王太子妃教育が始まって、早一年が経過していた。
教師陣からのナディスの評判は、上々、などというものではない。
「こんなにも優秀なご令嬢がいらっしゃるだなんて、この国の将来は安泰ですね!」
王太子妃の教育係として呼ばれた婦人はとても機嫌よく王妃へと報告する。手元に用意されたのはナディスの教育に関する成績表と、授業態度に関する報告書。
ぱらぱらと用紙を捲ってみていけば、誉め言葉こそあれど叱りの言葉はどこにも見られない。
「一を学べば、十になるとはまさにこのことです! きっとナディス嬢は大変素晴らしき王太子妃になることでしょう!」
「まぁ、先生にそう言っていただけるときっとナディス嬢も喜ぶはずだわ」
ほほほ、とキャロラインと教育係の婦人は互いに笑い合う。
そして、今後の教育についても話し合っていくのだが、特に速度を緩める必要もないだろうと判断された。
――だが。
「ですが王妃様、一つだけ」
「あら、なぁに?」
「王太子妃候補がナディス嬢だけだというのは……」
困ったような口調の教育係の婦人に、キャロラインはそれもそうだ、と思う。
ナディスの能力は間違いなくこの上なく高いもので、このまま勉強を進めていくのは何も問題はない、と判断されているのだが、勉強できるだけではいけないのだ。
王家に嫁ぐのであれば能力の高さは絶対条件だとしつつも、世継ぎを儲けることがあってこその王太子妃だと言える。
「そう……なのよね」
「まだナディス嬢は六歳です。それ故に、今は勉強を進めていくだけで問題がございませんが……いずれはお世継ぎの問題が出てまいります。そうなる前に検査などはされるかと存じておりますが、……もしも、も考えておかねば……」
大人同士の会話だ、きっとこんな話を今のナディスに聞かせても彼女はピンと来ないかもしれない。
そして念には念を、ということで他の貴族にも密やかに知らせなければいけないとキャロラインは神妙な顔で考え込む。
とはいえ、ナディスが王太子妃筆頭候補なことだし、一応ヴェルヴェディア公爵家にお伺いを立てておかねばとも思ったので手紙を出した。
これが、ある意味の『間違い』であったことに、キャロラインも教育係の婦人も気が付かなかったのだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
まぁ、妥当な考えだろうな、とガイアスは頷く。
王妃キャロラインから届いた手紙の内容は、『疑っているわけではないし、ナディスの優秀さもきちんと認識している。その上で、万が一に備えて側妃候補を選定したいが良いか』というもの。
「当家に伺いをかけずとも……」
「ナディスに気を遣ったのではないか? ナディスとミハエル殿下は家同士、国で決めた婚約とはいえ現状かなり良好だからな。そこに側妃候補を入れることでナディスが不快な想いをしないように、という配慮もあるのだろうさ」
確かに、とターシャは頷いた。
今良好な関係を築けているというのに、何も承諾を得ずにいきなりはいどうぞ、と側妃候補を入れることで関係が壊れてしまっては元も子もない。
一応ナディスにも話しておこうか、とメイドを呼びつけて自室にいるナディスを呼んできてもらう。場所は公爵の執務室、
普段ターシャはここに入ることはあまりないけれど、今回は母としてナディスに言い聞かせなければならないからと同席している。
執務室には応接セットもあるので、そこにお茶を用意してもらい、ナディスが到着するのを待った。
「お父様、お母様、失礼いたします」
「入りなさい」
ナディスが来てくれたので、両親も揃ってソファーに腰かける。
両親が珍しく揃っていることにナディスは不思議そうにするが、メイドに連れられるままにターシャとガイアスの向かいによいしょ、と腰を下ろした。
「何でしょうか、お父様」
「うん。ちょっとこれを見てくれるかな?」
「…………?」
何だろう、とほんの少しだけ首を傾げてナディスは渡された手紙を読んでいく。
内容をじっと読み進めていって、ナディスの顔がじわり、と強張る。今の内から対策をするとはいえ、まだ早かったかと不安が過っていくがもう側妃を選出するという手紙を読み進めていっている。
しかし、あまり表には出さないようにしているのか、明らかにナディスが不機嫌になってきている。
「……わたくしでは、役不足ということでしょうか」
最後まで読み終えたナディスは、下を向いてぽつりと問いかける。
