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黒き森、赤き涙
Ziem
異世界ファンタジーダークファンタジー
2024年11月18日
公開日
12,862文字
完結
広大な森を守るダークエルフ、イシュタル。彼女は孤独に生きながらも、自然と仲間を守るために戦っていた。だが、ある日森に迷い込んだ人間の地質学者レイと出会い、次第に心を通わせるようになる。

しかし、彼女が信じた人間と、守るべきエルフの仲間たちの間で信頼が崩れ、疑念と裏切りがイシュタルを追い詰めていく。愛と憎しみが交錯する中で、彼女が選んだ結末は——破滅と炎が全てを飲み込む悲劇だった。

第1話

どこかの世界のどこかの場所に、とても広大な森があった。樹々は天空に届くほど高く、風が吹き抜けると葉が囁き合い、静かな音楽を奏でていた。そこには、遥か昔からエルフ族が住んでいた。彼らは自然と共に生き、森を神聖な場所として守り続けていた。しかし、森の周囲に広がる人間の町との争いは、決して絶えることがなかった。


その争いの原因は、森の地下に眠る貴重な資源だった。人々は町の繁栄のためにその資源を求め、森を掘り起こし荒らした。エルフたちは森を守るために人々と対立し、激しい衝突を繰り返していた。しかし、今のところエルフたちは人々を殺すことはせず、せいぜい森から追い返す程度にとどめていた。だが、その中でも一人だけ、過激な行動を取るエルフがいた。


そのエルフは、森で唯一のダークエルフだった。彼女の名はイシュタル。黒く艶やかな髪は夜の闇のように美しく、その美貌は一瞬で人を虜にするほどだった。しかし、その冷たい瞳には決して人間を信じることのできない氷のような鋭さが宿っていた。


エルフたちと共存はしていたものの、イシュタルは村で疎まれていた。ダークエルフという希少で異質な存在であることが、他のエルフたちから距離を置かせていたのだ。彼女は孤独だったが、それを気にしている様子はなく、むしろその孤独を自ら望んでいるかのようだった。


ある日、イシュタルはいつものように森を見回りしていた。彼女は森の守護者として、侵入者を追い払うことを日々の務めとしていた。その日も、見慣れない人間の姿を発見した。森の中で迷い込んでいるように見えたその人間は、若い人間の男だった。


イシュタルは、即座にダガーを手に取り、密かにその男に近づいた。追い払うために攻撃の準備をしていたが、ふと彼女の動きが止まった。男は足元に横たわる怪我をした小動物を手当てしていたのだ。その姿を見て、イシュタルは無意識にダガーをしまい込んだ。人間にしては、珍しい光景だった。


彼女が立ち去ろうとしたその時、不意に踏んだ枝が乾いた音を立てた。彼は驚き、振り返った。その目がイシュタルと合った瞬間、彼の顔には恐怖が浮かんだ。


「ご、ごめんなさい!何もするつもりはないんです!」彼は腰を抜かし、震える声で言った。


イシュタルは冷静に彼を見下ろし、その震える姿に少しの同情も感じなかった。しかし、彼の手が血に染まっていることに気づき、無言で近づいた。


「血が出ている。見せろ。」彼女は無表情で言い、怪我の治療を始めた。地質学者は驚きと気まずさで固まったが、ようやく「ありがとう」と小さな声で感謝を述べた。


最初、彼をただの侵入者として扱おうとしていた。しかし、怪我をした動物を手当てする彼の姿に心が動かされたことで、彼女は武器を収めた。それは、彼女にとって予想外の行動だった。


「何者だ?」イシュタルは冷たい声で問いかけた。彼女の目には警戒心が宿っていたが、攻撃の意図は感じられなかった。


彼は怯えた様子で少し身を引き、答えた。「僕は、ただの地質学者だよ。戦うつもりなんて全然ない。君が思っているような危険な存在じゃないんだ。」


「地質学者?」イシュタルはその言葉を聞き慣れず、少し警戒した。


彼はイシュタルと反対に少しだけリラックスし、彼女の疑問に答えるように続けた。「僕は土や石を調べる学者なんだ。自然がどのように形成されてきたかを知るために、地層や鉱物を研究している。…名前はレイ・エヴァンス。町からこの森の地質を調べに来たんだ。」


