璃琥は海外の試合で3連敗を喫してしまった。自主興行への復帰後、19歳の期待の新星を相手に判定で2-1の辛勝となった。璃琥が負けていたという声も多かった。勝ちはしたもののレフェリーに上げられた腕を振り払い、首を左右に振っていた。彼も事実上負けていたと感じているのだろう。
璃琥は気分を変えたいと言ってオーディション制の団体に応募した。その団体に出場するには実力だけでなく、高い自己PRスキルも求められる。煽ったり笑わせるようなスキルが高評価につながるのだ。
璃琥は実績はあるし、話題性も全く問題無いだろう。査定スパーリングではことごどく相手を退けてオーディションの常連になっていった。
今回が初参戦のワイルドでバイカーっぽい服装をした選手がいた。彼がサングラスを外すと、璃琥は驚きの表情を浮かべた。
「おい、親父かよ。何しに来た」
「息子の試合を観に来てやったんだよ」
「喧嘩売りに来た、の間違いじゃねえのか」
「そうかもしれねえ」
主催者がお父さんの経歴について言及した。数々の世界タイトルを手に入れ、トーナメント優勝を果たしたそうだ。年齢を考慮しても余りある実力があるとみなしていた。
「へえ、親父ってそんなに勝ってたのか。知らなかった」
「見直しただろ」
「15歳若かったら戦ってやったかもな」
お父さんは璃琥の胸ぐらを掴んで投げ技を決め、見事にテイクダウンした。激怒した璃琥の表情を見た主催者は、試合の成立を宣告した。盛り上がりそうだと判断したのだろう。
「試合は打撃ルールだ。あんたに勝ち目なんてねえからな」
「せっかくの再会なんだ、楽しもうぜ」
「楽しいのはそっちのほうであって俺は違う。さっさと呑み屋に帰れよ、アル中虐待オヤジ。ここはファイターが集まる場所だ」
「バーテンダーが何言ってんだ」
「俺は酔った勢いで殴ったりしねえ」
普段見られない璃琥がそこにいた。半分パフォーマンスで騒いでいるのではなくって本気で怒っている。今まで無意識下に抑圧されていた憤りを一気にぶつけるような憤怒を感じた。
「冷てえな、息子」
璃琥は怒る気すら失せた様子をして駆け足でその場を去った。険悪な雰囲気ながらファンの間ではとても盛り上がったそうで、過去最高クラスの再生回数を記録したようだ。
父親との戦いに向けた璃琥のトレーニングは激しいというレベルではなかった。トレーニング機器を破壊しようとしているかのような気迫で動かし、血管が浮き上がった。そのあまりの激しさに会長さんが怪我の心配をしていた。
試合は翌月開催された。控え室では璃琥が憤りを隠せない雰囲気でラウラが心配そうにしている。
「璃琥、絶対勝てるって。そんなに神経質にならなくても」
「ああ、そうは思うんだけどな。昔のことを思い出して頭痛がするし、虚無感みたいなのがする。あいつが徹底的に詰めてきたとき、こういうリアクションをとって感情を麻痺させてたんだ」
両肩を抱え、うずくまってそう言った。
「さっさと片付けてーな」
大歓声の中、試合は璃琥の言った通り一方的な内容だった。ローキックがお父さんの足に何度も命中した。一発逆転を狙おうとしたお父さんは投げつけるようなパンチを振ったものの空を切り続けた。
バランスを崩したお父さんの足に絶妙な角度から振り抜いたローキックが決まった。そして苦悶の表情を浮かべて崩れ落ちて璃琥が勝利した。
勝利後の璃琥の表情は無表情で、ファンへのコメントも一言で済ませていた。後日スポーツ紙が親子対決の終幕を報道していた。両者のインタビュアー記事が載っている。
璃琥はお父さんへの悪口の限りを並び立てると、彼のオランダダイニング店に一度来て欲しいとコメントしていた。喧嘩も音楽も料理の技術も全て自分が上なのだと書かれてあった。
お父さんは本当に誘いに乗って来店していた。料理の完成度について、うまいと言って認めていた。
「お前の勝ちで良いよ。成長したもんだな」
「あんたに認めさせる一心でどれだけ頑張ったと思ってんだ」
「なんなら裁判でも始めたほうが文句無しの完勝じゃねえのか? 心残りは嫌だろ息子」
