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第5話 タイトルマッチ

璃琥の次の対戦相手が決まった。今回は自主興行の試合に出るわけではない。初のメジャー団体での試合だ。その相手はSNS上で璃琥の飲酒について揶揄するコメントを連日投稿をしていた。これもお仕事のうち、と言って璃琥は平然と煽り返していた。トラッシュトークという炎上商法はすっかり定着しているそうだ。


開店前の璃琥の職場で、プロモーション映像の撮影が始まった。うちはローカル団体だからラウラがPVの撮影、デザイン、編集などを担当していた。今回の試合は注目度が高いだけにプロのカメラマンが撮影に来てくれた。


璃琥のことをアップ中心で撮影することで、営業中にパーティー騒ぎをしているように見せている。仕上がった動画はさぞかし面白いものになっているだろう。

「なんで俺が練習なんてしなきゃいけねえんだ。あんなの相手じゃトレーニングするテンションが上がらねえよ」

そうふてぶてしく言った後、これ見よがしにサバサンドに齧り付いた。そしてビアジョッキに注がれたノンアルコールビールを流すように一気飲みをする。


そうした言動を好む層が一定数存在するそうだ。試合会場では煽りVTRが選手の自己PR映像として流される。その出来栄え次第で選手の人気が大きく変わるので手は抜けない。璃琥は同じ場面を何度も撮り直していた。


試合内容だけでお客さんを呼ぶのは難しい。パフォーマンスにも相当な労力が必要なのだろう。

「面白い映像が撮れているはずだ」満足げな顔で言った。

「貴重なリピーターの期待に応えるような作り込みをしねえと」

「きっと喜んでくれるよ」

「試合も勝てたら最高なんだけどな。今回はさすがに自信がねえ」

「対戦相手はどんなタイプ?」

「ムエタイがベースだ。蹴り合いを挑んだらまず歯が立たない。テクニシャンだがパンチの撃ち合いには応じるタイプだからそこが勝負どころだな。相打ち覚悟のパンチを狙う流れさえ考えときゃなんとかなりそうだ。適正階級はせいぜいライト級ってとこか。体格的には俺が有利だな」


今回の相手は強豪だけど、適正階級では敵がいなかったので増量して試合をしている選手だ。それでもヨーロッパの有名団体で連勝を重ねていたことから日本に招聘された。勝つ見込みがあるのか璃琥の表情は明るかった。


勝てそうなムードになっているのは喜ばしい。でもそれ以上に彼の充実した顔がまぶしく見えるのだ。シャドーボークシングをするたびに汗の飛沫と金色の髪はきらめきを放っていた。


僕にとっての幸せってなんなのだろう。良いことってなんだろう。10代のころに悩み抜いたようなことを、考え直す機会が増えた。


今日は学生時代のボランティア先に連絡を入れた。職員になるお誘いを断ったことのある児童養護施設だ。警戒心の強い子が僕には好感を抱いているからと、頼まれたことがある。


だけど心理学を専門に勉強をしていたから、保育や福祉の知識不足が気になった。心のこりはかなりあった。そんな経緯から施設に行ってみたところ、週に1度の頻度でまたボランティアをさせてもらえることになった。


子どもたちからはお茶を冷蔵庫から出すように頼まれたり、掃除機の音が気になると言われることもある。ときどき殴り合いの喧嘩が起きるから、そのときはすぐに止めに入った。


そんな出来事が同じようにまた起きて懐かしい思いだ。僕は職員では無いから、子どもたちのことについて名前以外の情報は知らされていない。ほとんど何も知らない。ゆっくりと、仲良くしていきたい。


職員さんからは習い事ボランティアの案内も受けていた。僕に出来ることなんてごく限られている。何か教えられことなんてあるのだろうか。

「ほら、殴るならこれに打つんだよ」

キッチンミトンを手にはめてそう言った。何も出来ないなりに考えた末の判断だった。バランスを崩さない打ち方を教えると、何発か連打を始めた。

「先生、また教えて」

「うん、またしよう」


僕にはセラピストとしての勤務経験はない。格闘技もフィットネスとして通っている初心者だ。そしてこの施設ではボランティアの立場上である以上、先生と呼ばれることには違和感があった。


僕はそんな呼ばれ方をされるに相応しい人間なのだろうか。それでもこのミトン打ちに興味を示してくれる子は数名いた。職員さんの許可も取れたので、習いたい子がいる間は続けることにした。


