生前のクレノは、神に
どれだけ祈ったって、実在もしていない神様は一円だってくれたりはしない。
それなのに必死に手をあわせる人たちのことが……もっと言えば宗教というもののことが、ばかばかしくて仕方がないように思えたのだ。
目にも見えず手にもとれないものにすがって時には戦争まで起こすなんて愚の骨頂だ。
しかしながら、転生を果たしたクレノ・ユースタスの一日は祈りからはじまるのだった。
清潔にした隊舎の床にひとり分の敷物を敷き、マッチで
このとき使う蝋燭の本数は祈りを
右手をゆるく握りこみ、親指と人差し指をそっと重ねる。
人差し指は炎の神をあらわす指だ。
守護の祈りのときは薬指と親指を結ぶ。
そして精神を落ち着かせ、神々に平伏したのち、加護と祝福を
魔法の力を与えてくれるように願うのだ。
祈りは魔法使い兵であれば朝夕欠かさず行うものだ。
なぜなら、この世界の魔法は、
魔法は献身と奉仕とともに
いま、クレノは——くだらないことで魔法を消費したので——攻撃用の炎の法と守護の法が足りなくなっている。それらの補充を神に祈っているところだ。
祈りというものはやってみるとなかなかあなどれないものだ。
かなり集中力がいる。なにしろ祈っている間に別のこと——たとえばふと「腹が減ったな」なんて考えてしまうと、たちまち無効になってしまう。
祈り終えると杖の尻にぶら下がった狼のチャーム、その瞳にはめこまれた宝石がきらりと光る。祈りが神に聞きとげられた合図だった。
これを神の数だけ、欲しい魔法の数だけ繰り返さなければならない。
純粋な祈りのほかにも、神々をほめたたえる
だが、生前のクレノは国語の赤点常連だった。文章を書くのは上手くない。
転生後も報告書を書くのが精いっぱいなありさまで、まじめに祈るしか方法がないのだった。
ちなみにクレノの赤点は、とくに国語が苦手だとかそういうことではなく、なんとなく将来に役に立たなそうな教科を寝てすごしていただけである。
そんな元クレノに対し元担任の
まさか死後も追いかけてくるとは思わなかった。
国語も、祈りも、宗教もである。
一時間ほどかけて祈りが終わると、ようやく朝食の時間だ。
部屋の扉に下げた房飾り——祈りの最中であることを示す合図——を室内に入れ、食堂に向かう。
地方軍のようにしょっちゅう戦闘があるわけではないのだが、規則によって独身者は全員寮暮らしを余儀なくされる。
見渡すかぎり男だらけの隊舎に押しこまれ、外出も自由にできず、楽しみは食堂の飯くらいである。
ちなみに第三王女のはからいにより、魔法兵器開発局の食事の質はかなりいい。
地方軍の百倍くらいいい。
毎度の食事は、転職してよかったと思える瞬間である。
しかし。
食堂のおばさんはクレノの顔をみると申し訳なさそうな顔つきになった。
そして、ほかの実験部隊の兵士たちとはちがう料理をトレイにのせて出した。
「ごめんねえ、クレノちゃん。今日から野菜食だよ」
クレノはメニューをみるなりひざから崩れ落ちそうになった。
トレイにのせられた料理は、ほぼすべてが野菜だった。
ベーコンを抜いた野菜スープに、野菜と
料理のどれにも、肉や油は使われていない。卵も牛乳もない。
それどころか、この食事を作るために使われた包丁は作られて後、一度も肉と血に触れたことのない清浄なもの。野菜も祈りが捧げられたもので、他の兵士が口にするものとはまったく別なのである。
なぜひとりだけこのような食事になるかというと、これも『祈りの一部』だからだ。
だから定期的に肉食を断ち、特別食とか神官食とか言われる食事を
「いえ、わざわざ手間暇をかけてくださってありがとうございます…………」
クレノは笑顔で答えるが、心は苦しかった。
これからしばらく野菜しか食べられないのも苦しいが、一番心に引っかかっているのは、生前はこれでもかというほど嫌っていた菜食主義をみずから実践しなければならないことだ。
生前のクレノは
肉食のほうが栄養効率がいいし、ひとりくらい肉や魚を食べなかったとしても、鶏や豚や牛やサバやマグロが感謝なんかしないのに、と——。
それなのにいまのクレノは、そこらのなんちゃって菜食主義者よりも完全な菜食主義者であった。
*
神官食の悪いところは、空腹により神経が尖るわりに集中力が持続しない点である。
魔法兵器開発局では、フィオナ姫の部屋の修繕がようやく終わったところだった。
クレノは朝の十時ぴったりに姫様のために紅茶を淹れ、茶菓子を添えて出した。
いつも姫様は午前中のお茶をクレノと共にする。
クレノも高級な菓子を食べられるので、それ自体はすばらしいイベントなのだが、今日のクレノはバターや牛乳をふんだんに使った嗜好品は食べられない身だ。
においをかぐだけで腹が鳴りそうになるのを、どうにか気合いでこらえた。
「姫様、進捗はいかがですか」
フィオナ姫は白い紙に向かって「うーん」とうなる。
「便秘ですか?」
まず失点1である。
普段だったら絶対言わない言葉が、口からポンと飛び出した。
相手は女性で、上司で、王族である。絶対に言うわけがない。
「ちがう! みればわかるじゃろう、スランプじゃ、ス~ラ~ン~プ~! いい魔法兵器のアイデアがち~っとも浮かんでこないのじゃ!」
「ははっ、なんだ。いつものことじゃないですか」
失点2である。
ただし、これは普段でも言ったかもしれない。
「なんじゃと!?」
「すみません。でも、最近の姫様の発明は、ムキムキ魔人といい、ゲーミング目くらましバリアといい、ひどいものばかりですよ」
「言ったな! 言いよったな、クレノ! では——わらわと魔法兵器開発で勝負じゃ!」
「え!? 俺はまだ、魔法兵器開発はちょっと……!」
「わらわもそう思い、これまで何を言われてもがまんしておった! じゃけどいまのはひどい! ゆるせん!」
覆水盆に返らずとはまさにこのことだろう。
姫様はスネたように唇をとがらせる。
「勝負を受けぬというなら、いままでの無礼な口ぶりをぜんぶひっくるめて軍法会議にかけるぞ!」
「げっ、それだけは何卒お許しを!!」
「勝負のテーマは——いまわらわが取りかかっておる『空を飛ぶ』魔法兵器じゃ! よいな!?」
「ええ~~、空力ですか…………」
「なんでじゃ。そなた、パンジャンドラムとかを飛ばしておったではないか」
「めんどくさいんですよ。慣性モーメントとかジャイロとかいろいろ……」
「ふんっ。そんなこと言って、怖いんじゃろう、わらわに負けるのが!」
「うーん……まあ、怖いなあとは思います」
姫様のことだから、負けたが最後、無限に調子に乗るに違いないのだ。
「そうじゃろうそうじゃろう。では、期日は三日後じゃ!」
そういうことになった。