「なぁ、ナディス」
「はい、殿下。どうなさいまして?」
「お前、この前の試験の結果はどうだったんだ」
「えぇと……学年一位、ですが」
別に何でもないようにナディスがミハエルに報告すると、ミハエルの温和な雰囲気がどこかにいってしまったように、すぅ、と冷ややかな雰囲気になる。
「お前……、どういうつもりだ」
「え?」
一体何がどうしたというのか、とナディスは首を傾げた。別に悪いことをしているわけではないのだが、何かをやらかしてしまった、というような雰囲気でミハエルが明らかに怒っている。
怒った顔ももちろんかっこいい、と思ったが、乱暴に机を思いきり彼が蹴り上げたことで、乗っていたティーセットがガシャン、と大きな音を立てて床へと落ちた。
「あ、あの……」
「お前は女だろうが! 一体何を考えている!」
ミハエルが怒鳴りつけてきた言葉の強さに、思わず硬直してしまう。体が、というよりは思考回路が理解できないままにナディスは少しだけ唖然としてしまった。
何か悪いことを? と考えてみたけれど、何が原因なのかはさっぱりだった。
「でん、か?」
どうしよう、嫌われたくない。
けれど、学校の成績に関しては王妃からも『このまま邁進しなさい、そしてミハエルを支えてあげてね』と言われているし……と困っていると、ミハエルがフン、と鼻で笑う。
「まぁいい、お前はそれくらいの利用価値がある女だからな。良いか、成績の順位は癪に障るが、とりあえずそのままでいろ。いいな」
「……っ、はい!」
そうか、自分の順位が高いことが嫌だったんだ、と察するまでに時間はかかってしまったが、言われてみればそうかもしれないとナディスは思う。
「ミハエル様のお心を察せず、誠に申し訳ございません。ですが、これは王妃殿下より申し付けられていることでして……」
「母上が? そうか、なら仕方ない」
割とすぐにミハエルの機嫌は直ったようだ。
良かった、嫌われていない。嫌われたら自分はどうしたら良くなってしまうのか、全く分からないしオロオロしてしまっていたからと、ナディスは胸を撫で下ろした。
だが、こうした些細な口論にも満たない諍いは、最近増えてきている。
ナディスは気にしていないが、学校でもミハエルに叱られることは増えてきているのだ。とはいえ、叱られる、と言いつつも言いたいだけ言ったらミハエルは満足しているし、ナディスとの婚約をどうにかにしよう、なども言わない。
──いつしか、ナディスとミハエルの関係性が変わってきていた、ような気がした。
ミハエルは容姿端麗である。
だから、入学当初にナディスがほかの令嬢たちに特大の釘を刺しまくったことである程度は押さえられたのだが、学年が上がるにつれて問題が起きてしまった。
ナディスとミハエルのクラスが離れてしまったことだ。
それ故に、ナディスは言葉を慎重に選ぶ。
ミハエルが怒らないように、彼の気分を害さないようにと。
彼が喜ぶようなことを問かければ、ミハエルの機嫌はあっという間に直る。
そう、関係性が多少歪んでいたとしても分からないくらいには。
「ミハエル様、クラスは異なりますが……最近は何か発見などございますか?」
「そうだな……色々な身分のものと話すから、見識がとても広まったように感じる」
「まぁ!」
「ナディス、今度街に行こうか。今は露店巡りなどをして互いの絆を深めたりもするそうだ」
「ミハエル様……! わたくし、絶対行きますわ!」
「そうか」
感動のあまり、目がうるうると潤んだナディスは、普段の氷のような美貌が少し緩んだこともあり、大変愛らしかった。
そんなナディスを見られるのは、このミハエルだけ、という些細な優越感を彼はとても楽しみ、手を伸ばしてナディスの髪を優しく撫でる。
「ミハエル様……っ」
「ナディスは幼い頃から綺麗だ」
「~~~!!!!!!」
これほどまでに最大の殺し文句(ただしナディス限定)があっただろうか、いいや、ない。
言われた本人は観劇のあまり泣きそうになっているし、言った張本人も照れ臭そうにしている。
「み、ミハエル様は……とても、その……素敵になられましたわ」
「そ、そうか!」
二人で照れ合いながら、穏やかなお茶の時間が過ぎていく。
どうかこのまま、婚姻まで進んでくれたら……とは思っていたが、そうは上手くいくはずもなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ナディス様、こちらです」
「へぇ……」
ナディス側の女子生徒が、一人の女子生徒をナディスの前へと突き出した。
「きゃあっ!」
「ふぅん……?」
どさり、とその女子生徒は倒れ、ナディスの前で突っ伏している。その様子をナディスはじっと見て、そして視線を合わせるかのようにしゃがみ込んで、手を伸ばす。
「な、ナディス、さま……」
良かった、起こしてくれるんだ。
ほっとした女子生徒が手を伸ばしたが、互いの手が重なることはなかったのだ。
「え?」
ナディスは無表情で、無言のままで、がっちりとその女子生徒の頭頂部の髪を鷲掴んだ。
「いやぁぁ!!」
「……うるさい」
悲鳴をあげた途端、もう片方の手でナディスは容赦なくその女子生徒の頬を引っ叩いた。
「……ぇ……」
あまりの衝撃と、品行方正を着て歩いているようなナディスが、まさかこんな暴力に訴えかけるだなんて、と女子生徒はぼろぼろと涙を零す。
「ナディス、さま?」
「お前……男爵家よね」
「は、い」
