに微笑んでからゆっくり口を開いた。
「最近、当家の庭園に何やらおかしな雑草が生えておりまして。ようやく駆除できそうですの」
「ほう、公爵家に」
「中々根が深くて……当家の庭師も困っておりましたけれど、本当にようやく、ですのよ」
「ナディスがそれくらいに言うのだから、本当なのだろうな」
あっはっは、と楽しそうに笑っているミハエルは、何のことか理解はしていない。
ナディス曰くの『雑草』とは、ミハエルに群がる女子生徒。『雑草』と言ってみたり、時には『害虫』と言ってみたり、あくまで園芸のことなのだというように、うまく表現をしているから、ミハエルは気づいていない。
「ところでナディス、最近の王太子妃教育はどうなっている?」
「ほとんど完了しておりますわ、ミハエル様」
にこ、と笑って告げられた内容にミハエルは目を丸くする。
「ほとんど完了だと!? ……どういう、意味だ」
「王妃殿下より、王太子妃教育に関してはもう教えることはほぼ無い、と仰っていただけております」
ナディスがここまで必死に頑張ったのは、全て愛しいミハエルのため、それだけなのだ。
だが、ミハエルからすれば『置いていかれた』という気持ちにもなってしまう。同じタイミングで歩み始めて、二人で手を繋いで歩いてきたつもりだった。
いつの間にか、ナディスが一歩、また一歩先を歩き始めた。ミハエルが気付いていなかったわけではないが、気付かないフリを、ずっとし続けた。
ナディスは優秀だが、それでも自分と歩みを同じくしてくれているのだとばかり思っていたミハエルは、テーブルの下で見えないように、きつく、きつく手を握る。
「(どういうことだ……。ナディスは……俺と同じペースで勉強をしていたのではないのか……? 王太子妃教育に加え、普段の学校の勉強だってあいつは手を抜いていない……。だとしたら……)」
ミハエルは、目の前で美しく微笑んでいるナディスに対して畏怖に等しい何かを感じたが、それ以上に思ったのは『あぁ、何だ。コイツがいれば、自分は楽なんだ』ということ。
「ナディス、そうやって頑張ってくれたのは……」
「勿論、ミハエル様のために、ですわ!」
躊躇無く言いきったナディスと、それを聞いて自分の思いが間違いではないと確信してしまったミハエル。
ナディスのおかげで王太子の地位を手に入れた、といっても過言では無い。
常日頃、王妃もミハエルもナディスには感謝をしていた。彼女の家の力のおかげで、そして彼女がミハエルに一目惚れをしてくれたからこそ、王宮内での地位が一気に上がったようなものなのだ。
「(こいつが居れば……)」
何も、これから問題ない。
気持ちを利用してしまうかもしれない、そう思いながらもナディスがいるからこそ地位は安泰そのもの。もしもミハエルに何かあったとしても、ナディスがいれば基本的に問題ないのではないか、というくらいにナディスは頭がいい。
実際に公務で一緒にいても、『殿下、あちらの方は隣国の宰相閣下です』とか、『殿下、明日のパーティーですがこちらの資料にお目を通していただけますと、会話がとてもスムーズに進むかと』など、サポートはばっちりだ。
「……あの、ミハエル様?」
「いや、何でもないよ」
安心させるようにナディスへと微笑みかければ、ミハエルにべた惚れのナディスはすぐに顔を赤らめている。
ああそうか、とミハエルはすぐに察した。ナディスはミハエルとの顔合わせの時、一目見たときから一目ぼれをしてしまったらしい、とヴェルヴェディア公爵から聞いたかもしれない。
「ナディス、これからも一緒に頑張っていこう」
「はい、ミハエル様!」
ナディスがいれば、王宮内で身分が低く正妃といえど肩身が狭かった王妃も、そしてうまいことヴェルヴェディア公爵家の後ろ盾を手に入れたミハエルは、ここから先は安泰だ。そして、ナディスが勉強を頑張ってくれることによって、自分が王太子教育が少し遅くなったとしても、彼女と婚約している限りは何もかも安心していいのだ。
そうやって、ほんの少しだけお互いの思いがずれたまま、時は流れていく。
ナディスが害虫駆除と称して行っている女子生徒の排除が、少しづつ露見していくものの、まだ、『王太子に近づいているのは身の程知らずの女子生徒が悪い』と思われているから、良かったのかもしれない。
だが、高等科に上がった時のクラス替えで、ついにナディスにとっての一番の恋敵とミハエルが出会ってしまうこととなる。
「……クレベリン、侯爵、令嬢……?」
「初めまして、ナディス様! わぁ……女子生徒の憧れのナディス様にお会いできるだなんて、とっても光栄です! ミハエル様、引き合わせてくださって、本当にありがとうございます!」
「いや、なに、全くもって大したことではないさ。ナディス、同じクラスになって、隣の席になったことだし、とても話が弾んだから、是非ナディスにも会わせたかったんだ!」
「さようで……ございますか」
侯爵家令嬢だから、ロベリアは今までの令嬢より、ナディスに対しての礼儀と、ミハエルに対しての接し方を弁えている方だろう。
今だって少しミハエルと距離を取ってくれているし、べたべたもしていないのだから大丈夫。……そう、大丈夫なんだと、ナディスは必至に己に言い聞かせて、微笑みを張り付けて手を差し出した。
「こうしてちゃんとお会いするのは初めてかもしれないわ、クレベリン侯爵令嬢。これから是非、仲良くできると嬉しいのだけれど」
「わぁ……! 感激ですわ! 是非よろしくお願いいたします!」
ここまでは、きっとよくある『学校で初めて会った貴族令嬢同士のやりとり』で終わっていた。
しかしミハエルとロベリアは、ナディスが想像していない速度で仲良くなっていくことになるのを、今はまだ、ナディスは知らなかったのである。