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第6話 助走をつけてぶん殴れ



「君は視えているんだねぇ……」


「っう……」


 しまった、目があっている。水瀬ミヤコは何と言っていた、目をあわせたらどうなる。老人の濁った黄色い眼球から視線を逸らせず、息苦しい。悪意が直接に僕の心臓を掴んでいるかのようだ。


「だめだよ〜お爺ちゃん。若者を怖がらせないでください」


「ううん?」


 水瀬ミヤコが僕の後ろに立ち、安心させるように数回両肩を叩いた。老人の気が僕から彼女に逸れたからか、それまで感じていた禍々しい圧が消え、肺の中に新鮮な空気が流れ込んでくる。


「ふーむ……そうだねぇ……もう少し若ければねぇ……残念……残念……」


 老人は僕と水瀬ミヤコの顔を交互に見比べ、不満そうに低く呟き、背中を丸めて去っていった。


「大丈夫? 来栖くん」


「なんなんだこの公園は、変質者しかいないのか……?」


「あれは私も想定外、気持ち悪かったね。でもまだあの子がいるよ、ほら、あのシーソーの……ああっ!!」


「!?」


 大きな声につられてシーソーの方を見る。忌々いまいましくも、さきほどの老人が女の子の腕を掴み、無理矢理引に引っ張って立たせているところだった。


「今日もお前でいいかねぇ……仕方ないねぇ……」


「きゃーーーーっ! やだやだやだぁ!」


 女の子は振りほどこうと必死に足を踏ん張っているが、老人の力に抗えず徐々に引きずられていく。もう死んでいる霊だとわかっていても、小さな子供があんな変質者に捕まっている様子なんて見ていられない。あの子がどんな目に遭わされるか、考えるだけで胸が悪くなる。




「おい、水瀬ミヤコ、やめさせろ」


「えっ、わ、わたし!?」


「僕じゃあいつに触れないだろ」


「あああ、そっか! そうだね! でも、どうしよう!?」


「君、運動神経も良いんだよな? 助走をつけてぶん殴れ。相手は老人だ、女の君でも若さで分がある。早く行け」


「ええ!? 暴力に運動神経関係なくない!? でも……わかった! やるだけやってみる……!!」



 彼女は一瞬ためらったものの、すぐに決意を固めて走り出した。長い髪とセーラー服のスカートをなびかせながら、一気に二人への距離を詰めていく。


「子供をいじめるなーーーー!」


「ううっ……!」


 声を張り上げるや否や、水瀬ミヤコは勢いよく飛び上がり、見事な飛び蹴りを繰り出した。鋭く伸びた脚はつるから放たれた矢のように老人の胸に直撃し、受け身も取れず地面に倒れ込んだ彼の横で美しい着地まで決める。適当に焚き付けただけだったが、運動神経が良いというのは事実だったようだ。あんなの僕にはとても真似できない。


「やった! キマった! 私、超かっこいい!」


「お前ぇぇ……! 儂の邪魔をする気かぁ!」


「早くその子を連れて来い! ひとまず逃げるぞ!」


 くそ。思わず叫んでしまった。数人の子供と母親たちが不審そうに僕を見ている。


「おいで、お姉ちゃんたちが守ってあげる」


「……うん」


 水瀬ミヤコが少女へ向き合い右手を差し出した。不安そうに目を泳がせながらも手を取った少女を引き寄せ、素早くこちらへ駆け寄ってくる。


「よし、その子とはぐれるなよ」


「わかってる!」


 そのまま三人で一気に走り出し、公園を後にする。老人が追って来ていないか何度も確認しながら、いくつかの角を曲がり、細い路地裏や人通りの少ない道を選んで進んだ。息切れしそうになりながらも足を止めずに走り続ける。