「勝負だの争いだのってくだらねえことばっかぬかすな」
「ああそうだ、平和が一番。ラブアンドピースだな。んじゃ俺、帰るわ。もう用はねえな? 次会うのは俺の葬式かもしれねえぞ」
「ああ、用は済んだ。とっとと帰れ」
2人の積年の思いは驚くほど短いやりとりで終わった。本当にそのやりとりだけで良いのかと思えたけれど、それで終わってしまった。
ある日璃琥から驚きの提案があった。
「優希、俺はもう引退する」
「引退って? まだ強いし人気もあるのに」
「前の試合から数ヶ月経ったけど、もう全然やる気が出ねえ。ぼろぼろになる前にやめたいしな。ローキックを貰いすぎたら立ち仕事にも影響が出る」
「そう……激しい試合内容も多かったから、蓄積したダメージとか一気に来るかもしれないしね」
「もう目ぼしい選手とは一通り戦ってきたってのもある。よっぽど消化不良みたいな試合じゃなきゃ、再戦はしたくねえんだ」
「ちょっと寂しいかも」
「なあ、優希に引退試合の相手になって欲しい。エキシビションマッチでも大丈夫だ」
「うん、良いよ」
「まじか? まさか受けてくれるとは思ってなかった」
「平気……きみとだったら」
ジムでこの件について話したところ、マッチングは成立した。ルールはやはり勝敗の無いエキシビションマッチ。勝ち負けは無いものの、相手をKOしても問題のない真剣勝負だ。僕の体重が50kg代後半で、璃琥は試合時で65gほど。その中間にあたるライト級で試合をすることにした。璃琥にとっては苦しい減量になるだろう。そしてパワーとリーチに関しては圧倒的な差がある。お互いにとって過酷な試合だ。
同じ興行でラウラのタイトルマッチも決まった。相手はミャンマー出身で、ラウェイという素手で戦う壮絶な戦いをするのだ。みんな今回の試合には期待していた。
「ラウェイだったら1発で勝負が決まるから、ラウラにもチャンスはあるな」
「うん、やるかやられるかみたいなのは得意。先手必勝よ」
彼女にはスポンサーもついて、社名ロゴ入りの衣装も作っていた。日本の女子格闘技で生活できている選手は皆無に近い。まずは赤字から脱出して、世界レベルのメジャー団体へ行きたいと意気込んでいた。
久しぶりにあの川岸のベンチへ行ったところ、璃琥とゆっくり話しができた。璃琥は僕の対戦相手。それなのに2人で街を歩いていた。命懸けのやり取りをするという実感が湧かないのだ。目の前にいる彼が敵だなんて現実感がない。いつもの通りジャンクフードをつまみながら街を徘徊する学生時代と変わらないやりとりをしていた。
「あ、あそこ初めて入ったホテル」
目の前に僕と璃琥が初めて夜を過ごしたホテルがあった。名前も覚えていなかった、お城のデザインのラブホテル。お互い求める気持ちが強くって、再び吸い寄せられるように入ってしまった。
彼の腹筋のカットは深くなり、以前にも増して鋭い肉体になっていた。
「ねえ、どうしてもやるの?」
「もちろんだ」
彼の抱きしめる力は嗜虐的なほど強く、毟るような口づけを交わした。
「嫌なら止めとこうか?」
「嫌じゃないけど」
「俺の方から誘ったけどな。いざ戦うってなったらなんか不安になってきた。こんな華奢な身体を殴っちまうのかって」
「なんとかなるよ。そのために特別ルールを考えたんだし」
彼は僕の肩幅を測るようにさすった。
「マジで壊れちまいそうな体してる」
「思いっきりきて構わないよ。受けて立つよ」
「ああ、わかった。全力で行く。楽しみだな」
「減量に失敗して倒れないでね」
「前例のない減量だがなんとかするよ」
笑顔でグータッチをすると、彼はシャワーを浴びに行った。フィットネス会員の僕なんかが大役に抜擢されたのは光栄なことだ。最後のリングに相応しいフィナーレを捧げたい。
2人ともシャワーを浴び終えると布団をかぶり、くすぐり合ったりして笑っていた。
「きれいな試合をしようね」
「そのつもりだ」
そう言った後に指切りをして、照明を消した。間違いなく彼と試合をすることになったのだ。僕は覚悟を決めた。