「咥えろ」って、一体何を?
これから何が始まるというのだろう。
得体のしれない不安を抱えつつ、僕はレオさんの命令通り、軽く口を開けてみせた。
すかさずその隙間にめがけて、ピンク色のポッキーがつっこまれる。
「ななななな……っ⁉︎」
「いいからじっとしてろ」
黒い瞳にひと睨みされると、僕の体は条件反射のようにカチッと凍りついた。
レオさんの大きな手がこちらに伸びてきて、首の後ろに回る。
真正面に立った不機嫌顔が、じわりと距離を詰めてきた。
一連の行動の意味を理解すると同時に、心臓が大きく跳ねて、暴れだす。
(これ、ポッキーゲームだ……!)
言わずと知れた、2名がポッキーの両端を咥えて同時に食べ進めていく、有名な娯楽だ。
明確なルールはないけれど、だいたいが途中で口を離したり、顔を逸らしたりした方が負けとされる。
要するにチキンレースだ。
かろうじて冷静さの残る脳で辞書を引いている間に、僕が咥えているポッキーの反対側に、レオさんの薄い唇がスタンバイした。
「よーい、スタート!」
お客さんの楽しげな合図が、僕には死刑宣告のように聞こえた。
ポリッ、ポリッ。
レオさん側から削られていく音と振動が、ポッキーを通して伝わってくる。
秒速1.5センチで唇が迫ってくる緊張感たるや、半端じゃない。
今にも心臓が肋骨を突き破って、飛び出してきそうだ。
「やっは、むい……!」
耐えられなくなった僕は、言葉と目で懸命に中止を訴えかける。
するとレオさんがフッと短く吐いた息が、唇をくすぐった。
冷笑だ。
つまり「やめるつもりはない」という意味だろう。
やめないイコール、唇同士がぶつかるまでやる、という事。
(むり無理ムリ! 今日初めて会った、しかも男の人とキスなんてっ!)
しかし相手が腹を決めているなら、こちらでどうにかするしかない。
もうチキンと呼ばれようが負け犬とののしられようが、どうでもいい。
(下だ! 下に逃げよう!)
首の後ろを右手で掴まれてしまっているけれど、勢い良くしゃがめば、拘束から逃れられるはずだ。
ところが、考えついた妙案はとっくに読まれていたらしく、レオさんの左手が、僕の腰を抱きしめるように強く引き寄せた。
続けざまに太腿が股に差し入れられ、退路を塞がれてしまう。
(い~や~だ~~~~っ!)
胸を両手で思い切り押し返す抵抗も、きっとただの悪あがきでしかない。
手の平に伝わる胸筋の感触は、僕の薄っぺらな胸と違って、きちんと厚みと張りがあるから。
力比べで勝てっこない。
絶望感でいっぱいになり、僕はぎゅっと目を瞑った。
その直後、恐れていた瞬間が訪れた。
ふにゅっと柔らかな感触。
わずかに感じるざらつきは、ポッキーの細かな破片だろう。
立ち昇ってきたいちごチョコの甘い香りに、頭がくらくらしてくる。
唇と唇が重なってから、およそ3秒。
やっと、拘束が解かれた。
「すっご! 尊すぎて砂吐きそう!」
元凶であるポッキーをオーダーしたお客さんが、興奮して歓声を上げている。
頭が真っ白になった僕は、その声を意識のはるか遠くで聞いていた。
はっと正気に戻った時には、僕はバドミントン部の部室にいた。
いや、バド部の部室とよく似た、スタッフルームだ。
レオさんはこちらに背中を向けて座り、長机でタブレットを操作している。
「……すいません」
何と話しかけたらいいか分からずに、とりあえず謝ると、悪魔の4本角がくるりと向きを変えた。
「今日はもう帰っていい。あれを皮切りに、オプションが次々オーダーされるだろうからな」
「オプション?」
「細かい事は封筒のQRからマニュアル読んどけ。
中身は今日の日払い。受け取ったらここにサイン」
ぶっきらぼうな指示の陰に、いら立ちが見え隠れしている。
だからとてもじゃないけれど、訊けない。
「なんで急にポッキーゲームなんか始めたんですか?」「左とか右って、どういう意味ですか?」なんて。
「早くしろ」
いらつきを隠しもしなくなったレオさんの声に急かされ、僕は渡されたタブレットに慌ててサインする。
電子サインは時々する機会があるけれど、どうも苦手だ。
何万回と書いている自分の名前なのに、タッチペンだとまともに書けた試しがない。