「男爵家令嬢風情が……わたくしのミハエル様と放課後に逢い引きするだなんて……いい度胸だこと」
「…………!?」
知られていたとは、思わなかった、とその令嬢は後で泣きながら言った。
まず、ミハエルには当たり前だが王家の『影』がついている。
何をしたか、どこに行っていたかなど、全て逐一報告され、把握されていることを、その令嬢は知らなかったらしい。
「そん、あの、いや……わた、わたし、そんなつもりは!」
「どちらから誘ったの?」
ナディスの目はどこまでも冷たかった。
入学当初から成績を落とすことなくSクラスに在籍し続け、成績は常に満点トップを維持し、品行方正、誰に対しても優しく穏やかに接しているはずのナディスが、どうしてこんなに、とその令嬢は泣くが、そうすればするほど、ナディスの怒りが高まっていくことに気付いていなかった。
「っ……」
「先日、ミハエル様がこんなことを仰ったの。露店巡り、と」
「あ、の」
それは、自分が提案したことだった。令嬢は、がたがたと震え始める。
助けて、と周りの女子生徒に懇願するような目を向けたとて、彼女たちはあくまでナディスの味方。
ナディスは将来の王太子妃にして、ゆくゆくは王妃となるヴェルヴェディア公爵家の令嬢なのだ。
彼女から得られる恩恵は果てしなく美味しいもので、家の人にも『ナディス様についておけば間違いない、そうすれば我が家も安泰だ!』と喜ばれる。ミハエルよりもナディスの方が立ち回りも上手い、色々なことを考慮した上での味方なのだから、男爵令嬢には誰も力なんか貸してくれやしない。
「どこで、そんなくだらない遊びを覚えたのかな、って思ったから、調べたわ。徹底的にね」
「ひ、っ」
「そうしたら、お前がミハエル様と出かけた、っていう報告が上がってきたのだけれど……ねぇ、その報告は合っているわよね」
「あ、あの、でもそれは」
「はいか、いいえか」
頬を叩いた方の手に、ナディスは氷の塊を静かに出現させる。
パキパキ、と音を立てて形を成していくそれは、剣の先端のように鋭く尖り、女子生徒の目を狙った。
「ひっ!」
「答えなさい」
「はい! 合っています! 私は、ミハエル殿下と」
「わたくしの殿下の名前を、お前が軽々しく呼ばないで!」
ナディスが叫んだ刹那、氷の塊という狂気は女子生徒の、足を思いきり貫いた。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「お前ごときが、ミハエル様を呼ぶな!!」
ばちん!と更にもう一発。
ナディスは髪を鷲掴みにしていた手を離した瞬間に思いきり、その女子生徒の頬を引っ叩いた。
氷の塊によって貫かれた足からはどくどくと出血があったが、ナディスが指をパチン、と鳴らせばあっという間に傷口が消えてしまった。
「あぁ、っ……、い、いたい…………いた、……あ、あれ……?」
「ホラ吹きも大概になさいませ」
その場にいたナディスの取り巻きはゾッとするが、それよりも恐ろしいと感じたのはナディスの魔法の能力の高さに対して、だった。
殺傷能力さえもありそうなあの氷塊をあっという間に生成し、飛ばし、消した。それだけではなく女子生徒が負った怪我までもをあっさり治し、破れたはずの制服までも直してしまい、何事も無かったかのように呆れた目を向けているのだ。
「い、いま……わた、し…………あ、……痛く、ない……?」
一番混乱しているのは、可哀想だけれどミハエルと出かけた女子生徒だろう。
とんでもない痛みに襲われたかと思えば、その痛みがもうないのだ。更に傷口もないし、ナディスに受けた暴行の痕跡も何もかもが、ない。
「なんで……?」
「治したからだけれど……ご理解いただけていない?」
びく、と女子生徒は体を硬直させる。
恐る恐る見上げれば、ナディスはいつの間にか立ち上がり、とてつもなく冷たい目を女子生徒に対して向けていた。
「ご、ごめんな、さい……!」
「何に対しての謝罪なのかしら」
「恐れ多くもミハエル様を、身の程知らずにもお誘いし、挙句の果てに私が余計なことを吹き込みました!」
慌てて土下座をし、女子生徒は一気にまくし立てる。
まるで悲鳴のようなそれを聞いたナディスの取り巻きは、クスクスと笑いながら呆れたように見下ろして、こう告げた。
「謝るなら、最初からなさらなければ良かったのではないかしら?」
「本当よね」
あっははは!と高笑いが起こるが、ナディスは冷静にそっと女子生徒の肩に手を置いた。
膝をつき、まるでその様子は一枚の絵画のようだった、と取り巻きは言う。
だが、顔を上げた女子生徒を待っていたのは目元が真剣で、口元だけが歪なほどに笑みを浮かべたナディスだったのだ。
「…………」
駄目だ、殺される。本能的にそう感じた女子生徒は、弱々しく『殺さないで』と懇願した。
「殺しはしないわ。でもね……とりあえず、これだけはご理解なさって?」
「……!!」
何度も何度も、勢いよく首を縦に振る女子生徒が少し落ち着いたところで、ナディスはとてつもなく美しく微笑んでから、ゆっくり言い聞かせた。
「金輪際、殿下に近付かないで。学校行事なら許してあげなくもないけれど……次に許可なく近付いたら」
肩に置かれた手に、ぎりり、と力が込められた。
「──死んだ方が楽になれるくらいに、苦痛をプレゼントいたしますわね」
事実上の死刑宣告に、哀れな男爵令嬢は、『かしこまりました』と了承するしかなかったのだった。