拙い言葉で日課をこなしていいか、彼女に聞いてみた。
彼女は驚いたような表情で目を見開いていたが、何とか通じたようだ。
「かまわない。」
髪を触りながらそう短く答えた女性。
年齢は十代後半といったところだろう。きれいな顔をしているが、物腰は男前な感じだ。イメージは雪豹といった感じで、きれいな毛皮をまといつつも狩りの時は獰猛といった印象を受ける。ただ、雪豹は人懐っこい一面もある。それが目の前の彼女と一致するかは今のところ不明だ。
先ほどの驚いた表情は、予想以上に言葉を話せると思われたからだろう。昨日はカタコトどころか、単語をぽつぽつと発していただけなのだから当然といえる。
俺は外国語を覚える時も人並み以上に早いという自覚があった。もちろん、まだまだ勉強は必要だと認識している。
余談だが、俺がフランス語を覚えたきっかけはカナダ人女性に告白するためだった。カナダ人の25%は第一言語がフランス語なのだ。それと、日本人は白人男性よりもアレが硬いという
息を深く吐き、呼吸を整える。
合気道の形稽古を行う。
合気道の基本の形はそれほど多くない。
しかし、その形を何度もなぞることで上達する武道なのである。この形は合気道の技そのもので、これを日々磨くことによって理想系に少しでも近づかなければならない。
普段はストレッチと自重トレーニングを終えてから行うのだが、昨日の疲労が体の何ヶ所かにあるため、今回は自重トレーニングは省くことにした。様子を見て問題なければ夜にでもやればいい。
30分ほどが経過しただろうか。汗ばむことなく形稽古を終えると、女性が視線を送ってくる。
そちらを見ると、興味深げに俺を見ていた女性が口を開いた。
「今のは?」
「合気道といいます。」
「アイキ、ドー?興味深い。今度、教えてもらえないかしら。」
「かまいませんよ。」
そう言うと、彼女はにっこりと微笑んだ。
俺はスムーズな会話ができたことに喜びを感じていた。彼女はきれいな顔立ちをしているが、俺の興味は意思疎通ができた方にある。
彼女に興味がないというよりは、どこか遠い世界の存在に思えるからかもしれない。だからこそ、今の自分に最も必要な言語能力の結果に満足しているのだろう。
とにかく、できるだけ早く言葉を吸収しなければ、この世界の理解も追いつかないのである。
「素晴らしい。」
昨日と同じように、執事が俺の言語教育に半日ほどつきあってくれていた。
彼と会話を交わし、不備がないかチェックしてもらっていたのである。
「ありがとうございます。あなたのおかげです。」
「いえ、これほど早く習得されるとは予想外でした。あとは様々な会話を交わしていけば、自ずと理解が深まるでしょう。」
「ええ、日々精進します。それと、ひとつ質問してもよろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
「会話の練習の中で何度か同じキーワードが出ましたが、あれには何か意味があるのでしょうか?」
「どのキーワードでしょうか?」
「確か、シャーナという固有名詞が何度か出てきたかと思うのですが。」
執事が探るような目線を俺に投じた。
「心当たりはありませんか?」
「星という意味でしょうか?」
シャーナというと、ストックホルムの方で星を意味する言葉だったと記憶している。しかし、この地域でそのような言語は使わないだろうとも思った。
「そうですね。詳しいことはユーグ様からお話があるでしょう。あなたはもうある程度の意思疎通が可能です。これから我が主であるユーグ様との面談を受けていただきたいのですが、いかがでしょうか?」
「わかりました。問題ありません。」
「やあ、ゆっくり休めたかい?」
ユーグは執務室にいた。
執事に案内されて彼を訪れ、入室してすぐにソファーを勧められたので腰をおろす。
間もなくユーグも対面のソファーへと座った。
「おかげさまでゆっくりと体を休めることができました。いろいろとありがとうございます。」
「それは気にしなくていい。それよりも、すごいね。もう言葉には不自由しなさそうだ。」
「執事の方の教え方がお上手だったからです。」
「改めて自己紹介させてもらうよ。ユーグ・ド・アヴェーヌだ。」
「ソウスケ・イチジョウです。呼びにくければソウとお呼びください。」
外国人で仲の良い者はみんなそう呼ぶ。たいていはソウではなくソーという発音になってしまうのだが。
「わかったよ、ソー。」
やはり発音しにくいようだ。以後、この屋敷では俺の呼び名はソーで確定してしまった。別にかまわないが、いつもアメコミのヒーローを連想してしまう。
「本題に入ろう。君は何者なんだい?」