レイはそう言いながら、イシュタルを正面から見つめた。その瞳には誠実さが感じられ、嘘をついているようには見えなかった。彼は恐れを感じつつも、彼女に対して敵意を抱いていないことを示そうと努めていた。


「地質を調べに来た?」イシュタルは眉をひそめた。「この森にはエルフが住んでいることを知っているはずだ。それを承知で侵入するとはどういうつもりだ?」


レイは肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。「正直に言えば、僕がここに来たのは政府の指示なんだ。彼らはこの森に眠る資源を欲しがっている。でも、僕自身はこの美しい森を壊したくないんだ。実際、僕はただ自然を理解したいだけで、森を侵略する意図は全くない。」


彼の言葉には、偽りがないように思えた。彼は自然に対して敬意を持ち、その中で生きる生物を大切にしている様子だった。


イシュタルはしばらく沈黙し、彼をじっと見つめた。レイはその視線に少し緊張したが、逃げることなく彼女の目を見返していた。やがて、イシュタルは短く息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。


「私はイシュタル。この森の守護者の一人だ。あなたのような人間は、これまで森に害をもたらす者ばかりだった。だが…少しはあなたの言葉を信じてみよう。だが、裏切ればその時は容赦しない。」


レイはその言葉に頷き、安心した表情を浮かべた。「ありがとう。信じてもらえて嬉しいよ。僕は本当に森に害を与えるつもりはないんだ。ただ、この場所の美しさや秘密を知りたいだけなんだ。」


こうして二人は出会い、少しずつお互いに心を開いていくきっかけを作った。




ある日、イシュタルがいつものようにレイを遠くから見ていると、彼が突然、足を滑らせて倒れてしまった。森の中は木々が密集していて、足元が不安定な場所も多い。イシュタルは一瞬迷ったが、彼の元に駆け寄り、倒れた彼に手を差し伸べた。


「怪我はないか?」と冷静に尋ねるイシュタルに、レイは驚いた表情で答えた。「大丈夫です、ただ足を滑らせただけで…」


彼は痛む足を軽くさすりながら、イシュタルに礼を言った。「君はいつも僕を助けてくれるね。ありがとう、本当に。」


イシュタルは無言で彼の顔を見つめた。彼の言葉に、少しばかりの違和感を覚えたのだ。人間の多くはエルフを恐れるか、憎むものだった。しかし、レイは彼女に対してそうした感情を抱いていないようだった。むしろ、彼はいつも敬意を持って接してくる。初めて出会ったときの怯えた姿とは違い、今の彼の眼差しは、彼女を信頼するかのような温かさがあった。


その日から、イシュタルとレイは度々森の中で会話を交わすようになった。レイは自分が地質学者であることを打ち明け、森の土壌や岩石を研究することが仕事だと説明した。一方で、彼は森を傷つける意図はないことも強調した。


「僕の目的は、森の破壊ではなく、この地の理解なんだ。だけど…」レイは一瞬言葉を詰まらせた。「僕がこの森の資源について嘘をつけば、町の人々は無理な開発を進めないかもしれない。」


「嘘?」イシュタルは鋭く聞き返した。


「そう。僕が調査して、ここには何もないと報告すれば、町の政府は森を壊す理由を失うんだ。」レイは苦笑しながら言った。「本当はそれほど簡単なことじゃないけど、少なくとも君たちにとって少しは役に立てるかもしれない。」


その言葉に、イシュタルは驚きながらも、初めて人間に対してわずかな信頼を抱いた。これまでの人間たちは森をただの資源としか見ていなかった。しかし、レイは違った。彼は森を愛し、エルフたちの苦しみを理解しようとしていた。彼の言葉は、彼女の心の中に深く響いた。


それからしばらくして、レイは毎日のように森に通うようになった。イシュタルも、彼に対する警戒心を少しずつ解き、森の中を案内したり、エルフたちの生活や森の秘密について教えたりするようになった。イシュタルはかつて森の外の世界に興味を持たなかったが、レイの話を聞くうちに、人間の町や文化についても興味を持つようになった。


「君は本当に不思議な存在だ」とレイがある日、森の清流のほとりで言った。「エルフたちはいつも人間を避け、敵対している。でも、君は違う。僕に心を開いてくれる。」


イシュタルはその言葉に、少し微笑んだ。「そうかもしれない。でも、私も変わった。あなたに出会う前は、すべての人間を憎んでいた。でも、あなたと話すたびに、少しずつ考えが変わってきた。」


