何かあったのかなと思いつつ、自分に用があるなら誰かが部屋まで来るだろうと思った。
そんな悠長な考えで生分解性プラスチックの乾き具合を見ていると、部屋の扉がノックされる。
「どうぞ。」
そう答えると、バリトンの効いた声で「失礼。」と一言発せられて扉が開かれた。
入ってきたのは背の高いがっしりとした男性だ。
40代だろうか、ずいぶんとしぶい顔とどっしりとした雰囲気をしている。上質だがシンプルな衣服に身を包まれ、明らかに上級貴族といった外見だった。
顔を見てその男性の正体にすぐに勘づいたが、後ろからあわててやってきたユーグとティファを見てさらに確信を得る。
「初めてお目にかかります。ソウスケ・イチジョウと申します。」
俺は最近おぼえた貴族に対する礼を行う。
「ふっ、どんな男かと思えば、ずいぶんと肝が据わっておる。」
「ありがとうございます。アヴェーヌ公爵閣下。」
男性はユーグとティファの父親だった。
「ソーと呼んでもかまわぬかな?」
「はい。問題ございません。」
アヴェーヌ公爵と向かい合っていた。
ユーグやティファ、護衛やお付きの人も同席している。
「武芸師範に相談役。いろいろとユーグやティファが世話になっているようだ。」
あの騒がしかった時に到着していたのだろう。俺は気にもかけていなかったが、その後に俺の存在をユーグから知らされたというところか。
「こちらこそ、おふた方には感謝の念しかございません。むしろ今無事でいられるのは、おふた方を始めとしたここにいる方々の温情のおかげだと思っております。」
「ふむ、簡単にだが話は聞いている。それより、この部屋にあるものを見てもかまわないかね?」
「もちろんでございます。」
内心では失敗したと思った。
生分解性プラスチックならば偶然できたものとしてごまかせるが、馬車の設計図は見る者が見れば近隣諸国の技術では発案すらできないものだとわかる。
だが、さすがに断るわけにはいかない。
公爵といえば王族の一員である可能性が高く、さらにここは公爵家の別邸なのである。
「これは···そうか、なるほど。ユーグの言っていたことを立証するかもしれんな。」
俺はユーグに視線をやった。
なぜかドヤ顔をしているが、彼は何を話したのだろうか。
「むぅ、この白いものは乾燥させているのかね?」
「はい。乾いて固まれば、弾力性を持った強い板に変わります。」
「この素材は?」
「牛乳と古いワインです。」
「···は?」
「そんなものでと思われるかも知れませんが、牛乳の白い成分はカゼインと呼ばれ、古いワインに含まれる酸を加えることで硬化します。それが乾燥して固まれば板状のものとなりますが、温めれば別の形に成形することも可能です。完成したものは水にも強く、外でも使うことができます。廃棄する時は土に埋めれば分解されて自然に還る優れものなのですよ。」
「···は?」
いや、そんな表情はやめてもらえないでしょうか?
「父上、ソーの知識は確かです。彼の言うように、完成してからご覧いただくと理解しやすいかと思いますが。」
「ん、むぅ。そうだな。」
「それと、ソーが父上のためにジャックを釣るときの擬似餌を作ってくれました。よろしければ、まずそれをご覧になられてはいかがでしょう?」
「疑似餌?」
「ええ。原料はティースプーンです。」
「···は?」
「と、とにかく一度ご覧下さい。」
ユーグは半ば無理やりに公爵を連れて行った。
「ソー、私はあのような父の顔を見たのは初めてだ。」
ティファが言いたいことはわかる。
混乱に拍車をかけるような真似をしてしまった。
公爵が柔軟な頭を持っていることを祈ることにしよう。
「それにしても、思ったよりも早い到着だったみたいだね。」
「ええ、それが···。」
「うん?」
この後、衝撃的な話を聞かされた。
この国の王子と王女がこちらに向かっているのだという。アヴェーヌ公爵はそのふたりにとって祖父という間柄なため、それほどおかしい話でもないだろう。ただ、王族の直系が王都から離れたこちらまで来るのはそう頻繁にあることではないとは認識できた。
まあ、それは俺に関係があるのかという感じだったので、あまり気にはせず聞き流すことにする。
もしかすると、そのふたりの滞在中はこの屋敷から出て行く必要があるかもしれないが、それはそれで仕方がない。
どこの誰ともわからない者がいると、警備上いろいろと問題が生じるのはわかる。
先ほどのアヴェーヌ公爵も、俺をどんな輩かと見定めるために到着早々にここへ来たのだろう。
いつでも出て行ける準備だけでもすることにした。
街には少ないながらも宿泊施設はある。
俺はあまり気にもせず、乾燥させている生分解性プラスチックをどうやって運ぼうかなと思案することにした。