エアコンから吹き出す低い風音、ノートを走るシャーペンの音、グラスの中の氷が溶ける音。心を落ち着かせる静けさの中で、机に広げられた宿題を解いていく。時刻は午前九時。外では夏の熱気が徐々に街を覆い尽くしている頃だろうが、二十四度に設定されたこの部屋では汗ばむことすらない。

「夏休みでも早起きするんだね、来栖くん」

「……」

　背後から水瀬ミヤコの声がする。遠くから響いてくるような、すぐ耳元で囁かれているような妙な感覚だ。相変わらず気配も音なく現れる彼女を無視し、目の前の宿題に意識を集中させようとする。

「無視しないで欲しいなー」

　なにか柔らかなものがうなじをゆっくりと這う。彼女の指に撫でられていると悟り、反射的に身体が強張った。冷たく無機質な感触が肌に染み込んでいく。

「やめろ、僕に触るなと言ってるだろ」

「可愛い女の子に触られて、嬉しくならないの？」

「君の手は体温を感じなくて気色が悪い、死体に触られているみたいだ。嬉しくない」

「死んじゃってるんだから仕方ないよ。慣れてもらわなきゃ」

「慣れる必要なんてない。君が触らなければいいだけだ」

「こーいうの何て言うんだっけ？ 押し問答？ 暖簾に腕押し？」

　そう言いながら、水瀬ミヤコが僕の横に立った。今度は手首から肘にかけてを人差し指でゆっくりとなぞる。僕は顔を上げず、ノートに目を落としたままシャーペンを握りしめた。不快だ。生きている人間のように振る舞うくせに、触れられる度に彼女の「死」を意識させられる。気に食わない。

「馬耳東風」

「え？ なあに？」

「なんでもない。静かにしてくれ、僕は宿題をする。邪魔するな」

「もー、真面目すぎない？ 終わったら私の相手、してよね」

　ようやく視界から水瀬ミヤコが消え、小さく息を吐く。僕に取り憑いたことで彼女から僕に触れるようにはなったが、僕から彼女に触れることはできない。こうやって悪戯にちょっかいをだされても、力で抵抗してやめさせることは出来ず、文句を言うか無視を決め込むしかない。僕に不利な条件があると先に知っていれば「協力」を約束したりしなかった。こんなの、だまし討ちに近い。

　水瀬ミヤコは意外に狡猾だ。人を魅了する見目の良さ、無邪気で明るい笑顔、目を惹く大人びた立ち居振る舞い。ほとんどすべてが確かな計算や意図によって成り立っている、というのがこの数日間彼女を見てきた僕の所見だった。うまく絆されてしまった手前、大きな声で文句は言えないが、これ以上僕に不利益がないよう警戒はしたい。

＊＊＊

「ハヤトちゃん、もうお昼よ。降りていらっしゃい」

　ドアをノックする音と共に母の声が聞こえ、卓上時計に目をやる。午後十二時十三分。腹の奥がじわりと空腹を訴えてくる。

「もうこんな時間か……いま行くよ、母さん」

　椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。背中で骨が心地よく鳴り、なんとなく満足感を得る。机の上に散らばった宿題や筆記用具を片付けて、部屋の中を見渡すと水瀬ミヤコの姿はどこにも無かった。

「宿題は進んでる？ 真面目にお勉強するのは偉いけど、ずっと机の前に座っているのは良くないわ。気分転換に午後はお散歩でもしてきたら？」

「ん－……。でも、外暑いし」

「出かけるときは帽子と日焼け止めを忘れないでね。 ハヤトちゃん、お父さんに似てすぐ赤くなっちゃうから」

「うん……」

　一階の居間で昼食をとり、母と他愛のない雑談を交わす。いつもどおり僕を心配してばかりだけど、今日の母は顔色がいい。そういえば、しばらく布団に臥せっている姿を見ていない気がする。良いことだ。食事を終えて食器を流し台に片付けると、母が柔らかく微笑んで「ありがとう」と言った。その笑顔に安心して、僕も微笑みを返す。

　部屋に戻ると、ベッドの上に水瀬ミヤコが横になっていた。目を瞑り、腹のあたりで腕を組み、まるで棺桶に入っているかのような姿。死んでいるのに、呼吸にあわせて胸が上下する。でも、息を吸う音も吐く音も聞こえない。生きているときの動作を習慣で模倣しているだけなんだろう。