彼女はそっと清流に手を浸し、その冷たい感触を感じながら、続けた。「あなたといると、私が忘れていた感情を思い出す。昔、私がダークエルフの仲間たちと過ごしていたときの、あの穏やかさを。」


レイは静かに彼女の言葉を聞き、優しい笑顔を浮かべた。「僕も君に出会って変わったよ。森のためにできることがあるなら、それをしたいと本気で思うようになった。」


二人はいつの間にか、言葉だけではなく、互いの存在が心の支えとなるようになっていた。毎日会うたびに、自然に寄り添い、森の中を共に歩き、時には手を握ることさえあった。イシュタルは、レイといることで久しぶりに孤独から解放され、自分が孤独でないことを感じ始めていた。


そしてある日、イシュタルとレイは森の中で静かに過ごしていた。夕暮れが差し込み、森全体が黄金色に染まる頃、レイはそっとイシュタルの手を取った。


「僕は、君が大切だ」とレイは真剣な瞳で言った。「君がこの森を守ろうとしているのを見て、僕はただの研究者じゃいられなくなった。僕は…君とずっと一緒にいたい。君を守りたい。」


イシュタルはその言葉に一瞬戸惑った。彼女は長い間、誰かに守られることや、誰かを愛することを避けて生きてきた。自分自身を守るために、感情を押し殺していたのだ。しかし、レイの真摯な想いが、彼女の固く閉ざされた心の扉を静かに叩いていた。


「私も、あなたと一緒にいたい」と、イシュタルは静かに答えた。「でも、私が人間と共に生きることは、許されないかもしれない。エルフたちは、私を裏切り者として見るだろう。それでも…」


「それでも構わない」とレイはすぐに答えた。「僕は君のそばにいたい。それがどんな困難を招くとしても、君を守りたい。」


その言葉に、イシュタルの心は揺れた。彼女は今まで感じたことのない温かさと共に、レイの強い想いを受け入れることを決意した。そして、愛し合うという事を知らないイシュタルはそっと彼の肩に頭を預け、少し彼女なりの甘えを見せた。


その瞬間、イシュタルは孤独ではなくなった。彼女の心には、レイという存在が確かに根を下ろし、彼女を支える存在となった。


その夜、レイは森を後にし、町へと戻ることを決意した。彼は資源がないことを報告し、これ以上の森の破壊を止めるために自ら行動を起こそうとしていた。イシュタルは彼の決意に感謝し、「ありがとう。あなたと一緒にいられる日を楽しみにしている」と甘く囁いた。


しかし、二人の幸せな時間はそれで終わった。


イシュタルと別れたレイは、心に決意を固め、町へと戻った。彼は町の政府に対し、森に資源がないことを伝え、これ以上の破壊を止めさせるつもりだった。彼の心には、イシュタルとの約束を果たすという使命感と、この森を守りたいという強い思いがあった。しかし、彼はすぐに、この決意が命取りになることを思い知ることとなった。


政府の役人たちの元に戻ったレイは、予定通り調査の結果を報告した。「この森には資源はありません。開発を進めることは無意味です。むしろ、この美しい森を保護するべきです」と力強く告げた。


しかし、その言葉が伝わった瞬間、部屋の空気が一変した。役人たちは冷たい視線でレイを見つめ、誰一人として彼の言葉を信じているようには見えなかった。


「資源がないだと?」役人の一人が、軽蔑に満ちた口調で言った。「それはあり得ない。我々の情報筋では、そこに多大な資源が眠っているはずだ。お前は何を企んでいる?」


レイは驚き、強く反論した。「僕は嘘などついていない!実際に調査をした結果、何もなかったんだ!」


だが、その言い訳は無駄だった。役人たちは無表情のまま、レイを疑いの目で見続けた。やがて、部屋の扉が開き、衛兵たちが無言で部屋に入ってきた。その瞬間、レイは自分に何が起ころうとしているのかを悟った。


「お前がダークエルフと密会していたという噂がある」と一人の役人が口を開いた。「それが事実なら、お前は反逆者だ。森を守るどころか、人間を裏切り、エルフと手を組んでいるということになる。」


