アヴェーヌ公爵がこちらに来るのはまだ数日先だろう。
その間に生分解性プラスチックで温室に使う板を作らなければならない。
幸いにも、酪農は盛んでミルクの調達もそれほど難しくはない。
酢の代わりとなる古いワインについては、ある程度確保できる見込みもあった。
まずはこちらについてもサンプルを作る必要があるだろう。
そして、これとアヴェーヌ公爵の釣り接待が無事に終われば、もうひとつ着手したいことがある。
車には乗りなれていた俺だが、こちらに来てからは馬車に乗る機会が非常に多い。
ユーグやティファと行動を共にすることが多いため当然のことかもしれないのだが、あの突き上げるような揺れは慣れない。たまにむち打ちになるんじゃないかと思える時もあるくらいだ。
ここは改善すべき点である。
そして、その技術を馬車を作る工房に売ってやろうと思っている。
この都市の産業にするのもいいのだが、コストのかかる馬車製作は貴族などの上流階級を相手どることが多い。
そう考えると、不具合が発生した場合に賠償や責任を負わされる可能性が重々にしてあるのだ。
だから馬車については新たな技術を確立した
技術を生み出したのがこちらでも、それを基に製作されたものは作った工房が責任を負うことになるはずだ。
こちらの世界ではPL法のような製造物責任法は存在しない。法で定められているのは危険や犠牲が生じたときの刑法のみで、個々の紛争はそれぞれに裁判が行われるといった感じだ。
だからこそ、貴族を相手にする商売は直接顔を出さない方がいいといえる。
難癖をつけたり平民だからとマウントをとろうとする貴族はやはり多いらしく、今のようにアヴェーヌ家に世話になっていると、敵対する貴族が罠を仕掛けてくる可能性も考えられるのだ。
法整備があまく、日常の危険も多いこちらではいろいろと警戒しなければならないことが多い。前の世界のように管轄する地域の法や慣習を学んでおけば回避できるなどと思っていると足もとをすくわれてしまう。
衛兵との一件がいい例だといえるが、そこに貴族や有力商人が絡むとさらにややこしいことになりかねないのだった。
ミルクを温める。
今回はアヴェーヌ家の屋敷内で作業を行う。
生分解性プラスチックは、この世界では未知の物質のようなものだ。
あまり公にすると様々な反応が出てしまいそうなため、少し警戒した。
プラスチックは20世紀になってから発明された物質である。中世後期レベルのこちらの技術では、特異すぎて時代を加速させ過ぎるだろう。ただ、俺が作ろうとしている生分解性プラスチックは、牛乳と酢の代わりに使用する古いワインが原料だ。偶発的に出来たものと言っても、それほど疑いはもたれないと思っている。
むしろ、そんな物で大丈夫なのかと不安がられる可能性はあるだろうが、そこは実際に使ってみれば時間が解決するだろう。
コーンシロップもエタノールも然りだ。ティースプーンを使ったルアーに至っては、「川にティースプーンを落として発想した」で押し通せる。
ラノベの異世界転生物のように、無闇矢鱈に文明レベルを無視した提案や発明は控えた方がいい。確かに快適な生活というものを築き上げるためには必要かもしれない。しかし、別の世界とはいえ現実社会の基準を無視すれば、必ず手痛いしっぺ返しにあうだろう。
地位や名声、金や物への執着を持つ者はどこにでも存在する。そういった者たちに注目されてしまうと、必ず身に危険が迫ると思えた。
ユーグを始め、シロップの製造を手伝ってくれている者たちや関わる人々には、箝口令を敷いてもらっている。
俺の知識は先人たちからの借り物だ。
それに、周囲からはやし立てられて有頂天になるほど子供でもない。
もう、前の世界のような手痛い思いはしたくないのである。人に裏切られたり、人生を変えてしまうようなことはできるかぎり避けたかった。
その思いがしばらく先になって崩壊するとは、この時点では思いもよらなかったのである。人生とはままならないものだといえよう。
さて、沸騰させた牛乳を弱火でさらに温めると固形物ができてくる。
そこに古いワインを酢の代わりにゆっくりと投入して軽く混ぜていく。
生分解性プラスチックの仕込みはこれでほぼ終わりだ。
あとは粗熱がとれるように冷まし布巾でこす。水で洗い、強くしぼる。これを何度か繰り返して、水気をしっかりと抜くように別の布巾を使う。
あとは成形するだけで作業は終わりである。
パン生地をこねる時に使うめん棒を用いて薄く伸ばしていった。
余談だが、めん棒とは麺棒のことである。言語としては通用しないので正しくはのし棒という。言語とは非常に難しいものだ。