ソフィアは静かにパンにバターを塗りながら、目の前の光景を観察していた。
長いダイニングテーブルに座るのは三人。無言で朝食を摂る家族。
一見すれば、冷え切った関係に見えるだろう。
夫のエドガーは険しい表情を崩さず、食事に手を伸ばす。
その仕草ひとつひとつが無骨で、愛情の欠片も感じられない。
そして息子のアレクシス。
5歳になったばかりの彼は、座るなり「これ、また昨日と同じパン?」と文句をつけた。
その冷ややかな声に、普通の母親なら溜め息のひとつでもつくだろう。
だが、ソフィアは違った。
彼女の視線は、夫と息子の背後に隠された真実を見抜いている。
夫のエドガー。
無言で食事をしているが、その瞳は隠しきれないほど熱を帯びている。
ソフィアの小さな仕草一つ一つを、鋭い視線で追っているのだ。
まるで、何かを確かめるように、そして何かを悔やむように。
息子のアレクシス。
皮肉交じりの言葉を投げつけるが、その声音にはどうしようもない愛情が滲んでいる。
ソフィアの気を引きたくて仕方がないのだろう。
だが、素直になれないのは、彼が抱える罪悪感のせい。
「ああ、これ…知っているわ」
ソフィアは心の中で呟いた。
そう、この光景は彼女が前世で愛してやまなかった、あの乙女ゲームそのものだ。
タイトルは「君が未来を照らすから」。
タイムスリップしたキャラクターたちが、過去の罪を背負いながら、大切な人を救うために奮闘する切なくも美しい物語。
プレイヤーは、彼らの隠された事情を解き明かし、散りばめられた伏線を紐解きながら、愛と絆を育んでいく。
しかし、この「ノクス家の家族ルート」は攻略が極めて難しかった。
息子の不器用な愛情、夫の不穏な視線、その裏に隠された真実をすべて理解しなければ、彼らとの関係は破綻し、バッドエンドを迎える。
「バッドエンドルートは涙腺崩壊必至」「ノクス家ルートは心臓に悪い」──そんなプレイヤーの悲鳴が攻略サイトを賑わせた、伝説のゲームだ。
もちろん、ソフィア自身も何度も挑戦した。
彼女は息子と夫の複雑な心情を理解しようと努力したが、どうしてもハッピーエンドには届かなかった。
画面越しのキャラクターたちは、必ず最悪の結末に飲み込まれていったのだ。
「誰か、ノクス家ルートでハッピーエンドを見た人はいないの?」と、プレイヤー仲間たちと嘆き合った記憶すらある。
だが、今のソフィアにとって、これはもうただの「ゲーム」ではなかった。
彼女は転生し、この世界に生きている。
目の前で無愛想に朝食をとる息子も、不器用な視線を送る夫も、もう画面の中の存在ではない。
彼らは生身の人間であり、ソフィアにとって、紛れもない『本物の家族』なのだ。
「あのゲームでできなかったこと、今度は現実で成し遂げる番ね」
ソフィアはパンに手を伸ばしながら、そう静かに誓った。
彼女の目の前には、攻略失敗が当たり前だった世界が広がっている。
しかし今回は、プレイヤーではなく、物語の中心にいる「彼女自身」がその結末を書き換えるのだ。
タイムスリップした息子と夫。彼らの抱える罪と苦悩を解き明かし、悲劇を覆す――。
新しい物語の幕が、静かに上がろうとしていた。
「さて、どうしたものかしらね」
ソフィアは微笑みを浮かべながら、再びパンに手を伸ばした。
彼らの事情を知っているからこそ、今度は違う結末を紡ぎたい。
ただの「ゲームの記憶」に終わらせるつもりはない。
そのとき、不意にエドガーが顔を上げた。
「今日のスープ、いつもより美味いな」
その声は低く、まるで無理やり捻り出したようだったが、確かに彼女への気遣いが込められていた。
アレクシスも、パンを一口齧りながら言った。
「まあ、これくらいなら悪くないよ」
その態度はどこか照れ臭そうだった。
――家族としての第一歩。
ソフィアは微笑みながら、心の中で呟いた。
「この物語、今度は私が書き換えてみせるわ」
そして、新たな朝が静かに始まった。