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第91話 もしももう一度だけ話せたら⑤

 俺は慌てた。ロビーでうずくまってる母親のことを、ここでようやく思い出したからだ。


「待ってろ、暮野くれの。いまお袋さんと親父さん呼んでくるから!」

「え? 母さん? あ~……それはいいよ、横田」

「バカ、いいわけないだろ!! 顔だけでも見せてやれよ!!」

「——会ったらお互い悲しくなるし、未練みれんっていうの? そういうのが出て来ちゃうと思うんだよな。帰りたくなっても帰れるわけじゃないし、こっちの世界には、また別の親がいるしさ」

「暮野……」

「俺はこっちの世界で元気にしてるって、それだけ伝えておいてくれよ」


 うなずきたくなかった。

 伝言のことではない。

 帰りたくても帰れないという言葉にだ。


「横田。俺はこっちでうまくやる。だからお前も、奥さんと娘さんのことを守ってやれよな」


 暮野はやけに清々しい顔つきで敬礼をしている。


 ——まただ。胸が痛い。


 強い力が、心臓を内側から叩いている。

 これはなんだろう。

 どうして胸を叩かれる度、今にも叫び出しそうな気持ちになるのだろう。何を叫べばいいのかは、まるでわからないのに。

 俺は何も言えないで、右手を左胸に置いた。

 言葉にできない感情がそこにたくさんあるのだと主張するみたいに、もう一度、心臓がどくんと跳ねる。

 鏡の中の風景が薄くなり、消えていく。


「ばかやろう。どうやって伝えろっていうんだよ、そんなこと……」


 もう返事はない。

 そしてトイレの中は、ごく当たり前の風景に戻った。



 俺はしばらくそこで立ち尽くし、どうしようもなくなったロビーに引き返した。



 暮野祐一の母親はまだ会場に戻らずに奥のソファで休んでいた。泣き腫らした目をみると、そこに秘められた感情が伝わってくるようだ。

 それは、先ほどから強く強く、俺の胸を叩いている痛みに似ている。

 俺には資格がない。

 俺は間違ったことをしてしまった。

 間違ったことをした人間は、そんなに簡単に正しい生き方を選択できるものではないと思う。


 でも、暮野祐一から託されたのが俺である以上、どうしても伝えなければいけないことがあった。


 俺は彼女に声をかけた。

 暮野祐一の母親は顔を上げ、声をかけたのが俺であることを認識し、不思議そうな顔つきをしている。


「……あの。俺がこんなことを言うのも変ですけど……。高校時代、暮野君はアニメとか……漫画やラノベが好きで。特に異世界転生系が好きで……」


 しどろもどろになりがら、異世界転生について説明する。

 主人公は死後、別の世界に転生する。そこは魔法のある世界で、主人公は神様から強い力をさずかる。そして魅力的なヒロインに出会い、楽しく暮らすんだということを、なぜ、息子を亡くしたばかりの母親に説明せねばならないのか。

 俺は改めて暮野祐一の適当さにいら立っていた。

 こういう適当なところが、生前は嫌いだったのだと思い出していた。


「だから……俺が何を言いたいかといいますとですね……。つまり、息子さんは。祐一くんは……この世界からはいなくなったけど、異世界で元気に、楽しく暮らしてるんじゃないかってことなんです」


 彼女はぽかんとした顔をして俺を見あげていた。

 胸が痛い。息が苦しい。

 こんなにバカバカしい話があるだろうか。

 いまにも音を立てて心臓が張り裂けてしまいそうだ。


 数秒たって、暮野祐一の母親は肩を大きくふるわせた。そして声を上げて泣きはじめた。そりゃそうだろう。


 突然、息子の友人に——それも現在ではなく、高校時代のオタク仲間にそんなことを言われて。

 もしも俺でも同じ反応をする。


「すみません、失礼なことを言いました」


 頭を下げてその場を去ろうとする俺を、彼女は慌てて止めた。


「いいのよ、ちがうの! ごめんね横田君……」

「謝るのは俺のほうです」

「ううん。あのね、わたしも……そう思うの。祐一は、本当に、そういうお話ばっかり読んで……大好きだったもんね……」


 彼女は泣きながら「そう思う」と繰り返した。


 そう思う。

 そうだったらいいなと思う。

 深く思う。

 思いは願いになる。

 強い願いが祈りになる。


 もしも祈りが現実になる世界があれば……。


 それは幸福な世界だろうか、と、少し考える。

 それとも、そこでも人は、うまく言葉にならない声を心に留めながら生きているのだろうか。


 いま暮野祐一は幸せだろうか。


 そうだったらいい。

 そうだったら、どんなにか。


 俺は宗教のことを信じていない。

 でもこの願いが、彼女の願いが、神様に届いてほしいと本気で祈った。

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