目の前の光景が信じられなかった。
何が起きたのかわからない。
「だ、誰……?」
「おれおれ、おれだよ!
青年はハンカチを真っ赤に染めながら鼻や口まわりをふいている。
血糊がなくなっても、鏡の中にある顔に覚えはない。
髪の色はともかく、瞳の色が不自然に明るい。顔立ちはどこかヨーロッパ系の雰囲気だ。
それに何より軍服に見覚えがない。
世界中だいたいどこでもわかるはずなのに、全くわからない。
「ほらっ、俺だよ。……あーいや、顔変わってるからわかんないか。そもそも何年ぶりの再会だよ……同窓会も顔だしてないもんな。じゃあ一発芸やります。モノマネ、『板書しようとしたのに白チョークが一本もなかったときの
「もしかして、暮野なのか……!?」
そのモノマネは、校外学習の待ち時間に暮野が披露したものだ。
内容はただ菅原先生が黒板の前をうろちょろしながら「あれえ~っ? 無いなあ? ここにあった白チョーク食べた人だれェ~?」と、おもしろくもない冗談を言う、というものなのだが、そもそも退屈だったのと身内ネタが何よりおもしろい年代だったこともあいまってあり得ないほどに大ウケし、あまりにも爆笑したせいでB組の連中が電車に乗り遅れ、校長から怒られるという事件に発展した代物だ。
「そうだよ。実は俺、異世界転生しました! いいだろ~っ!」
「異世界転生……? これ、ドッキリか何かなのか? 何やってるんだ暮野、今おまえの葬式してるんだぞ」
「葬式……? あ~……そっちとこっちじゃ時間の進みぐあいが違うのか……それとも祈りのどっかがヘンなのかな。まあいいや、こうして横田と話せたわけだし!」
鏡の中の自称暮野祐一が
裏表のない笑い方だけは高校時代と同じだった。
暮野は手早く自分の状況を説明する。死んだ後、異世界転生してヨルアサ王国というところにいること。その世界には魔法があること。軍に入ったこと。魔法兵器を開発する部署にいること。
全部が信じ難いウソの煮こごりみたいな話だった。
俺は呆然としてただ聞いているだけだった。
「うらやましいだろ、今は中尉なんだぜ。技術中尉だから指揮権ないけど」
そう言って、暮野は階級章と思しきものを見せつけてくる。
「いや、うらやましくはない……。べつに軍人になりたかったわけじゃないし……」
正直に答えると、暮野はショックを受けた顔をしていた。
なんなんだ。
そのとき、鏡のむこうが激しい音と閃光に包まれた。
風景が激しく揺れる。
ワンテンポ遅れて、声と映像が戻ってくる。
「クレノ君、もうもちそうにないよっ!! はやくして!! フェミニが廃人になる前に!!」
叱責とともに、ものすごい美人が脇から顔を出した。
限りなく薄い色あいの茶色の髪に、長いまつげにいろどられた紫色の瞳をしている。まるで天使かと見紛うように可憐な容貌である。画面に映ったのは一瞬だが、こちらをちらりと見て、思わせぶりな流し目を送ってくるのがやけに色っぽい。
「え? なんだそれ。もしかしてヒロインってやつか……?」
「悪い横田、話してる時間がない。助けてくれ!」
「助けてくれ?」
「横田を男と思って頼む。二か月後に閲兵式があって、それに新作兵器を出さないといけないんだ。どんな兵器を出したらいいと思う!?」
「…………はあ?」
何やってんだお前。と言わなかっただけ大人になったと思ってもらいたい。
「だってさあ。お前ならいい案出せるだろ!」
「いや、お前何やってんだよ」
結局、言ってしまった。
俺は改めて考えた。これは何かのドッキリなのだろうか……。
それにしては参加人数が多すぎる。し、よく考えなくても俺の反応が見たいやつなんかこの世にいるわけはない。
もしかすると、本当なのかもしれない。
これは神様か何かが俺に与えた奇跡で、俺が『立ち止まれる』最後のチャンスなのかもしれない。
そう思うと、ごくりと喉が鳴った。
これが奇跡なのだとしたら、俺は『暮野祐一』に確かめなければいけないことがある。
「あのさ……暮野、お前……。
俺は言った。
どうしても言わないといけないことだったからだ。
それは俺が知っているたったひとつの『暮野祐一』だ。
「それとも、それは俺のせいか? 俺のことが嫌いだから、俺の趣味全般が嫌いになったのか?」
暮野は眉間にシワをよせ、真剣な顔つきになった。