「違うのよ、ナディス。何かあっても万全な体勢でいられるようにという王妃様の……」
「何か、ですか」
たった六歳なのだ。
たった六歳にも関わらず、とてつもない迫力を有している我が子を見て、ターシャもガイアスも、ぐ、と息を呑んだ。
「ええ、王太子妃になるということがどういうことか、一応は理解していたつもりですわ。……でも、ええ……そうですか、側妃……」
とても、不愉快だった。
側妃、という存在もそうなのだが、まだ王太子妃候補たる自分が勉強を始めたばかりなのに、とナディスは王妃すら憎く思えてしまう。我慢しろ、と己に言い聞かせつつも向かいに座っている父と母を、ナディスはひたりと見据えた。
その顔は先ほどの怒りに満ち溢れた顔ではなく、どこか達観したような顔。
「ナディス……?」
「大変失礼いたしました、お父様、お母様」
あまりの変わりように、自分の娘ながらにほんの少しの恐怖感に襲われてしまう。ナディスが恋愛バカなのは知っていることだが、余程ミハエルのことが気に入っているのだろう。
それほどまでにミハエルの隣に、自分以外の女性が立つことが許せないのだ。この先のことを考えるととても良い傾向であるともいえるが、危険は表裏一体。
「大丈夫……?」
「ええ、大丈夫ですわ。でも一つだけお願いがありますの」
「何だい?」
何となく我が娘ながら、キレさせるとヤバいと察した両親はなるべく刺激しないように気を付けながら問いかける。
「側妃候補が揃った時は、是非ともご挨拶をさせていただきたく思います」
「挨拶?」
「ええ。良好な人間関係は、まず顔を合わせてから挨拶をし、互いを知ることにあると思うんですの」
確かに、それは尤もかもしれないとターシャは頷いた。
実際、自分がこのヴェルヴェディア公爵家に嫁いだとき、もしもガイアスが第二夫人を迎え入れたらどうしようかと悩んだものだ。
その時、ターシャはもう既に十六歳を過ぎていたから冷静に対応できた。今のナディスはまだまだ両親の庇護が必要な六歳なのだ。
いくら公爵令嬢だとしても、こんなにもストレスのかかることを『王太子妃となるのだから受け入れろ』と押し付けてしまっていることは、母心として、とんでもないストレスを与えてしまったのではと、ゾッとしてしまった。
「ナディス、そうね……。それは当たり前のことだから、王妃様や国王陛下にもお伝えしておきましょう」
「ありがとうございます! ……あの、もう行っても良いですか? 先生から課題を出されていて……明日までに詩歌を覚えて暗唱しなければならないのです」
「まぁ! とても大変な時に呼んでしまったのね……! お母様とお父様を許してくれる?」
「勿論ですわ、大好きなお父様とお母様ですもの」
それでは失礼しますね、とまたメイドに連れられて部屋を出て行ったナディスを見送り、ターシャはそっと溜息を吐いた。
「……いくらナディスが賢いとはいえ、わたくしたちは酷な事を伝えてしまいましたわね……」
「…………さすがに反省だな」
はああ、と溜息を吐いている両親とは裏腹に、ナディスは部屋に戻ってから、す、と手を上げた。
「……【静音魔法(サイレント)】、発動」
これで、外には自分の声も、何かを壊しても問題無い。メイドにも『これから詩歌を覚えなくてはいけないから、少しの間そっとしておいてくれる?』と可愛らしくお願いしているから、誰も来ない。
ナディスはにこりと微笑んで、とことことデスクに近寄って、その上に乗せてあった課題を思いきり払い落とした。
「ふざけないで!! 何が側妃なのよ!!」
幼いながらに、役目も意味も理解しているつもりだ。覚悟もした、だからこそ今、この勉強を始めたタイミングで王妃が提案してきた内容は、到底許せるものなどではなかった。
「最初から用意しているならばまだしも、婚約発表をしてから思い至ったとでも言うのかしら! 本当にふざけているわ!」
怒鳴るように言いながら、ナディスは次々に部屋中のものを壊していく。癇癪という言葉では言い表せないくらいに、ナディスは部屋の中で暴れ倒した。
「……はぁっ……、はぁ……」
暴れるとはいえ、所詮は子供。
ある程度暴れてから、必死に呼吸を整えつつナディスは床にへたり込んだ。
「……そちらがその気なら……わたくしにも考えがあるわ」
にぃ、と凶悪な微笑みを浮かべてナディスは呟いた。そうだ、そうすればいいんだ、とナディスは繰り返し呟きながら、荒れ果てた部屋の中をぐるりと見渡す。