レイの血の気が一気に引いた。イシュタルとの密会が知られている。彼は必死に弁解しようとした。「違う!僕はただ、森を守るために…エルフと協力しているわけじゃないんだ!」


「黙れ!」役人が怒鳴り、テーブルを叩いた。「お前があのダークエルフと共謀していることは既に分かっている。資源がないという報告も、すべては我々を欺くための作り話だろう!」


「違う、信じてくれ!」レイは叫びながらも、衛兵たちに腕を掴まれ、無理やり引きずられた。


「お前は反逆者だ。森の中でエルフと手を組み、我々の国家を裏切ろうとしたのだ。そんなことが許されると思っているのか?」


レイは必死に抵抗したが、力の差は明らかだった。彼は無理やり椅子に押し倒され、鎖で手足を拘束された。部屋にいた役人たちは、冷酷な笑みを浮かべ、レイに容赦ない言葉を浴びせた。


「お前は国家への裏切り者だ。エルフと手を組んでこの国を倒そうとしたんだろう?」

「ダークエルフと密会していることをどう説明する?」

「すべてはエルフたちに有利に働かせるための陰謀だ!」


「違う!僕は森を守ろうとしただけなんだ!エルフと手を組んでなんかいない!」


レイの声は虚しく響いたが、役人たちはその言葉を一切聞き入れなかった。彼が密かにイシュタルと出会い、何度も森の中で会話を交わしていた事実は、彼の弁解を無意味にした。人間の街でエルフと通じ合うことは裏切りと見なされ、反逆の罪に問われるには十分な理由だった。


「お前の命は、もう我々の手中にある」と役人は冷たく言い放った。「近いうちに、公開処刑を行うことになるだろう。お前のような裏切り者には、我々の世界に居場所はない。」


レイの心臓は激しく打ち、血の気が失われていくのを感じた。彼は森を守り、イシュタルとの約束を果たそうとしたが、その代償はあまりにも大きかった。これ以上の説得は無駄だと悟った彼は、次第に抵抗する力を失い、鎖に繋がれたまま椅子に倒れ込んだ。


彼の心にはただ一つの思いが残っていた――イシュタル。彼女がこの状況を知ることはないだろうか?彼女を裏切ることなく、せめて彼女だけでも守りたいという思いが、彼の胸を締め付けた。


一方で、エルフたちは既に人間たちの侵攻に対して危機感を募らせていた。エルフたちの神聖な森が次々と荒らされ、幾つもの木々が倒されていく様子に、彼らの怒りは日増しに強まっていた。だが、イシュタルにとって最も予想外だったのは、彼女自身がその怒りの矛先になることだった。


その日、エルフの長老たちと数人のエルフたちがイシュタルの元に押し寄せた。彼らの顔には険しい怒りと蔑みが浮かび、彼女を鋭く睨みつけていた。


「お前が…人間と通じていたことは、もう皆が知っている」一人のエルフが吐き捨てるように言った。


イシュタルは一瞬、動揺したが、すぐに表情を取り繕い、冷静に答えようとした。「人間が森を破壊しないよう、対話を試みただけだ。私が彼と共謀したわけではない。」


だが、その言葉は火に油を注ぐだけだった。周囲のエルフたちが一斉に罵声を浴びせ始めた。


「対話だと?人間どもにお前の心を売り渡したくせに!」

「この裏切り者!貴様のせいで森は滅びようとしているのだ!」

「お前がこの森の守護者などと名乗る資格などない!」

「ダークエルフだからだろう!お前は最初から異質な存在だった!」


彼らの言葉は鋭く、刃のようにイシュタルの胸に突き刺さった。エルフたちの蔑視は、彼女がダークエルフという種族であることに根ざしていた。もともと孤立していた彼女は、エルフたちの中で異端視されていたが、今やその疎外感は最高潮に達していた。


「お前のせいで多くのエルフが犠牲になっているのだ!お前の行いが、我々を滅亡へと導いている!」


その叫びに対して、イシュタルは反論しようとしたが、声を張り上げる隙すら与えられなかった。エルフたちは次々と彼女を罵り続け、次第にその非難は激しさを増していった。最初に投げられた石が彼女の肩をかすめると、それを合図にしたかのように、次々と石が飛んできた。イシュタルは手で顔を覆いながら、じっと耐えた。