「ごはん終わった？ 話したいことがあるんだけど」

「起きてたのか……」

「寝ないよ？ 死んでるもん」

「……覚えておくよ」

　幽霊は寝ない、無駄な知識が増えた。ため息をついて椅子に座る。水瀬ミヤコも上体を起こし、ベッドに座りなおした。

「話って？」

「出かけようよ、そのほうが説明しやすいの。近所の公園とかでいいから」

「……外は暑い。家じゃだめなのか？」

「うーん。だめってことは無いけど、来栖くんにとってはだめだと思う」

「……？」

「いいから！ 私に無理やり引っ張られたいの？ 準備してよ、来栖くん」

＊＊＊

「よし、ここでいいよ来栖くん。この公園、ばっちり」

　家から十分ほど歩いたところにある公園に着くと、水瀬ミヤコは嬉しそうに声を上げた。ブランコに乗ってはしゃぐ小学生や、砂場で遊ぶ幼児、それを見守る母親たちの姿が見える。外遊びは苦手だったけれど、母に連れられて僕も子供の頃たまに来ていた。当時から遊具はどれも少し古びていたが、子どもたちの遊び場として未だ健在らしい。

　強烈な日差しを避けるため、そして独り言を喋っている姿を周りの人間に見られないように、木陰に入って水瀬ミヤコに向き直った。

「それで、話って何なんだ？」

「来栖くん。あそこのシーソーに乗ってる女の子、みえる？」

「ああ」

「あそこの木の下にいる男の人は？」

「作業着の男か？ 見える」

「あのベンチに座ってるおじいちゃん」

「見える。何が言いたいんだ、水瀬ミヤコ」

「じゃあ、いまあなたのうしろにいるヒト、みえる？」

「……」

　僕のうしろに人なんていない。誰かが近づいたなら、気配なり足音なり、すぐに気づく。しかし、振り向くとすくそばに女が立っていた。染めた明るい茶髪に、綺麗に化粧をした、どこにでもいそうな垢抜けた大人の女。顔だけは正面を向きこちらを見ているが、首も、胸も、腹も、腕も脚も、絞った雑巾のように捻れていた。肋骨が皮膚を突き破り、肉が服を巻き込み、人とは思えない塊になっている。

「……っ」

「視えてるみたいだね」

　嫌だ。見たくない。そう思うのに目を離すと何か悪いことが起きそうで、それでも捻れた異形の部分からは目を背むけたくて、必然的に女の顔を凝視する。瞳は虚ろだが、確実に僕を見ている。ピンク色に艷めく口元に笑みが浮かんだ。

「だめ。この人は私の」

　水瀬ミヤコがいつもとは違う強めの口調で言い放った。その言葉を聞いて、笑みを浮かべたままの女が捻じれた体を動かし始める。骨や肉が擦れ合う奇妙な音を響かせ、ゆっくりと僕たちの横を通り過ぎていった。

「もういいよ、来栖くん」

　彼女の声に安堵を覚えたのは初めてだ。無意識に詰めていた息を吐き出す。

「……っはあ、なんだ、今のは」

「幽霊だよ、私と同じ」

「君とは全然違う、あんな、あれは……化け物だ」

「ずっと成仏できないでいると、どんどん自分のことを忘れていって、ヒトの形を維持できなくなっちゃうんだって。あの霊、きっと自分が誰で何をしてるのかもわかってないよ」

　なぜだか、目の前が暗くなる感覚がした。あれは成仏できなかった霊が辿る末路。それじゃあ――。

「ああなる前に、私のこと好きになってね」

　水瀬ミヤコが可愛らしく首を傾げて笑う。『来栖くんに好きになってほしい、そして私がもう死んでしまっていることを後悔してほしい』それが彼女の望み。叶わなければ、見た目だけは可憐なこの女が自我を無くした異形に成り果てるかもしれない。ただでさえ叶う可能性の低い望みなのに、プレッシャーをかけられた気分だ。

「……なあ。どうして急にあんなものが視えたんだ、僕はいままで霊だの化け物だのとは無縁だったのに……」

「本当に？」

「なんだ？ 当たり前だろう」

「んー。私のことが視えたんだから、もともと霊感みたいなもの、あったんじゃないかなって」

「無い、そんなもの」

「……ふーん。でも、これからはたくさん視るよ」

「どうして」

「私が取り憑いちゃったから。ちなみにあの女の子も、あの作業着の男の人も、あのベンチのおじいちゃんも、みーんな幽霊。百発百中、よく視えました」

「……」

「あれ、どうしたの来栖くん？ もしかして怖いの苦手？ 大丈夫だよー。目を合わせなきゃ、ほとんど関わってこないから」

　にこにこと楽しそうにする彼女を前に、様々な感情が湧き上がる。そんな大事なことは先に言えと抗議したところで、きっとまたヒステリックに言い返されるんだろう。水瀬ミヤコは意外に狡猾だ。わがままで、計算高くて、僕のことが好きだと言いながら恨みも忘れない。

「大嫌いだ、お前なんて」