目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
#3・唇の代価はワンコイン



 「咥えろ」って、一体何を?


 これから何が始まるというのだろう。


 得体のしれない不安を抱えつつ、僕はレオさんの命令通り、軽く口を開けてみせた。


 すかさずその隙間にめがけて、ピンク色のポッキーがつっこまれる。


「ななななな……っ⁉︎」


「いいからじっとしてろ」


 黒い瞳にひと睨みされると、僕の体は条件反射のようにカチッと凍りついた。


 レオさんの大きな手がこちらに伸びてきて、首の後ろに回る。


 真正面に立った不機嫌顔が、じわりと距離を詰めてきた。


 一連の行動の意味を理解すると同時に、心臓が大きく跳ねて、暴れだす。


(これ、ポッキーゲームだ……!)


言わずと知れた、2名がポッキーの両端を咥えて同時に食べ進めていく、有名な娯楽だ。


 明確なルールはないけれど、だいたいが途中で口を離したり、顔を逸らしたりした方が負けとされる。


 要するにチキンレースだ。


 かろうじて冷静さの残る脳で辞書を引いている間に、僕が咥えているポッキーの反対側に、レオさんの薄い唇がスタンバイした。


「よーい、スタート!」


お客さんの楽しげな合図が、僕には死刑宣告のように聞こえた。


 ポリッ、ポリッ。


 レオさん側から削られていく音と振動が、ポッキーを通して伝わってくる。


 秒速1.5センチで唇が迫ってくる緊張感たるや、半端じゃない。


 今にも心臓が肋骨を突き破って、飛び出してきそうだ。


「やっは、むい……!」


耐えられなくなった僕は、言葉と目で懸命に中止を訴えかける。


 するとレオさんがフッと短く吐いた息が、唇をくすぐった。


 冷笑だ。


 つまり「やめるつもりはない」という意味だろう。


 やめないイコール、唇同士がぶつかるまでやる、という事。


(むり無理ムリ! 今日初めて会った、しかも男の人とキスなんてっ!)


 しかし相手が腹を決めているなら、こちらでどうにかするしかない。


 もうチキンと呼ばれようが負け犬とののしられようが、どうでもいい。


(下だ! 下に逃げよう!)


 首の後ろを右手で掴まれてしまっているけれど、勢い良くしゃがめば、拘束から逃れられるはずだ。


 ところが、考えついた妙案はとっくに読まれていたらしく、レオさんの左手が、僕の腰を抱きしめるように強く引き寄せた。


 続けざまに太腿が股に差し入れられ、退路を塞がれてしまう。


(い~や~だ~~~~っ!)


