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最終話 運命のMATCH

今日はボランティアに行く日だった。お茶を飲みつつ近況を聞かせてもらった。彼女は絵を書くことが好きで、ギャラリーで友達が出来たことや芸大に進学するのが夢だと言った。


「先生はどうしてたの?」

「事務仕事をこなして、ランチでお茶を飲むのが楽しみっていう生活がずっと続いてるよ。それと最近フィットネスジム通いをはじめたら、試合に出ることになっちゃった」

「わたし応援に行く!!」

「半分練習みたいなものだから、すごい試合じゃないよ」

「それでも良いから!!」

そう言って試合の事をみんなに伝えに走った。職員さんの中にも見に来てくれる人がいた。持っていたチケットを数枚手渡して、お礼を言い施設を出た。また来てね、と言ってくれたことが嬉しかった。


公開計量当日、2人の体重は規定の範囲内だった。お互いの顔を近づけてフェイスオフが始まると、記者たちがカメラのシャッターを押した。


璃琥はいつに無く痩せ、腹筋のカットは金属のようにシャープに仕上がっている。躁的な防衛を帯びた眼光の鋭さが感じられた。とにかくコンディション面が気がかりだ。


一方で僕にはリカバリーの必要がほとんど無かった。当日の体重では璃琥が圧倒的に上だろう。コンディションの良さや、怪我や古傷のないところが僕の有利な点だ。


現役の同門で引退試合を行うことは比較的珍しい。やはり関心はその点に集まり、インタビュアーがコメントを求めてきた。まずは璃琥のほうからマイクを握った。


「最後くらい信頼出来る仲間と全力でやってみたかった。スパーだとお互い遠慮してるから全力でやってみて、今までのスパーがなんだったのかが知りたかった。選手としての優希に興味があって」


「彼とは少し似た感じの気持ちです。ずっとプロデビューのお誘いはお断りしていたんですけど……彼と戦えるのであれば、試合をしたことについて後悔することは無いだろうと思いました。僕との一戦のためにすごく自分を追い込んで、体をシェイプしてきてくれました。彼のような強いファイターが、真摯な姿勢を示してくれたことについて光栄に思います」


この日に向けて日中はデータ入力の仕事に行って、夜はジムへ直行する。その繰り返しをずっと続けてきた。準備万端だ。彼との試合って、どんな感じなのか楽しみだ。


いよいよ運命の興行が始まった。先に試合をしたラウラは母親から譲り受けたという、不良のレディースグループが着ていた特攻服に木刀を持って入場していた。どうやらお母さんは総長だったようで、背中には天下無敵と刺繍されていた。


ラウラの試合は激しくて、会場人気は非常に高かった。素手で殴り合うとあっという間に出血する。ミャンマーに選手も怯まずに応戦している。


「ケンカだケンカだ! 速攻で潰せラウラネキー!!」


試合は乱打戦が続いた。どんどん顔が腫れ、血が滲んだ。相手は気迫に押され、後ろ重心が目立っていた。そして距離を取られないように、下がるタイミングで鋭く踏み込み、ストレートでダウンを奪った。


相手が立ち上がることはなく、最後に立っていたのはラウラのほうだった。観客もセコンドも大歓声をあげた。彼女は抱え上げられて大喝采を受けた。


璃琥がラウラにハイタッチをした。

「よう、ニューヒーロー!!」

「へへ、ありがとう璃琥。ニューヒロインここに誕生日!」


そして僕たちの出番がおとずれた。子どもたちも観に来てくれている。璃琥サイドは友人がたくさん集まっていたようだ。


初めて立つリングは真っ白な画用紙みたいで、ジムのものよりも何倍も広く見えた。こんなところにぽつんと立って試合をして、お客さんが盛り上がることが信じられなかった。客席から選手を眺めているときよりもずっと遠い距離に思えて、隔絶された2人だけの空間のように思えた。


リングに立つ璃琥は飲食物を摂取してリカバリー済みだから、当日の体重差は10kgほどあるかもしれない。あの太い腕や脚から繰り出される全力の攻撃が僕に向けられるだなんて現実感に乏しかった。モニター越しに見るのとはまったくの別物で、本当に逞しいのだ。


喧嘩もしたことの無い僕が、なぜここに立っているのだろう。


先に仕掛けてきたのは璃琥のほうだった。大胆な踏み込みから単発のフックでプレッシャーをかけてきた。


組み合ったときの力がすごくって、こちらの体力が加速度的に削られていく。疲労の度合いがスパーリングとはまるで違った。首を掴まれて膝蹴りを打たれたら体格で劣る僕はひとたまりもない。徹底したアウトボクシングが必要だ。


要所でジャブやローキックを打って地道なダメージを与えた。彼の方は渾身のパンチが何度も空を切った。そのうちの1発がこめかみに入り、追撃の顎へのストレートで膝をついてしまった。彼のパンチは本当に重かった。8カウントが進んだところで立ち上がることが出来た。ある程度身構えての被弾だったから、決定打には至らなかった。


ラウンドが終了したのでセコンドへ向かった。足元には赤い染みが点在している。僕の鼻から出血していたようで、グローブの表面を血の雫が滑り落ちた。


そして喉への締めつけを感じると、突然吐瀉物が流れ出た。セコンドの前嶋さんやラウラが駆けつけてくれた。マットに屈んでいると、璃琥との殴り合いや愛し合ったシーンがフラッシュバックした。


無性愛者に近い僕が同性の恋人を持ったり、大切な人を殴打したりと未知の体験が続いている。そんなことって本当に自分が望んでいることなのだろうか。甘いロマンスを求めるあまり、璃琥に理想のイメージを投影して嫌悪感を抑圧していただけなのかもしれない。