「はぁ、はぁ、はっ……はは、傑作だったよ水瀬ミヤコ。女子高生が老人を蹴り飛ばすモラルの欠片もない絵面ではあった、でもあの変質者にはお似合いだ」


「手で触るの気持ち悪かったから足にしたの! 格好良かったでしょ!」


「そうだな、ははっ、感心したよ」


「ふふ、ありがと! 来栖くん、そんなふうに笑うんだね」


「笑うさ、気分がいいときは」


「来栖くんの、そーいう性格曲がってるとこも、好きだよ私」


 にこにこと機嫌が良さそうな水瀬ミヤコと、不思議そうに僕らの顔を見比べる少女。完全に息が上がり足を止めた時には汗だくで目眩がするほど疲弊していたが、不思議と爽快な気分だった。






「ここなら、大丈夫だろう、たぶん」


 石段を上がり鳥居をくぐると、急に空気がひんやりと感じられた。境内には誰もおらず、木の葉のさざめく静寂だけが広がっている。どこか安全な場所はないかと考え、ふと、普段からあまり人気のないこの鷹角たかかど神社のことを思い出した。なんとなく、神社なら悪いものが入ってこれないような気もした。


 こめかみから流れ落ちる汗をハンカチで拭い、蒼い影の落ちた木陰に座ってようやく一息つく。水瀬ミヤコと少女はあれだけ走ったのにもかかわらず、汗を掻くどころか息一つ乱していない。


「……君たちは、姿を消せばよかったんじゃないのか? 僕と走る必要はなかっただろ」


「それじゃ来栖くんが寂しいでしょ。それに、走るの楽しかったよ。ね?」


「うん……」


 少女が控えめにうなずく。水瀬ミヤコはそんな彼女の横にしゃがみこむと、両手を握って笑顔で話し始めた。


「ねえ、お名前なんて言うの? 私は水瀬ミヤコ、このお兄ちゃんは来栖ハヤトくん。あなたのお名前も教えてくれる?」


「サヨリ……初田はつたサヨリ……です」


「サヨリちゃんか、じゃあ、さっちゃんだね。よろしくさっちゃん!」


「初田サヨリ……?」


「なに? どうしたの来栖くん」


 一瞬、彼女の名前に引っかかりを覚えた。どこかで聞いたことがあるような気がする――でも思い出せそうにない。


「いや……なんでもないよ。ちょっと聞き覚えがあるような気がしただけだ」


「ふーん? 思い出したら教えてね。ねえ、さっちゃんは何歳なの?」


「六さい……です」


「六歳。小学一年生か……。こんな小さな子にも、成仏できないほどの未練が残るのか? 」


「んー……。さっちゃん、自分がなんで死んじゃったか覚えてる?」


「うん……サヨリ、おぼれたの」


 溺れた。水難事故……? 気の毒に。


「さっちゃん。死んだらみんなお空の上に行くんだよ。でも、さっちゃんはまだ行きたくないんだよね? どうして行きたくないのかな?」


「……サヨリ、お母さんがさみしくないか、心配なの……」



 僕と水瀬ミヤコは無意識に顔を見合わせていた。二人して、母親を想うあまり成仏できない無垢な子供の純粋さに心を打たれていた。公園にいたあの変質者共はこの子の爪の垢を煎じて飲むべきだ。尊さに爆発霧散して消滅してしまえばいい。


「……なあ、さっちゃん。おうちがどこにあるか憶えてるか? 僕がお母さんに会って様子を見てこようか?」


「おうちにはもう行ったの……でも、誰もいないの」


「えっ? 引っ越しちゃったのかな?」


「あり得なくもない。行って確かめてみるか」


「うん。じゃあ、さっちゃん、おうちまで案内してくれる?」


「うん……」


「ありがとう。よろしくね」


 まだ不安そうにしているさっちゃんの頭を、水瀬ミヤコが優しく撫でる。静かな慈愛が込められた仕草に、さっちゃんの表情が少しだけ和らいだ。僕も撫でてあげられたら良かったのにと、少しだけ妬けた。




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