「まずは……部屋の修復、っと」
器用に魔力を放出して、ふわふわと荒れ果てていた部屋の中の家具などを元に戻していく。思ったより部屋がぐちゃぐちゃになっていたから、ナディスは自分がどれほど怒り狂っていたのかを恥じつつも、力がなくともこうして部屋は片付けられるからまぁ良いか、とも同時に思う。
そんなことよりも、とナディスは王太子教育のこれからのスケジュールが書かれた羊皮紙をじっと見つめた。
「……側妃候補がどれだけ優秀か知らないけれど、わたくしと並ぶくらいの優秀さを、きっと持ち合わせているのよね?」
ナディスの現状尤も強いと想われているところ、それが何かと聞かれれば周囲の人間は迷うことなく『優秀さ』と答えるだろう。
だから、それをある意味逆手にとってしまえばいいとナディスは考えたのだ。
王妃様、国王陛下、楽しみにしておりますわ、とほくそ笑むことも忘れない。そして、運命の顔合わせの日は刻々と近づいてきた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「まぁ、皆様とっても素敵な令嬢たちですこと!」
顔合わせ当日、煌びやかに装った令嬢たちはナディスを見て何となく勝ち誇ったように微笑んでいる。
王太子妃候補となったくせに、もう既に側妃候補を選定され始めたのか、という嘲笑がたっぷりと込められているのだが、気付かないナディスではない。
ヴェルヴェディア公爵夫妻も勿論気付いているが、本当の理由は『ナディスに万が一があってのこと』への備え。彼女たちが王太子妃候補になることは決してないのだが、それに気付いている令嬢はいなかった。
「皆様、どうぞ楽になさってね」
「はい、王妃様!」
綺麗に微笑んで返答した令嬢が一人いたが、彼女の答えに他の令嬢はひゅ、と息を呑んだ。
まだ王妃は口を開いていい、と許可していない。まさかそんなことにすら気付いていないのか、と顔を青ざめさせる者もいれば、何だ話して良いのか、と勝手な解釈をする令嬢も出てきた。
優秀とはいえ、彼女たちはナディスと同い年の令嬢ばかり。子供ならではの気の緩みが出てしまったのだと思われたが、今の時点でこの程度ではここから先が苦労するのは目に見えている。
「……」
王妃もそれに気付いたのか、扇をすっと持ち上げて三人の令嬢を指した。
「そこにいる薄青のドレスの令嬢、それからピンクのドレスの令嬢、花の髪飾りを付けた令嬢、そなたらには用はない」
「え……」
先ほどと打って変わって冷たい口調で迷いなく言った王妃を、信じられないという目で見つめた彼女たちは、弾かれたようにナディスを見た。
ナディスは許可が得られるまで口を開いていないどころか、お茶にも手を付けずに背筋を伸ばして静かに、薄ら微笑みを浮かべて座っているだけだ。
「(嘘……)」
たった、それだけ。それだけなのにナディスは存在感を見せつけた。既に婚約を締結しているのだから、ナディスは言葉を発しても問題はないはずだが、しなかった。
「……あらナディス嬢、黙ったままで……ああ、そうね。わたくしとしたことが、お話をして良いわよ、というのを忘れていたわ」
「……」
それでもまだ、許可されていないからナディスは喋らない。
「皆様、存分にお喋りを楽しんでくださいませ。さ、ナディス嬢」
「はい、王妃殿下」
ここでようやく、ナディスが口を開いた。しかしはしゃいだりはせずに、おっとりと微笑んだまま優雅さを消すことはない。
キャロラインはとても満足そうに微笑み、ナディスがお茶を飲むためにすい、と手を動かしたり、カップをソーサーに戻したりというほんの少しの動きですら、所作の美しさをとても満足そうに見つめている。
「王妃殿下、そんなに見つめられると恥ずかしいですわ」
「あら、ごめんなさい。貴女は本当に完璧だからどれだけ見ても飽きないから」
ふふ、とお互い笑い合う二人を見て、勘のいい令嬢の何人かは気付いたらしい。さっき退出させられた令嬢以外は、ある程度色々とわきまえているつもりだった、しかしどこかにつけ入る隙があるのではないかと探っていたが、それがどこにもありはしない。
「(さぁ、側妃候補さんたち。まだまだこれからよ?)」
挑戦的にナディスを睨んでくる令嬢もいるのだが、大したことではない。ただ、一人ずつプライドをへし折れってやればいいだけの話なのだから。