「優希さん、他に特技などありますか」

「色々習ってたんですけど、昔のことなので忘れちゃってますね」

「特別上手くなくても結構ですよ」

そうは言ってもらえたものの、良い案は思い浮かばなかった。さっきの流れ通り、格闘技を教えることになりそうだ。間違ったことは教えられないから、基礎練習をしっかり復習しよう。


家に到着するとジムに通い始めたころに読んでいた、キックボクシング入門書を復習した。身内のジムだけに通じるような表現は避けて、出来るだけ公共性の高い専門用語を把握しておきたかった。


入門書で技術研究をしつつ素振りをして指導風景をシミュレートする。その流れに集中していたらあっという間に日付が変わっていた。もう寝なければいけない時間だ。


試合直前の璃琥は、今までとは別人のように張り詰めた雰囲気だった。スパーリングも強度の高い内容となり、叩きのめすような気迫に満ちていた。だからといってスパーリングで倒し合いをするわけにも行かない。


僕はすさまじい破壊力をいなすため、アウトボクシングで受けに徹していた。少しでも実戦に近い感じで練習がしたいからと、彼はあえてガードの上から強めに殴ることをよくしていた。グローブやヘッドギア、肩、ふとももなど大怪我が発生しにくい箇所を狙ってくるのだけれど、ものすごい圧だった。


ロープ際に追い詰められた僕はバランスを崩し、狙いのずれた璃琥のストレートを顔面にまともに受けてしまった。鼻血が出てしまったので、他の会員にスパーリングパートナーを代わってもらった。璃琥は一言、悪いとだけ言ってすぐに次の相手と打ち合っていた。経験の浅い会員さんは背中を向けてガードを固めている。


練習が終わって帰ろうとしたら、璃琥が小走りで追いかけてきた。

「なあ、今から時間空いてるか」

「急いではいないよ。少しなら平気だけど」

「強めのパンチが入ったのに冷たい態度とっちまったから、謝ろうと思ってな」

「気にしてないよ」

「痣とか出来てねえか」

璃琥の手が前髪をかき分けてじっくりと僕を見つめた。

「大丈夫だってば」

 璃琥は安堵の表情を浮かべた。

「勝ってね、試合」

「ああ、ぶっ倒してやる」

璃琥は目の前で鋭いシャドーをしてみせた。


試合当日の璃琥はますます尖っていた。タイトルマッチなのだから自然なことだろう。勝てば格闘技雑誌の表紙を飾れるかもしれないのだ。


スター選手になれば資産家の後援者に誘われて、高級な飲み屋さんでラグジュアリークラスのおもてなしを受ける事もあると聞いた。お姫様みたいなホステスさんに夢中になって、僕から去ってしまうんじゃないかと不安な気持ちがよぎった。


だけどもちろん、勝ってほしい。下馬評では璃琥の不利を予想する声が圧倒的に多かった。だけど仲間たちはもちろん璃琥が勝つと思っている。彼の勢いを骨身に染みて感じ取っているのだ。


『総合力やキックの技術に優れたチャンピオンの牙城を崩すのは難しい』


そう評した記事もあった。璃琥は好き勝手書きやがって、と言って雑誌をゴミ箱に放り投げていた。


試合本番。対戦相手は会見中から試合中まで、終始挑発を欠かさなかった。璃琥のパフォーマンスがよほど気に入らないのだろう。もちろん炎上商法をしているのだから、怒ってもらわないと始まらないとも言える。


試合が始まってしばらく経った。璃琥の優勢が続いている。王者はさすがにテクニカルな攻撃を要所で当てていたものの、あまり効いていない風に見えた。


圧のかけ合いで璃琥が勝っているから決定的な不意をつけずにいるように見えた。カウンター攻撃を貰っても璃琥の勢いは全く削がれないのだ。


最終ラウンドには璃琥のフックが決まってダウンを奪った。客席からは割れんばかりの歓声が響いた。これが決定打となってフルマークでの判定勝ちとなった


璃琥の腰にチャンピオンベルトが巻かれた。強いチャンピオンにあんな勝ち方を出来るとは思ってなかったようで、自分が勝った実感が湧かないようだった。マイクを握ってもいつものようなユーモアが感じられず放心状態だった。