こんな舞台に立つ資格があるのだろうか。


璃琥が心配そうに声をかけてきたけれど、レフェリーはニュートラルコーナーへと戻るように指示している。僕が頷くとすぐに赤コーナーに行った。


子どもたちは真剣な面持ちでこちらを見ていて、握った手を振り上げて何かを叫んでいた。少し冷静になって、観客の声援が聞こえてきた。戦っている時も聞こえていなかったわけでは無いけれど、これほど大きなものとは思わなかった。


「試合続行出来ます。リカバリーの水が冷たすぎた影響でしょう。なんの問題も無いです」


幸いストップはかからずに試合は再開された。またジャブを打ち続けてローキックへのコンビネーションに繋げているうちに、璃琥の足が止まるシーンが増えた。こちらはダウンを奪われたので、要所で踏み込む頻度を増やした。


パンチのコンビネーションをガードさせて相手の動きを止めると、レバーめがけてに三日月軌道の蹴りを入れた。嫌がったのか彼は距離を取った。その後も隙を見て攻めているうちに試合は終わった。


ダウンを奪われたけど、ほぼ互角の内容だったろう。璃琥が目を閉じて天井を見上げた。納得のいかない内容だったのか悔しそうな表情をしている。エキシビションだから勝敗はつかず、レフェリーは両者の腕を上げた。拍手の音が鮮明に聞こえた。


僕たちはお互いを抱き寄せた。お客さんへのアピールなんてすっかり頭から飛んでいた。セコンドたちの声もよく聞こえなかった。ただただ達成感があって、試合を受けて良かったと心底思えた。


「これで心置きなく酒飲んで、バンドで歌えるぜ」

「うん、お疲れさま。また、街へ遊びに行こう」

「試合、楽しかったな。次は日常生活を楽しむ番だな」

「普通の暮らしも、楽しいよ」

「友達少なくて寂しいって言ってたじゃねーか」

「もちろん、そういう面もあるけどさ」

「バーガーセット食いてえ」

「僕はシェイクをLサイズで飲みたい」


僕たちはリング上で他愛も無いやりとりを続けていた。今日のお客さんは、それを許してくれる雰囲気だった。


引退セレモニーとして花束が贈られた。代わるがわる関係者がやってきて、その中には璃琥のライバルの姿もあった。皆んなこのセレモニーでは満面の笑みを浮かべていた。


デビュー戦にして引退試合、そんな一戦が終わった。戦場に立つことなんてもう二度と無いだろう。


しばらくして僕はジムの会員を退会した。引き止める会長さんと話し合って、インストラクターや雑用のボランティアをする代わりに月謝を無料にしてもらうことになった。


今度はラウラを応援する番だ。彼女はこのジムで誰よりもやる気があって、身体能力も高い。ミャンマールールの王者になることが出来たし、寝技も練習して総合格闘技への適性も見せている。そしてアメリカの最大手団体からオファーが来たことで、彼女は今日本で一番注目されている女子ファイターだ。純粋に最強を目指している彼女には世界王者になって欲しいと心から感じている。


僕はリカバリーをするように音楽や舞台芸術に触れていた。鍵盤を1つ弾いただけでもキューピットの羽音のようにきれいに思えた。


嬉しさのあまりお芝居のチケットを1枚予約した。職場近くにはアートカフェがあって、吸い寄せられるように入ってみた。店内にはカラフルな服、編み込まれた髪、分厚いフレームの丸眼鏡なんかを身にまとったおしゃれな人たちがいた。僕とは無縁の才能を持った、踏み込んではいけない聖域と思えた。


店主さんらしき人が席に誘導してくれた。僕がいても良い空間であることが実感出来ずしばらく放心していた。


色んな人が話しかけてくれて、どんな表現をしたいのかと質問された。平凡な人間である僕はそんなこと考えたこともなくって言葉に詰まる。


好きなアートはダンスであることを伝えたら、彼女は手すりを握って即席のバーレッスンを見せてくれた。まっすぐ伸びた背筋で腰を深く落とした姿からは、高潔な瞑想性が感じられた。


しばらくここに通おうと思った。ミルクティーを飲んでいると、バレエシューズを試着できるなお店を教えてもらえた。


お会計を済ませるとそのままバレエ用品店へ向かった。バレエシューズを自宅に持って帰ると、タグも切らずに電気スタンドの前に置いた。ダンスセラピーについて調べるときなのだと思えた。


あの試合からもう何年もの月日が経った。


先日クライアントからカウンセリングの予約が入った。今はカフェでセラピーをしている。


北欧調の壁紙の店内には先客が数名。隣の席では講師らしき男性が若者に対して理想的な生き方を熱弁していた。


クライアントが到着するまでの間、ユニコーンや妖精の描かれたオラクルカードをテーブルに広げた。幻想的な画風でポジティブな意味を持ったカードが多く出るから良い気休めになる。


AIカウンセリングが普及する可能性は否定できなくって、10年後もこうしてお話しを聴いていられるのかはわからない。


歌って踊っているかもしれないし、タイピングをしているのかもしれない。璃琥とはきっと一緒にいることだろう。


彼と一緒にあの川岸のベンチに座っていた。僕たちはもう格闘家ではない。紅茶とロックバンドが趣味の、何者でも無い一般人だ。


寒波にも動じなかったあの頃にように、真冬の街並みを何時間も眺めていた。彼は僕の頭髪をくしゃりと握った。そして溶かすようにじっくりと時間をかけてキスをした。


過渡期といえる日々が過ぎ去った。もうそんな日は起きなくても良いような気がした。璃琥の体は今も鍛えられている。トレーニングの無い人生は考えられないと言って笑い飛ばした。


怯える彼の姿を見なくなって久しい。


深い闇を抱えて戦っていた君は、華やかなに蕩ける樹のようだった。


THE END

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