「それではよろしいでしょうか」
ヴェルヴェディア公爵、国王ウッディ、そして宰相やその他国の重鎮たちの立ち合いのもと、婚約締結のための書類が作成された。
これをもって、ナディスがミハエルの婚約者となること。そしてヴェルヴェディア公爵家がミハエルの後見となることが定められることとなる。
「公爵家は了承済みです、あとは陛下のサインのみでございます」
「こちらも無論、……いいや、大歓迎だ」
表面上は冷静を装っているウッディだが、内心は笑いが止まらない。
己が選んだ王妃の立場が強固なものとなるだけではなく、ミハエルの王太子立太子のための後見までもが手に入った。
「(ミハエルの外見が良かったこと、それをヴェルヴェディア公爵令嬢が気にってくれたことが何より幸いした)」
ふ、と自然に微笑みが浮かんでくるが、会議の場であることを思い出してウッディはすぐに表情を引き締めた。
公爵家保存用の書類と、王家保存の書類。一部ずつ作成されたものが保管できるようにと保存ケースに入れられて厳重ではあるもののしっかりとした状態で手渡された。
「……確かに」
「うむ」
双方がそれらを受け取れば、わっと家臣たちから拍手が起こる。
あちこちで、『公爵家の立ち位置がこれでさらに強固かものに』や、『さぁ、公女のお祝いは何にしましょうかな』など、様々な声が聞こえてくるがガイアスは早々に帰宅してナディスにこのことを知らせないと、と思う。
「公爵よ、今日は……」
「申し訳ございません、陛下。婚約の件を我が娘に知らせてあげねば、と思いますのでこれにて」
「おお、そうかそうか! はは、そうしてやれ」
「ありがとうございます」
微笑んでガイアスはその場を後にする。
公爵領は、王都からさほど離れていない場所にある。普段は利便性を考えて王都にあるタウンハウスに住んでいるが、ナディスやターシャは基本的に公爵領にある屋敷に住んでいる。
いずれ、ナディスが成長すればタウンハウスから王都にある学校に入学することとなるのだが、それはまだ時間がかかることだろう。
とはいえ、王太子妃教育があるためにタウンハウスの方がメインで稼働しそうになりそうだ、とガイアスは思った。
「出してくれ」
公爵家の家紋が入った馬車に乗り込んで、合図をすればゆっくりと走り出す。
がたがたと揺られながら、今回の婚約について色々と考えていた。
きっと、ナディスは王太子妃として立派にその役目を成し遂げてくれるにちがいない。だが、ナディスの性格を考えると側妃候補を連れてこられた日には、その候補に何をするのか……と考えただけでひやひやする。
だが、仮に。本当にもしもの話にはなるが、ナディスが子を成すことができなければ間違いなく必要になってくる存在だ。
「(……そのあたりは、あの子であれば承知しているはずだが……一応言い聞かせておこう)」
走る馬車に揺られながら、思わず冷汗を流したガイアスだったが『役目』が何たる者かを考えられるナディスであれば、理解するはず。そう思って残りの時間はゆったりと過ごしたのであった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……側妃」
帰って報告をしたガイアス。そして安堵したのかほっとしていたターシャだったのだが、ナディスだけが『側妃』という単語を聞いてひたりと動きを止めた。
「ナディス?」
「そうですわよね……側妃候補……」
何やらぶつぶつ言っているナディスを見て、何となくガイアスとターシャは不安になるが、とはいえこれはナディスの一存でどうにかなるものではない。
「ええ、側妃。分かりました」
何かがあるのではないか、そう思わせるのには十分すぎる程に沈黙してから、ナディスはぱっと顔を上げて微笑んでみせた。
分かった、ということであれば本当に分かったのだろう、と両親は揃って判断し、頷き合う。側妃を娶ったとしても本当のところ一切問題などないのだから。
「ではナディス、これからのことについて説明させてもらおう」
「はい、お父様」
先ほどまでの異質さはどこかに消え、ナディスはすっと背筋を伸ばして真剣な表情になる。
既にミハエルとは顔合わせをしているから、もう顔合わせの必要はない。
よって、今後の話をしておかなければならないのだ。
「まず、ミハエル殿下が王太子へとなることが決定した。これは我が家がミハエル殿下の後見となることで確定したものだ」
「まぁ……!」
嬉しそうに笑っているが、この笑顔の裏ほど恐ろしいものはない。ガイアスもターシャも我が子の色々な意味での優秀さも恐ろしさも知っているのだから。
「殿下が立太子されてから、お前が王太子妃筆頭候補に任命されるだろう。その後……そうだな、おおよそ一月後から王太子妃教育が始まることになる。ナディス、覚悟はできているか?」
「勿論です! お父様、お母様、わたくし頑張りますわ!」
本人が希望したことで、本人が頑張る、と言ったのであれば子供とはいえ責任はついて回るのだから。
王太子妃教育に関しては、王妃自らが教師陣を準備する、と張り切っていたこともあり、早々に人選に取り掛かっていることだろう。