ましてやレオさんの冷たい視線が手元に注がれる緊張感の中で、綺麗に書けるはずもない。
背中に変な汗が滲んでいるのを感じつつ、名前の最後の一画を不格好に書き終える。
タブレットを差し出すと、レオさんの口角が初めて上がった。
にっこりではなく、ニヤリと。
「よし、雇用契約書はこれでOKだ」
「雇用契約書⁉︎ 僕てっきり、日払いの受領サインだと」
「いい勉強になったろ」
「そのやり口って詐欺じゃないですか⁉︎ 無効です、こんな契約」
ぶつけた恨み言の尻尾が、パイプ椅子の軋む音で遮られた。
立ち上がったレオさんが、僕より2サイズ上であろうベストの胸ポケットに、意味ありげに手を入れる。
そこからつまみ出された物を見て、ハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
「それ、さっきのポッキーゲームの写真⁉︎」
画角的に、ポッキーを注文したお客さんが撮ったのだろう。
個人が特定できるくらいはっきりと、驚いた僕の横顔が写っている。
対して僕と唇を重ねるレオさんは、首を画面奥方向へ傾けているため、正体不明だ。
あの場にいた人ならば、僕とレオさんのポッキーゲームのクライマックスシーンだと分かる。
けれど何も知らない人が見たら、僕がどこぞの男の人とキスしていると思ってしまうだろう。
間違いなく、僕の黒歴史の証拠品だ。
こんなものが世に存在していたら、人生詰んだも同然だ!
「返し……いや、僕に渡してください!」
奪い取ろうと必死に手を伸ばすけれど、悲しいかな、高く掲げられたフィルムには、ちっとも届かない。
自分のチビさ加減が恨めしい。
そしてレオさんの高身長が妬ましい。
泣く泣く奪取を諦めた僕の目の前、ポッキー1本分ほどの位置に、レオさんの勝ち誇ったような微笑が迫る。
「ハル、次のシフトは?」
「……明日、また来ます」
納得の返事を引き出したレオさんは、フィルムを胸ポケットにしまい、スタッフルームを出ていった。
ドアが閉まる音と同時に、がくんと膝から力が抜ける。
終わった。
あの写真をネタに脅されたら、僕はこの先、どんなひどい命令にも従わなければならない。
万が一、世間に流出しようものなら、この先に訪れるであろう就職や結婚にまで、悪い影響が出てしまうかもしれないのだから。
僕の人生、お先真っ暗だ。
ひとしきり絶望感を噛み締めた後、僕はのろのろと着替え、魔の巣窟を後にした。
駅に向かう足が、枷をはめられているように重い。
溜め息をつきながらポケットに手を入れると、カサッと乾いた音がした。
レオさんに渡された、今日のバイト代が入った封筒だ。
中には4枚の千円札と500円玉が1枚、それと給与明細が入っていた。
たった2時間でこれだけもらえるなんて、紹介者である美羽ちゃんの言っていた通り、なかなかの高時給だ。
先輩キャスト達もちょっと変わってはいるものの、おおむね好意的だし、働きやすそうな職場ではある。
けれど──レオさんに詐欺のように雇用契約書されられたし、脅迫まがいの事までされているし、どうも不信感が拭えない。
もやもやした気持ちで、現金と共に入っていた明細を眺める。
『労働時間……2時間0分
基本給……2000円
PGバック×1……500円
差引支給額……4500円』
(このPGバックって何だろ?)
見慣れない、聞き覚えのない単語だ。
PG、PG……としばらく口の中で転がしてみて、ピンとひらめいた。
「ポッキーゲーム」だ。
そのキックバック金額が、500円。
つまり──僕のキスの、唇の価値は、ワンコイン分しかないという事。
「ぬあぁぁぁ……っ!」
情けないやら悲しいやら腹立たしいやらで、感情がぐちゃぐちゃだ。
おまけにレオさんの唇の感触までリアルに蘇ってきてしまって、僕は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
(もう最悪だ!
けど最悪って事は、これ以上落ちるはずなんてないんだ。
よし、寮に帰ろう……!)
弱った精神を自己暗示で奮い立たせ、僕は駅までの道を再び歩き始める。
しかし悪い事というのは、不思議と続いてしまうもの。
やっとの思いでたどり着いた学生寮では、さらなる不幸が僕を待ち構えていた。