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第3話 後悔してね


 首筋を通り、胸に流れ落ちる汗が気持ち悪い。バスの待合所で蒸し上げられながら、腕時計を確認する。秒針はゆっくりとしか進まず、次のバスが到着するのは四十分後。セミの喚き声が容赦なく続き、じっとしているだけで体力を奪われていくようだ。


 目の前に立つ水瀬ミヤコ、彼女はこの灼熱の夏とは無縁の涼やかさを保っていた。つややかな濡れ羽色の長い髪は風もないのに軽やかに揺れ、白い肌にはひとつぶの汗も見当たらない。自分はもう死んでいるのだと言葉で説明されるより、いまこの状況で冷ややかな透明感をたたえる姿を見ているほうが、彼女がもうこの世の者ではないことに納得がいく。


「泣いてたね、カナエ」


「親しかったんだろ。友達が急に自殺なんかしたら、泣くだろ」


「来栖くんは、泣いてくれなかったね。早く帰りたいーって顔に出てたよ」


「僕は君となんの関係もないからな」


「またそんなこと言って……」


 水瀬ミヤコは呆れたような表情を浮かべると、僕の隣に腰を下ろした。至近距離に誰かが座れば、普通は微かな体温や空気の流れが伝わってくる。けれど彼女からは一切それが感じられない。髪は軽やかに揺れるが風の影響を受けているわけでもなく、座ったベンチが軋むこともないし、何をしてもちり一つ舞い上がらない。彼女がこの世に物理的な影響を与えることはもう無いのだと知る。



「僕につきまとうのはフラれた恨みがあるからか? 何が望みだ、 恨みを晴らさなければ成仏できないのか? 僕を取り殺しでもするのか?」


「取り殺すかぁ……。できるかもしれないけど、違う」


「じゃあ、なんだ」


「来栖くんに、私を好きになってほしい」


「……もう死んでいる君をか。なんの意味がある」


「わかんない。でもいくら考えても他に未練がないの。ただ来栖くんに好きになってほしい、そして私がもう死んでしまっていることを後悔してほしい。望みはそれだけ」


 また、あの瞳だ。視線を逸らすことを許さないような、意志の強さを潜ませた瞳が真っすぐに僕を見つめる。


「随分と、悪趣味なんだな……。やっぱり、恨んでるんだろ」



 好きになって、後悔してほしいか。水瀬ミヤコは僕のせいで自分が死んでしまったという事実を、どうしても受け入れさせたいらしい。それも、痛みを伴わせる方法で。彼女はいまや僕に執着と恨みをもつ悪霊か。告白を断ったくらいでこんな目にあうなんて、誰が想像できる。



「断ればどうなる」


「どうもしないよ。協力してくれるまでずっとこのまま。毎晩、来栖くんの部屋に出るくらいかな」


「勘弁してくれ……」


「だって、あなたのせいで死んだんだし」


「勝手に死んだんだ、君は。僕に責任をとる義務はないんだぞ」


「私もう幽霊だもん。この世の理屈なんて通じないよ」


 理不尽だ。そんな馬鹿な話があるか。幽霊だからといって、何でも許されるわけじゃない。また、首筋から汗が流れ落ちる。高い湿度のせいでいつまでも蒸発せず、肌と服をべったりと張り付かせる。腹の中で不快さが増していく。



「……本当に告白を成功させたかったんなら、なぜ僕に話しかけたり、親しくなろうとしなかったんだ。君の人となりをもっと知っていたら、少しは考えたかもしれない」


「……」


「黙るなよ。君はいきなり他人同然の男に告白されて、付き合えるのか? もっと知ってほしいと頼まれれば、誰にでも興味をもって時間を割けるのか? 告白が成功しなかったのは、君の努力不足に原因があったんじゃないのか?」


「近づけなかったの! どうしても! 乙女心の問題! 責めないでよ!」


 苛立ちにまかせて詰め寄ると、水瀬ミヤコは僕よりも大きな声で言い返してきた。卑怯だ。乙女心の問題、そう言われたら男の僕はどうしたらいい。


 何も言えずにいると、彼女はふいに目を逸らし、少しだけ俯いた。


「……でも好き。ずっと見てた。今でも好きです」


「…………」


 耳まで赤くなりながら、小さな声でそう呟く。霊に血流の影響なんてあるわけがない。こんなのただの演出だ。見なかったことにしたい。聞かなかったことにしたい。本当に卑怯だ。


「君を好きになれるかなんてわからない。むしろ、自分勝手な望みを聞いてさらに嫌いになった。成仏できる可能性は低い」


「それでもいい、今は」


「なんの努力もなしに、好きになってもらえるなんて思うなよ」


「わかってる。……今なら、私、もっと頑張れる」 


「……はあ」


 なぜ生前それが出来なかった。口に出したところで意味が無い。結局、水瀬ミヤコに消えてもらうには、彼女にとっても僕にとっても不毛な「好きになって後悔する」という望みを叶えてやるしかなさそうだ。



「わかった。協力する」


「本当!?」


「早く君に消えて欲しい。協力するしかない」


「ありがとう! 来栖くん!」


 水瀬ミヤコの顔に、ぱっと笑顔が咲く。周囲の空気を一瞬で明るくしてしまうような、眩しいほどの笑顔。たしかに、容姿だけなら学園のマドンナと呼ばれるに相応しいのかもしれない。


「じゃあ、来栖くん目をつぶって。私の姿を思い浮かべて」


 彼女は機嫌良くそう言うと、ベンチから立ち上がり僕の前に立った。言葉に従い、目を閉じて瞼の裏に彼女の姿を思い浮かべる――濡れ羽色の長い髪、白い肌、希蝶きちょう学園高等学校のセーラー服、そして栗色の大きな瞳。


「……っ!?」


 寒気が走った。背筋が総毛立ち、本能的な恐怖が全身を駆け巡る。言い知れぬざわめきに胸を抑えて目を開けると、水瀬ミヤコが笑っている。両手を伸ばして、触ることが出来ないはずの僕の頬を撫でた。体温を感じない、死人の手。


「お前……何を……」


「ふふ、取り憑いちゃった。こうすると、私からは触れるようになるんだよ。受け入れてくれてありがとう。意外と素直でびっくりしちゃった。これでもう、私の望みを叶える以外に離れる方法はなくなったよ。へんなこと考えないでね。ぜーんぶ無駄だから。私のこと、好きになってね。絶対、後悔してね、来栖くん」



 うっとりと微笑む夏の悪霊。逃れようのない暑さと冷たい手。高二の夏休み、水瀬ミヤコと僕との間に歪な縁が結ばれる。やはり、名前の付けようがない関係だった。




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