「お前なんかエルフじゃない!出て行け!」

「裏切り者!二度と戻ってくるな!」


エルフたちは憎悪のこもった声を上げ、石や小枝を投げつけながら、彼女を追い出そうとしていた。さらに、一部のエルフたちは剣や槍を手に取り、威嚇するように彼女に向けて構えていた。


「こんな奴、ここにいる資格なんてない!」


イシュタルはその場で立ち尽くしながらも、冷たい視線で彼らを見返した。激しい怒りが胸の奥に広がっていくのを感じたが、それを必死に抑え込んでいた。彼女に向けられた憎しみは、すべて彼女がこれまで守ってきたものに対する裏切りであり、拒絶だった。


「もし私がこの森を裏切ったというのなら、その責任は私が背負おう」と、彼女は低く呟いた。「だが、真に裏切ったのはお前たちだ。人間に怯え、仲間を信じられず、憎しみに溺れているお前たちだ!」


エルフたちはさらに激しく怒鳴り、武器を振りかざし、石を投げ続けた。


「黙れ、裏切り者!二度と戻ってくるな!」

「お前がこの森にいる限り、災厄は続く!今すぐ消え失せろ!」


石や砂、枝が再び彼女に向かって飛んできた。イシュタルはその場から動かず、背を向けることなく、彼女を囲む憎悪の嵐にじっと耐え続けた。そして、やがて村の入り口に近づくと、最後に一人のエルフが剣を振りかざし、彼女に向かって叫んだ。


「貴様の存在自体が、我々の不幸の原因だ!消えろ、そして二度と戻ってくるな!」


イシュタルはその言葉に何も返さず、無言で村の門をくぐった。その背中には投げつけられる石や罵声が降り注ぎ続けたが、彼女は一度も振り返ることなく、冷たい怒りを胸に抱きながら、森の奥へと消えていった。


イシュタルが村を追い出されてから数日が経っていた。森の外れで彼女は孤独に身を沈め、怒りと絶望に押し潰されそうになっていた。追放された彼女には戻る場所がなく、孤独の中で過ごす日々が続いていたが、心のどこかでレイが戻ってきて、彼女を迎えに来てくれるのではないかという淡い期待を抱いていた。


しかし、レイは戻ってこなかった。


時が経つにつれて、その不安が彼女の胸を次第に蝕んでいった。「なぜ、まだ戻ってこないのだろう?」という疑問が頭をよぎる。レイは森を守るために戦うと言った。そして、資源がないことを伝えに町へ戻ると約束した。だが、その後、彼の姿を見ることはなかった。


次の夜も、また次の夜も――。彼が現れない度に、イシュタルの心は冷たい不安と怒りで満たされていった。


「まさか…」


ふと、彼女の中に湧き上がる疑念が形を持ち始めた。レイが戻らない理由はただの遅れではないのかもしれない。彼が本当に森を守るために動いているのなら、既に何か行動を起こしていても良いはずだ。彼が現れない理由。それは、もしかして彼が…


「裏切ったのか?」


その考えが彼女の心に一度入り込むと、もうそれを止めることはできなかった。イシュタルは静かに立ち上がり、険しい目つきで森の彼方を見つめた。彼女の胸の中で、怒りが静かに煮えたぎり始めた。


「レイも、結局は人間だったということか…」彼女は低く呟いた。


彼が裏切り、人間たちと手を組んでエルフの村に侵攻を始めたのではないか――その考えが彼女の心をかき乱し、彼への信頼が次第に崩れ去っていく。彼が人間である以上、最終的には自分たちを裏切る運命にあるのではないかという、かつての冷たい思いが蘇ってきた。


「やはり、人間は信用できない…!」


怒りに満ちた彼女の心は、レイとの思い出さえも冷たい憎しみへと変わりつつあった。彼女がかつて愛した男が、森を侵略する手先となっているのだとしたら――それこそ許せないことだった。


その時、遠くから轟音が聞こえてきた。森の奥から金属がぶつかり合う音と、戦の叫び声が風に乗って響いてきた。人間たちがついに森に侵攻し始めたのだ。


イシュタルはその音を聞いた瞬間、胸の中で燻っていた疑念が一気に炎となって燃え上がった。


「やはり…レイが裏切ったのだ…!」


彼女はその場で拳を握り締め、怒りに震えながら森の中へと駆け出した。もしレイが人間たちの侵攻に加担しているのなら、彼を見つけ出し、自分の手で裁く――そう決意しながら。