「ナディス、やるからには徹底なさい。あなたは、我がヴェルヴェディア公爵家から嫁ぐ身。将来の国王の妻として恥じないよう、完璧な淑女としてこれから成長していくのですよ」
「はい、お母様」
言わなくても、きっとナディスは問題無くこれからの王太子妃教育をこなしていくだろう。親として、何かあった時は手伝い……といっても、勉強の手助けなどではなくほんの少し愚痴を聞いてあげたりすることしかできないわけだが。
「一月後、一緒に王宮に行って教育係のご婦人にご挨拶をしよう。ナディス、それまではいつも通り家庭教師との勉強に励みなさい」
「わかりましたわ!」
ぱっと顔を輝かせたナディスは、嬉々としてカーテシーを披露してからその場を退出する。見送った両親は揃って大きくため息を吐いた。
「……ナディスがやる気だからまぁ良いとして、だ」
「ええあなた……。先ほど、側妃という単語を出したときのあの雰囲気を思えば少し……あの、恐ろしい感じもいたしますが……」
二人は嫌な予感がしつつも、婚約発表に向けて公爵家が行う準備を……と、使用人に指示を出し始める。
お披露目の際のナディスのドレスや、発表当日のパーティー会場のかざりつけなど。決してやることは少なくはないのだから。
そして、スキップをして部屋に戻ったナディスはうきうきとした様子でお気に入りの童話の本本棚からを取り出した。
「うふふ、良かった! お父様、しっかりとお願いを叶えてくださったわ!」
ナディスが手にしている童話では、王子様とお姫様はいつだって平和に、どこまでも幸せに過ごすのだ。
邪魔も入らず、二人だけの世界で……いや、他にも人はいるけれど側妃なんか存在はしない。王子様にはお姫様が居れば良い。ハッピーエンドを迎えたならば、その先はそのまま走っていけばいいのだから。
「側妃がどうとか……言っていたけれど、そんなのいらないわ。側妃なんてただの子供を産むだけの道具にすぎないじゃない」
行儀が悪い、と叱られるかもしれないが、ナディスはベッドにころりと寝転がる。天井をぼんやりと見上げて、招待されたあの時のミハエルの優しさを思い出してうっとりと目を細めた。
「ミハエル様……本当に素敵なお方だったわ……! お会いできたことだけでも嬉しいのに、本物の王子様だなんて」
嬉しい気持ちのまま、ころころと少しベッドを転がってから、がばりと起き上がる。そして、髪型やドレスを直してから姿見の前へと歩いていった。
「……大丈夫、きっと……大丈夫」
王太子妃教育がどれだけ苛烈なものかは分からないけれど、やりきってやるのだと決めている。その先に待っているのは『王太子妃』を経て、この国の国母たる『王妃』に到達すること。
「(ミハエル様が一緒なのだから、大丈夫)」
自分に言い聞かせるように、ナディスは心の中で呟いた。あと一か月もすれば王太子妃教育が開始される。
まずは、それを迎えるための準備もあるのだから、これから時間を一分たりとも無駄になんかできないのだから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「それではここに、両家の婚約が成ったことを宣言する」
わぁ、と歓声が上がる。
ナディスも、ミハエルも、幼いながらにこの日のためにとありとあらゆることを叩き込まれたのだから、ぐったりとしていた。
「ミハエル様……わたくしたち、とても頑張りましたわよね……」
「ああ……頑張った」
今からここに来るまでに、一か月もあったというが二人からすれば『一か月しか』なかった。
様々な準備や式典の練習、公爵家と王家の婚約ということもあって結納の品の数々を選定したり持参金を用意したりと、することは山積み。
幼い二人が行うことが大量にあるわけでもなかったのだが、衣装合わせだけで相当な時間を要した。しかも、この婚約式当日に合わせるように特注で作成された衣装を着るだけでも実はかなりの時間を要するのだが、当事者のみぞ知る、というやつである。
「ミハエル様、これからよろしくお願いいたしますわ」
「こちらこそ」
ミハエルが最初に見せた俺様な部分は、どうやらキャロラインにだいぶ叱られたのか、すっかり見られなくなっている。
そんなところも好き! とうっかり叫んだナディスをヴェルヴェディア公爵家の皆様はばっちり目撃もしているし、侍女長から『お嬢様、そろそろその癖をおさえなさいませ』と淡々と叱られたりもした。
だが、好きな人の何もかもが愛しく感じてしまうのだから仕方ないとナディスは思っているので、形式上の返事だけをしておいた。
「さぁ、ナディス嬢。こちらへ」
「はい殿下」
婚約を交わした二人は手をつなぎ、国王夫妻の元へと歩いていく。
ここしばらくは式典の打ち合わせなどで王宮に頻繁に来ていたため、ナディスとミハエルの距離感はとても近くなっていた。
二人が一生懸命になっている様子を見て、周りも『あら、可愛らしい』と微笑んでいることが多く、とてもお似合いな可愛らしい将来の王太子夫妻だ、とあちこちで言われていたくらいに有名な婚約者へとなっていた。
す招待客へと挨拶も済ませた、国王夫妻への挨拶も滞りなく済ませたのだから、これからは本格的にミハエルは王太子教育が、ナディスは王太子妃教育が開始されることとなったのだ。