そうしていると、棺桶で寝ているほうの暮野の顔に似ているかもしれない。
「ちがうよな、暮野。学校だと俺はひとりだったけど、外では同じ趣味の知りあいとかもいたから、なんとなくわかるんだ」
生前の暮野祐一は俺のまわりをうろちょろして、俺と話をしようとしていた。
俺のしていることに理解を示そうとしていた。
だけど、根本的なところではずっとすれ違っていたと思う。
あいつが戦車や戦闘機を見るときの表情は、いつも複雑だった。天気だったら
「なのになんで魔法……兵器開発なんてやってるんだ。わざわざ軍に入ってまで……」
「……嫌っていたわけじゃない。横田が嫌いだから軍事全般嫌いだって、そんな単純な話でもない」
暮野はいっそう厳しい顔つきで、かぶっていた軍帽を脱いだ。
「ヨルアサ軍に入ったのは、まあ、それは俺の自業自得だ。けどな、横田。今、俺がここでこうしているのは俺の意志だ」
「わからねえよ。なんでなんだよ」
「正直なことを言うとさ、お前の言う通り、
それは、ひとりの人間としての意見だった。日本で暮らし、過去を学び、世界を見て、そして形作られた『暮野祐一』の意志だ。
「最初はさ、まあ、戦車とか飛行機とか男のロマンっていうか、楽しかったよ。でも横田にいろいろと教えてもらって、詳しくなって、段々わかっていったんだ。あれは人殺しの道具だって。どんなにすぐれたものを作っても、できるのは効率よく命を奪うことだけだ。そう思ってからは、それを楽しそうに話すお前と話すのがつらかったな……うん、最後まで、俺は兵器を好きにはなれなかった」
暮野は指先で帽子をくるりと回してから「それでも」と言い、もう一度頭にかぶり直す。
「俺は、兵器が持つ違う未来が見たい。この世界に、そっちの世界とは
頭の中で、暮野が説明したヨルアサ王国の現状を
脳裏によぎるのは、人類が生み出した数々の傑作兵器と——それらが築いた膨大な死体の山と、無限に広がっていく戦火だった。
決して兵器が戦争を生むわけではない。
そういうわけではないと言い聞かせてきたけれど、それは本当だろうか。
人間はそれが『できる』と感じればやらずにはいれないものだ。核兵器ですら使った。そのあとどうなるかわかっていただろうに。
「俺はこの国だけでなく、この世界の行く末を変えたいんだ。だから、横田。俺に知恵を貸してくれ」
暮野祐一も、鏡ごしに見ている未来は同じ風景のはずだった。
もしも転生したのが俺なら、ハッキリ言って無双状態だ。
なんだってできる。シンダーナ神聖帝国とやらを三回滅亡させて、
でも、そうではない。
暮野がやろうとしていることは、そういうことではなかった。
暮野祐一は俺が
そういうつもりじゃなかったが、結果としてそうなった。
俺が知っていることは、こいつも知っている。
その上で「やらない」と決めたんだろう。だから迷っている。
俺はゆっくりと立ち止まる。
ばたつかせていた両手を握りしめ、足を止めた。
不安定な水面にゆっくりと立つ。
そして、沈まないことを確認する。
「……なんでも作ればいい。お前が好きな物を、なんだって作ってみせればいいんだよ」
そう言うと、暮野は少しだけぼんやりしていた。
俺の口から出てくる言葉が信じられなかったのかもしれない。
「俺も、考えが少し変わったんだ。オタク趣味も、学生時代みたいにのめりこんでない。っていうか、仕事と家事と育児が忙しくて趣味に取れる時間なんてない」
「えっ、何。横田。お前、子どもいるの? 写真は!? 見せて見せて!」
先ほどまでの暗い雰囲気はどこへやら、暮野は明るい声つきでせがんだ。
俺はスマホを取り出し、ホーム画面の妻と子を鏡に向けてみせた。
「え~っ。女の子だ~! 横の人、奥さん? かわいい人だなあ」
「うん。娘の名前は
「まじか。目もとがお前に似てるな」
「それははじめて言われた……」
「いやあ、似てる似てる。さぁっすが親子~。もしかして
「いや、海老沢は独身だった。まだ」
「意外だ。横田が一番先だとは……」
葬祭会館の男子トイレが同窓会の空気になりかけたそのとき、もう一度、鏡の景色がホワイトアウトした。
「クレノ君! 限界だ!! 次が本当に最後になる!!」
「すみません、今、通信を終わらせます」
聞こえてきた声に暮野が叫び返す。
状況はわからないが、相当切羽詰まっているようだ。