イシュタルの心は、燃えるような怒りで満たされていた。彼女が信じた唯一の人間、レイ。彼が裏切り、自分を欺いて人間たちと共に侵攻を仕掛けているのだと、彼女は確信していた。森の中で響く金属音と叫び声が、彼女の復讐心に火をつける。


「許さない…」


彼女は低く呟きながら、剣を握り締めた。その目には、かつて愛した者への深い失望と怒りが宿っていた。彼を見つけ出し、その裏切りを裁くまで、イシュタルの怒りは止まらない。彼女は足早に進軍している人間たちの集団へと向かい、その鋭い視線で敵を捉えた。


まず、一人の兵士が彼女の存在に気づく。しかし、それは既に遅すぎた。イシュタルの剣は素早く、無慈悲にその喉元に突き刺さった。兵士は息を詰まらせ、地面に崩れ落ちる。その様子を見た他の兵士たちが慌てて武器を構えるが、イシュタルはまるで一陣の風のように彼らの中を駆け抜けていった。


「次々と…」


彼女の剣は、人間たちの鎧を容易く切り裂き、次々と敵を倒していく。まるで森そのものが彼女の怒りに呼応するかのように、木々の間を駆け抜けるイシュタルは誰にも止められなかった。彼女の剣が振り下ろされるたびに、兵士たちは悲鳴を上げ、地面に倒れていった。


「どこだ…レイ。お前を見つけ出して、必ず…!」


イシュタルの胸の中で、レイへの疑念がますます大きくなっていく。彼は人間たちに加担し、彼女の愛を裏切ったのだ。彼がこの侵攻の一端を担っているならば、彼女自身がその命を奪い、裏切りの代償を支払わせる――その強い思いが彼女を突き動かしていた。


前方に見えるのは、炎に包まれた森と、人間たちの集団。彼女の心臓は激しく鼓動し、剣を握る手には怒りがみなぎっていた。遠くから聞こえる兵士たちの掛け声、森を焼き尽くす炎の音が、彼女の怒りをさらに掻き立てる。


「レイ!どこにいる!」


イシュタルは叫びながら、次々と人間たちに斬りかかっていく。彼女の怒りに触れた者は一瞬で命を奪われ、無惨に地に倒れる。彼女の剣はまるで生き物のように、正確に敵を捉えては斬り裂いていく。彼女の中にあるのは、ただひとつ――裏切り者を見つけ出し、その命を断つことだ。


「お前が私を裏切ったのなら、許さない…絶対に!」


イシュタルの声が、森の中に響き渡る。その叫びに恐れをなした人間たちは逃げ惑い、次々と彼女の前に倒れていった。兵士たちは彼女の速さに追いつくこともできず、恐怖に怯えるばかりだった。


剣を振り下ろし、血に染まる彼女の目には、かつての優しさは微塵も残っていなかった。ただ冷たい怒りが彼女を支配していた。彼女の剣は、もう一度空を裂き、目の前の敵を切り裂く。


「レイ、姿を見せろ…!」


しかし、レイの姿は見えなかった。彼女は戦場を駆け抜け、人間たちを容赦なく斬り伏せていったが、彼の姿を見つけることはできなかった。彼がどこにいるのか、なぜ姿を見せないのか――その疑念はさらに彼女の心を掻き乱した。


「お前はどこにいる…!このまま逃げられると思うな!」


イシュタルの叫び声と共に、彼女の剣がまた一人の兵士の命を奪った。血に染まった大地の上で、彼女は荒い息をつきながら、次の標的を探していた。彼女は絶対にレイを見つけ出し、この手で裁きを下す決意を固めていた。


進軍している人間たちの軍勢の中、イシュタルは必死にレイを探していた。次々と人間を斬り伏せていったが、彼の姿はどこにもなかった。彼女は焦りと怒りを抱えながら、次々と敵を倒して進んでいく。その心の中には一つの確信があった――レイが自分を裏切り、森に侵攻する人間たちに加担しているのだ、と。