璃琥はなんとかして気の利いた事を言おうと思ったのか、少し考えた後で僕の肩に腕を回した。

「この子うちのチームメイトの優希っていうんだ。こう見えてセンスすげえあって、今日勝てたのって、優希とのスパーリングのおかげかも」 

言い終えると僕にキスをした。するとまた大きな歓声が聞こえた。


SNS上では僕の話題が散見された。恋人かどうかで議論が始まり、性別がどちらかわからないとも書かれていた。中には璃琥にLGBT疑惑がかけられたり、僕との試合を見てみたいという声まで見られる。璃琥は炎上を僕にまで飛び火させるつもりはなかったと詫びていた。


試合終了の後日、祝勝会があった。今回選んだのは中東料理店だった。壁や棚には目玉のお守りが掛けられてある。棚にアンティーク食器が置かれ、テーブルには立派なシーシャが置かれてある。クッションや絨毯や呼び鈴まで現地のものが置かれ、豪華でエキゾチックな空間を演出していた。


シーシャを吸うお客さんもいて、ストロベリーフレーバーの柔らかい香りがふわっと香る。テーブルには注文したサフランソースケバブ、ローズウォータープリン、いちじくブランデーなどが並べられていった。中東料理なんてケバブくらいしか知らなかったので、その華やかさに言葉を失った。


ラウラは元気が無くうなだれていた。

「あーあ、勝ちたかった」

「強豪相手にドローだったんだから強かったよ。盛り上がってたし」

「あたしも璃琥みたいに勝ってベルト巻きたかった」

「ファンは増えたはずだし、そのうちスポンサーもつくって」


いつものラウラの明るさは戻らなかった。会長は雰囲気を変えるように璃琥の勝利を祝った。

「璃琥、とうとう国内トップになったな」

「おかげさんで」

「次は世界進出だな」

「流れとしちゃそうなるか」

「乗り気じゃないのか?」

「ホームを離れて本調子が出なくなるのはよくある話しだ」

「勝負強いお前なら大丈夫だろ」


璃琥は食後の一服にシーシャを深く吸った。

「そうだな。ちょっと頑張ってみるか」

「璃琥の階級で世界1になれば、億単位の金が入るかもしれねえ。頼りにしてるぜ」


別席のグループが、こちらに近づいて話しかけてきた。

「世界最強がどうしたって?」

詰め寄った客が睨みつけてきた。額同士がこすれそうなくらい顔が近かった。璃琥であることに気づかないほど泥酔しているのだろう。


僕たちの話しの断片だけを聞いた彼らは、武勇伝をひけらかす喧嘩自慢とでも勘違いしたのだろう。

「それ何のカクテル? マスター、この子におかわり1杯俺の奢りで頼む。口説くから濃い目に作っといて」

グループのうちの1人から女の子と間違えられてしまった。その人は彼氏の有無や、この後の予定などについて聞いてきた。

「俺、この子の連れの者なんだけど」

「男いんのかよ? 奢って損したぜ。初めからそう言えよ」

「押し売りしたのはそっちだぞ」

「女の前だからって調子乗んな」

「調子乗んなよこら」


総合格闘技団体に参戦している中西さんが黒のパーカーを脱いだ。金のチェーンネックレスをつけたタンクトップ姿になると、肩から手首にかけて和彫りが見えた。髭を生やしたそのルックスはジムで一番の強面だ。70kg程度の計量時と比較して、試合が無いときは80kgほどある。


そして鋼の肉体と形容されるほどに鍛えられている。体格に恵まれている璃琥だって、中西さんにだけは体力負けしてしまう。総合格闘技ルールのスパーリングでは1分ほどでギブアップするらしい。僕なんて10秒もかからずに仕留められてしまうだろう。


「俺達は格闘家だよ。祝勝会してんだけど」

グループ全員が青ざめて言葉を失った。口をパクパクと開口させて何か言いかけるものの、言葉になっていなかった。足早にお店を立ち去ると、中西さんは脱いだパーカーのファスナーを締める。中西さんはため息をついて肩を落とした。

「せっかくのパーティーが台無しだ」

「俺たちのオラついた感じ、もうちょい控えたほうが良いのかもな。しょっちゅう職質受けるの嫌だし」


1日に何度も職務質問をされたり、何時間も拘束されることもあるらしい。飛行機に乗るときは靴の中まで調べられるそうだ。

「今夜は派手に飲む気だったんだけどこれくらいにしとくか」

本当に解散になってしまった。璃琥ががっかりした様子だったので、帰り道に腕を組んでキスをしてあげた。僕にできるささやかなプレゼントだ。

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