 胸を両手で思い切り押し返す抵抗も、きっとただの悪あがきでしかない。


 手の平に伝わる胸筋の感触は、僕の薄っぺらな胸と違って、きちんと厚みと張りがあるから。


 力比べで勝てっこない。


 絶望感でいっぱいになり、僕はぎゅっと目を瞑った。


 その直後、恐れていた瞬間が訪れた。


 ふにゅっと柔らかな感触。


 わずかに感じるざらつきは、ポッキーの細かな破片だろう。


 立ち昇ってきたいちごチョコの甘い香りに、頭がくらくらしてくる。


 唇と唇が重なってから、およそ3秒。


 やっと、拘束が解かれた。


「すっご! 尊すぎて砂吐きそう!」


元凶であるポッキーをオーダーしたお客さんが、興奮して歓声を上げている。


 頭が真っ白になった僕は、その声を意識のはるか遠くで聞いていた。


 はっと正気に戻った時には、僕はバドミントン部の部室にいた。


 いや、バド部の部室とよく似た、スタッフルームだ。


 レオさんはこちらに背中を向けて座り、長机でタブレットを操作している。


「……すいません」


何と話しかけたらいいか分からずに、とりあえず謝ると、悪魔の4本角がくるりと向きを変えた。


「今日はもう帰っていい。あれを皮切りに、オプションが次々オーダーされるだろうからな」


「オプション?」


「細かい事は封筒のQRからマニュアル読んどけ。

中身は今日の日払い。受け取ったらここにサイン」


 ぶっきらぼうな指示の陰に、いら立ちが見え隠れしている。


 だからとてもじゃないけれど、訊けない。


「なんで急にポッキーゲームなんか始めたんですか?」「左とか右って、どういう意味ですか?」なんて。


「早くしろ」


 いらつきを隠しもしなくなったレオさんの声に急かされ、僕は渡されたタブレットに慌ててサインする。


 電子サインは時々する機会があるけれど、どうも苦手だ。


 何万回と書いている自分の名前なのに、タッチペンだとまともに書けた試しがない。


 ましてやレオさんの冷たい視線が手元に注がれる緊張感の中で、綺麗に書けるはずもない。


 背中に変な汗が滲んでいるのを感じつつ、名前の最後の一画を不格好に書き終える。


 タブレットを差し出すと、レオさんの口角が初めて上がった。


 にっこりではなく、ニヤリと。


「よし、雇用契約書はこれでOKだ」


「雇用契約書⁉︎ 僕てっきり、日払いの受領サインだと」


「いい勉強になったろ」


「そのやり口って詐欺じゃないですか⁉︎ 無効です、こんな契約」


ぶつけた恨み言の尻尾が、パイプ椅子の軋む音で遮られた。


 立ち上がったレオさんが、僕より2サイズ上であろうベストの胸ポケットに、意味ありげに手を入れる。


 そこからつまみ出された物を見て、ハンマーで殴られたような衝撃を受けた。


「それ、さっきのポッキーゲームの写真⁉︎」


 画角的に、ポッキーを注文したお客さんが撮ったのだろう。


 個人が特定できるくらいはっきりと、驚いた僕の横顔が写っている。


 対して僕と唇を重ねるレオさんは、首を画面奥方向へ傾けているため、正体不明だ。


 あの場にいた人ならば、僕とレオさんのポッキーゲームのクライマックスシーンだと分かる。


 けれど何も知らない人が見たら、僕がどこぞの男の人とキスしていると思ってしまうだろう。


 間違いなく、僕の黒歴史の証拠品だ。


 こんなものが世に存在していたら、人生詰んだも同然だ!


「返し……いや、僕に渡してください!」


奪い取ろうと必死に手を伸ばすけれど、悲しいかな、高く掲げられたフィルムには、ちっとも届かない。


 自分のチビさ加減が恨めしい。


 そしてレオさんの高身長が妬ましい。


 泣く泣く奪取を諦めた僕の目の前、ポッキー1本分ほどの位置に、レオさんの勝ち誇ったような微笑が迫る。


「ハル、次のシフトは?」


「……明日、また来ます」


 納得の返事を引き出したレオさんは、フィルムを胸ポケットにしまい、スタッフルームを出ていった。


 ドアが閉まる音と同時に、がくんと膝から力が抜ける。


 終わった。


 あの写真をネタに脅されたら、僕はこの先、どんなひどい命令にも従わなければならない。


 万が一、世間に流出しようものなら、この先に訪れるであろう就職や結婚にまで、悪い影響が出てしまうかもしれないのだから。


 僕の人生、お先真っ暗だ。


 ひとしきり絶望感を噛み締めた後、僕はのろのろと着替え、魔の巣窟を後にした。


 駅に向かう足が、枷をはめられているように重い。


 溜め息をつきながらポケットに手を入れると、カサッと乾いた音がした。


 レオさんに渡された、今日のバイト代が入った封筒だ。


 中には4枚の千円札と500円玉が1枚、それと給与明細が入っていた。


 たった2時間でこれだけもらえるなんて、紹介者である美羽ちゃんの言っていた通り、なかなかの高時給だ。


 先輩キャスト達もちょっと変わってはいるものの、おおむね好意的だし、働きやすそうな職場ではある。


 けれど──レオさんに詐欺のように雇用契約書されられたし、脅迫まがいの事までされているし、どうも不信感が拭えない。


 もやもやした気持ちで、現金と共に入っていた明細を眺める。


『労働時間……2時間0分

基本給……2000円

PGバック×1……500円

差引支給額……4500円』


(このPGバックって何だろ?)


見慣れない、聞き覚えのない単語だ。


 PG、PG……としばらく口の中で転がしてみて、ピンとひらめいた。


 「ポッキーゲーム」だ。


 そのキックバック金額が、500円。


 つまり──僕のキスの、唇の価値は、ワンコイン分しかないという事。


「ぬあぁぁぁ……っ!」


 情けないやら悲しいやら腹立たしいやらで、感情がぐちゃぐちゃだ。


 おまけにレオさんの唇の感触までリアルに蘇ってきてしまって、僕は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。


(もう最悪だ!

けど最悪って事は、これ以上落ちるはずなんてないんだ。

よし、寮に帰ろう……!)


弱った精神を自己暗示で奮い立たせ、僕は駅までの道を再び歩き始める。


 しかし悪い事というのは、不思議と続いてしまうもの。


 やっとの思いでたどり着いた学生寮では、さらなる不幸が僕を待ち構えていた。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?