「…裏切り者…お前を見つけ出して裁く…!」


イシュタルは呟きながら、兵士たちの群れを蹴散らした。だが、彼女の目に飛び込んできたのは、進軍する人間たちの集団の中でロープに縛られ、無理やり引きずられている一人の男だった。彼の姿は血まみれで、呼吸も荒く、命が消えかけているように見えた。


「レイ…!」


イシュタルはその場で立ち止まり、心臓が激しく鼓動を打った。ボロボロになった彼の姿が彼女の目に焼き付き、怒りと悲しみが同時に押し寄せた。彼女の中でずっと渦巻いていた「裏切り者」という思いが一瞬で崩れ落ち、真実が彼女に突き刺さった。


「…裏切ってない…」


その瞬間、イシュタルは理解した。レイは裏切ってなどいなかった。彼は人間たちに囚われ、弄ばれ、ここに引きずられてきたのだ。彼女は裏切り者と決めつけ、彼を憎んでいた自分自身を激しく責めた。そして、その怒りの矛先は、レイをこんな無惨な姿にした人間たちへと向けられた。


「お前たちが…!」


怒りに燃えるイシュタルは、再び剣を握り締めた。レイを傷つけた人間たちを決して許さない。彼女の目は冷たい憎しみで燃え上がり、怒りを剣に乗せて敵に斬りかかっていった。


次々と兵士たちを斬り倒し、彼女は猛然と進んでいった。敵の数が多くても、彼女の怒りを止めることはできなかった。イシュタルの剣はまるで生き物のように、彼女の前に立ちはだかる者を切り裂き続けた。


「レイを解放しろ…!」


彼女の叫び声が戦場に響く。だが、その時、彼女の前に立ちはだかった兵士の一人が、膝をつき今にも倒れそうなレイの首にナイフを突きつけた。


「動けばこいつを殺す!」


その兵士の言葉に、イシュタルは動きを止めた。剣を握る手が震える。彼女はその瞬間、戦う力を失ったかのように、武器をゆっくりと地面に落とした。


「どうして…どうしてこんなことに…」


その呟きが、無力感と共に彼女の口から漏れた。だが、彼女が抵抗をやめた瞬間、人間たちは無慈悲に彼女を取り囲み、殴り、蹴りつけ始めた。


「これで終わりだ!」


棍棒が彼女の体に何度も打ち付けられ、彼女は地面に倒れ込んだ。血が彼女の口元からこぼれ、身体中に痛みが広がる。何度も何度も、無慈悲な暴力が彼女に降り注いだ。彼女の目の前には、ぼんやりとしたレイの姿が映っていた。彼女は弱々しく彼の名を呼んだが、その声はかすかで、届くことはなかった。


それでも、イシュタルは耐えた。レイを守るため、彼女は決して心を折ることなく暴力に耐え続けた。だが、ついに彼女の意識が薄れていく中


「イシュタル…」


そのかすかな声に、イシュタルの意識が引き戻された。レイは弱々しく立ち上がり、彼女を守るために、自分を捕らえている兵士を最後の力で吹き飛ばした。そして、彼女の元へと駆け寄り、彼女に覆い被さって守ろうとした。


「僕は…君を守りたいんだ…」


しかし、その瞬間、彼らは再び人間たちに取り囲まれた。レイは必死にイシュタルを守ろうとしたが、暴力は止まらず、今度は彼に降り注いだ。彼は彼女を庇いながら、無数の殴打や蹴りを受け続けた。彼の体は限界を超え、力尽きかけていた。


そして、最後の瞬間が訪れた。一人の兵士が、巨大な斧を手に取り、ためらうことなく振り下ろした。レイはイシュタルを守るように体を差し出し、斧が彼の背に深く食い込んだ。


「レイ…!」


イシュタルの悲痛な叫びが響く。レイの体はそのまま崩れ落ち、彼の命が彼女の腕の中で消えかけていた。彼は虫の息の中で、彼女を見つめながら最後の言葉を紡いだ。


「ごめんね…もっと…君と一緒にいたかった…幸せに…できなくて…ごめん…」


レイの体は、イシュタルの腕の中で冷たくなっていった。彼女はその冷たさに耐えきれず、彼を強く抱きしめた。涙が止めどなく流れ、彼の頬にこぼれ落ちた。イシュタルは初めて、自分の心がこんなにも痛むのだということを感じた。


