やがて国境をこえた。
世に名高い宗教都市に行き、鏡は高僧との面会を果たした。
彼らの会話は高度かつ観念的にすぎ、クレノにはまったく理解できなかった。
僧侶の問答なんかよりも高山特有の薄い酸素と気温の低さがクレノを苦しめたが、鏡はいつも通りである。
『なぜ人は土地に線を引くのだろう』
隙間風のふく宿坊で、鏡がそのようなことを聞いてくる。
クレノは魔法使いの仕事で稼いで調達した路銀を数えていた。
財布の中に入っている貨幣はとっくの昔にシソー公国のものになっていた。
「……線をはさめば向かいあって話すことができるからだ」
『だがそれゆえに手を取りあうことができないではないか』
「両手が空いているからできることもあるさ」
『抱きしめあうことか? 68パーセントの代表者よ』
「……ふっ。割るのはやめておいてやる。道中ヒマになるからな」
相変わらずの憎らしさだが、絆が深まっていくのをクレノは感じていた。
神々の神殿を見学してから、クレノ・ユースタスと真実の鏡は聖地ガンディース川に向かった。
神秘的な朝焼けに真っ赤に染まったガンディース川には信仰深い人々が集まっている。信者たちはその身を川面にひたして太陽を拝んでいた。
クレノも人々とともに川に入り、かついでいた真実の鏡をおろした。
様々な人々の姿をその身に写しとってきた鏡は、いまは太陽の赤い色だけを反射させている。
『クレノよ…………我らは、ほんとうにたくさんの人に会ったな…………』
「ああ。見つかったかよ、人の真実の姿ってやつは」
『ふしぎなものだ。これだけたくさんの答えをきいたのに、そのなかにこれという答えはみつからなかった。——いや、それどころか、人の真実の姿は遠ざかっていった。これを見てくれ、クレノ』
クレノは真実の鏡をのぞきこむ。
意識を吸いこまれるような感覚があり、気がつくと、クレノの体は宇宙に放りだされていた。
どうやら、真実の鏡がみせている幻覚のようだ。
漆黒の闇に満ちた空間に、数えきれない数の星々が、銀河が瞬いている。
『クレノよ——いまみせているものは、この旅を通して我が出会い、考え、感じ、思索し、そしてたどりついた人というものの真実の姿。それを再現した光景だ……』
「こ、これが人の……!?」
旅の最中、絶景はいくつも目にしたが、それをはるかに圧倒するような光景が目の前に広がっていた。
『我はこの人というものの多様さを言葉にしようとして、それがうまくできずに悩んできた。おそらくは、人の真実の姿というのは言葉にはならぬもの。言葉にしたとたんに、嘘になってしまうようなものなのだと思う。だが、あえて言葉にするとしたら……それはつまり……』
「な、なんだ?」
クレノは生つばを飲んだ。ここまでの長い旅路が、いま、まさに結実しようとしているのを感じたからだ。
鏡はためにためた後、こう言った。
『みんなちがって、みんないい』
「………………は?」
『みんなちがって、みんないい』
「いや、聞き逃したわけじゃないが。えっ、何。それが旅の結論なのか?」
あまりに話がしょぼすぎて、クレノはびっくりしていた。
これまでの旅に払った労力はとんでもないものだ。凍傷にもなりかけたし、食べ物のせいかそれとも水のせいか、国境をこえたあたりからは下痢が止まらなかった。何より、ここまで1カ月かかっている。
その結論が小学生の作文みたいな一言である。
『そうだ』
と、真実の鏡は言った。
そうだ、じゃない――。
クレノは宇宙を漂いながら呆然としている。
『だからこそ我が、お前たち人の真実の姿をひとつに定めるのは許されないことなのだ。我はこれより、もっと深い思索の旅に出る。おまえと話すのも、これが最後になるだろう』
「なんだ。どういうことだ、最後って?」
『ありがとう、クレノ顧問……我をここまで連れてきてくれて……』
「いや……いやいやいや、ふざけるなよ。ここまで一ヶ月かかってるんだぞ! 俺は姫様になんて報告すりゃいいんだ!」
それきり、鏡は喋らなくなってしまった。
クレノは長い旅の相棒を失い、慟哭した。
「アレクサ!! アレクサーーーーーーーーっ!!!!」
王国歴435年、天道虫の月34日のことであった。
*
その後、沈黙を選んだアレクサ……ではなく真実の鏡は、ただの鏡としてクレノ顧問の執務室にかけられることになった。
「“クレノ顧問はいまでも鏡が再び話しはじめる日を待ち続けているのだ。”——という噂が基地内どころか町の噂にまでなっているそうですよ、クレノ顧問」
魔法兵器開発室にやって来たハルト隊長は、壁の鏡に目をやり、そう言った。
市井では、鏡をかついで聖地まで行ったクレノの噂が広まり、鏡と人間の奇妙な友情を描いた小説の出版が企画されているらしい。
クレノにとってはたまったものではない。
「ふざけるなよ! お前との旅のために、有給休暇一ヶ月ぶんがパアになったんだぞ! せめてもっと深いことを言いやがれ!!」
クレノは壁にかけた真実の鏡を強く揺さぶったが、返ってくるのは沈黙ばかりであった。