「お願いだから…いかないで…」


彼女は泣きじゃくりながら、彼の体を何度も抱きしめ直した。かつて冷酷で孤独を愛していた彼女が、今や愛する者を失うことに耐えきれず、無力感に打ちのめされていた。


「レイ…お願いだから、目を開けて…」


彼女は彼の顔に触れ、冷たくなった頬を撫でながら、彼の命がもう戻らないことを悟っていた。それでも、彼を失いたくないという思いが、彼女を必死に叫ばせ、涙を流させた。


「一人にしないで…レイ…お願い…」


その言葉は、誰にも届くことなく、ただ虚しく森に響いた。イシュタルの叫びは、風に乗って消えていき、彼女の抱える絶望と悲しみだけが、静かにその場に残された。


その瞬間、イシュタルの中で積もり積もった感情が、ついに決壊した。レイの無念、エルフたちの裏切り、そして人間たちの愚行――すべてが彼女の胸に怒りと悲しみの炎を灯し、その炎が凄まじい魔力となって彼女の全身を包み込んだ。


「お前たちが奪ったすべてを…今度は私が奪う!」


イシュタルの瞳は燃えるように紅蓮に染まり、その力が空間そのものをねじ曲げた。森全体が彼女の怒りに呼応するかのように揺れ、空気が震え、周囲の兵士たちは凍りついた。何かが、ただならぬことが起きようとしていると察したが、その時にはもう遅かった。


彼女の指先から放たれた黒い炎が、周囲の木々を焼き尽くし、人間たちの体を包み込む。凄まじい熱と闇の力が入り混じり、ただの火ではない、イシュタルの怒りそのものが形を取って、彼らを燃やし尽くしていった。人間たちの苦しむ声が森全体にこだまし、彼らはまるで地獄に落ちたかのように悶え、叫び声を上げた。


「死ね…お前たち全員、この森の地獄で焼かれろ!」


彼女の叫びは凄まじい憤怒の力をさらに引き出し、彼女は剣を手にして次々と兵士たちに斬りかかった。彼女の剣が振るわれるたびに、肉体が裂け、鎧が砕け散り、兵士たちは血まみれになって倒れていった。彼らの断末魔の声はどんどん小さくなり、その数は減っていくが、イシュタルの怒りはとどまるところを知らなかった。


ある兵士は、涙を流しながら許しを請うた。ある者は命乞いをし、ある者は無意味な抵抗を試みたが、彼ら全員が同じ運命を辿った。イシュタルの瞳には慈悲も躊躇もなく、彼らの命は彼女の前であまりに脆く散っていく。


「私が…失ったものを思い知れ!今こそ、お前たちが絶望を味わう番だ!」


彼女は怒りの頂点に達し、その魔力は周囲を破壊するほどに強大なものとなっていた。彼女はその場に膝をつき、両手を大地に叩きつけると、そこからさらに凄まじい力が地下深くまで広がっていった。イシュタルはこの地の秘密を知っていた。地下に眠るレアメタル――それは、燃え始めれば永遠に火を灯し続ける恐ろしい力を秘めた資源だった。


「お前たちが欲しがっていたものだ!さあ、最後の報いを受けろ!」


地面が大きく揺れ、裂け目から巨大な火柱が噴き出した。燃えさかる炎は森全体を覆い、あらゆる生命を飲み込んでいった。人間たちも、エルフたちも、その場にいるすべての者が、イシュタルの放った怒りの炎の中で燃え尽きていく。


その光景は地獄そのものだった。炎の中で、人々は絶望に染まり、恐怖に震え、何の抵抗もできないまま焼き尽くされた。彼らの苦しむ声が大地にこだまし、誰一人として逃れることはできなかった。森のすべてが、炎に包まれ、焼け落ちていく。


そして、全てが灰となった後――


その焼け焦げた大地の上に、ただ一人、イシュタルだけが立っていた。彼女の瞳には、すでに何も映っていなかった。彼女が見つめていたのは、ただ崩壊し、燃え尽きた森だけだった。


「…レイ…」


イシュタルの声は、虚ろで、もう何の感情も残っていないかのようだった。彼女が守ろうとしたもの、愛した者、そして憎んだ者――すべてがこの炎の中で消え去った。

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