試合を目前に控え計量の日が迫っていた。僕たちはホテルに滞在して減量の追い込みをしていた。璃琥の目はあからさまに落ち窪んでいる。うつろげな様子のときもあれば、射抜くような鋭い眼光をしていることもあった。バスタブにはお湯を溜め、小型ヒーターを浴室に置いて発汗を促す。そしてシャンプーボトルの横には防水ケースに入ったタブレットが置かれていた。
対戦相手の試合がリピート再生されていて、相手の対策を練っているそうだ。こんな厳しい水抜きを始めてから、すでに20分以上が経過していた。同じ試合を観るのは今日だけで五回目だそうだ。
「大丈夫? 倒れたりしないでね」
「ああ、体重も研究も順調だ。そろそろ出るつもりだった」
璃琥の足取りは軽くふらついていたので、いつでも肩を貸せるように近くで寄り添っていた。彼は洗面台の蛇口をひねって口を湿らせた。計量を明日に控えているから飲むことは出来ない。
「これで間違いなくクリアしてるだろう」
璃琥はうつろな目で力無く笑っていた。
計量日の当日、体重計に乗って数値が読み上げられると場内がどよめいた。厚手のパーカーとジーンズを着て計ったのに、64.8kgと規定の体重に余裕で収まっていた。普通は裸で計るものだし、ぎりぎりまで体重を増やす。対する相手は体重を500gオーバーしていた。璃琥は体重超過を承諾したので、減点に加えて厚手のグローブをつけるペナルティが与えられることで試合は成立した。
フェイスオフが始まった。ファイティングポーズをとって記者の写真撮影に応じる。対戦相手は睨み合いの末に璃琥の胸倉を掴んできた。彼はSNS上で璃琥のことを散々煽っていた。そして両手を使って胸を押すと璃琥は一瞬よろめいた。体重超過を負い目と感じていないかのような態度に怒りの感情が湧き出てきた。
計量を終えた璃琥はスポーツドリンクを飲んで体重を戻していた。そしてイタリアンレストランでモッツアレラチーズサラダとペペロンチーノを注文していた。出てきた料理に塩をたくさん振っていた。塩分、水分、油分を入念に補う必要があるらしい。意識が朦朧とした感じはまだ残っているのか、うっかり2本重ねのスプーンを使って食事を口に運ぼうとしていた。
これで計量時の体重から軽く5kg、多くて10kgほど戻るはずだ。
「美味い。試合が終わったら思いっきり肉食いてえ」
「良さげなお店チェックしとくよ」
「絶対勝ってやるからな」
璃琥は自分の手のひらをパンチで打った。
「対戦相手、どんな印象?」
「パンチ力はありそうで序盤はラッシュを警戒しないとな。攻撃は大振りだしローキックの蹴り合いも苦手っぽい。カウンターを意識させて動きを止めたところを崩しに行けばなんとかなるだろう」
「まだネットで挑発してるね」
「この商売だからよくあることだ。ごりごりの実力主義団体で戦うよりも今のほうが俺に合ってる。盛り上げたり楽しませるのが向いてるんだ」
PV映像における璃琥の試合のキャッチコピーは『酔っぱらいニキvsギャンブルニキ』だった。格闘技界最強の無頼漢決定戦と銘打たれ、アニメ声優によってドラマチックにナレーションされていた。
他の出場者の経歴はホスト、バンドマン、SNSインフルエンサーなど。オーソドックスな格闘技団体とはまた違った要素をアピールポイントにしているように思えた。
対戦相手はギャンブルで生計を立てていることから出来上がった、アウトローイメージファイター対決といった構図のようだ。璃琥はファンサービスとして、片足立ちで酔拳の構えを披露していた。
「璃琥ってファン思いだね」
「応援されるとやっぱ嬉しいからな。バンドと違ってファンの男女比が真逆なのは少し寂しいが。つうかバンドやってること自体ほとんど報道されねえ」
「女の人にチヤホヤされるほうがテンション上がるよね」
「男に好かれるのも思ったよりも悪くなかったぞ」
璃琥に抱きしめられて、胸が熱くなった。
「こんな細っせえのに、今回の対戦相手に勝てそうなくらい強いんだから不思議だ」
「まさか」
「スパーリングパートナーとして不足はねえ」
「良い練習になっているのなら良かったよ」
「こっちはチームメイトに恵まれてることだし絶対負けねえ。実力も才能も環境も全て俺が上だ」
試合は璃琥の言った通りの展開だった。開幕からボディへのバックキックを放っていた。そしてガードが下がり気味になったところを狙い、左右のフックが連続でこめかみに決まった。対戦相手は白昼夢を彷徨うようによろめいている。ダウンカウントが途中で止まるほどの鮮やかなレフェリーストップ勝ちだった。
リング上で璃琥にマイクが手渡された。アフターパーティーでシャンパンを開けるのが楽しみだとか、クラブで爆音を浴びたいなどといつもの調子でジョークを言っていた。
客受けは良く、かつてない大歓声だった。今後の活躍への期待が持てるような快勝だった。僕とラウラは駆け寄って、璃琥と抱擁を交わした。
彼は手でビアジョッキを握る真似をして、客席を向いて一緒に乾杯のジェスチャーをして締め括っていた。これだけ盛り上がればチケットを買った値打ちもあるだろう。有名歌手のライブやコンサートよりも高価なのだから、無様な姿は見せられないのだ。
そして試合後は本当にアフターパーティーがあった。
「試合直後って、お酒飲んでも大丈夫なんですか? 頭部へのダメージとか、そういうのに響きそうなイメージがあるんですが」
会長は笑って答えた。
「良いんだよ、俺たちのチームはこれで」
璃琥は僕の肩に腕を回した。
「そりゃ世界最強団体のランカーとかだと酒一滴、アイスクリームひと匙も口にしないってレベルだ。でも俺たちはそのへんにいる普通の格闘家だからな。いつの時代にも転がっている、平凡なファイターさ」
流行りのクラブミュージックが流れるショットバーへ入ると、スパークリングワインを開栓した。パーティーの開始を告げるウェーイコール、裏声のフーという声、腰を突き出す即興のダンスで盛り上がる。
深夜になればテキーラショットグラスの並んだお盆が運ばれてきた。酔いが回って視界や音楽がぐにゃりと歪み、ぐいーん、ぐいーんといった感じの音楽がループした。僕は早々にソファーで寝てしまった。
外に出ると薄暗い早朝になっていて、そろそろ始発が出る時間だ。リバースする何名かを介抱しつつ駅で解散した。がらがらの電車に座った僕は、彼らの本当の仲間になってきたのだなという意識が芽生え始めた。
試合が終わってしばらくすると、驚くべき変化があった。街を歩いているとサインや握手を求めるファンに呼び止められる機会が増えたのだ。どうやら相手の選手は過激な発言でかなり注目を浴びている選手だったようだ。璃琥はその相手に口と腕っぷしの両方で完勝した結果、一躍有名格闘家の仲間入りを果たしたのだ。
今回の試合は格闘技ファンの間で話題となり、動画の再生回数も伸びた。だけど好意的な人ばかりではなくって、からかう目的で声をかけてくる人も多くいる。見知らぬ喧嘩自慢の人から路上で勝負を挑まれたこともあって、お断りするのに苦労させられた。リング上の酔いどれファイターっぷりが印象的なのだろう。突然の挑戦状であっても平然と受けて立つものと思われているようだ。
落ち着いた雰囲気のお店に入りたいという璃琥のリクエストがあったので、昼食は台湾カフェに入った。おにぎりがもち米を使っていてもっちりとしている。具材の揚げパンやザーサイと高菜のざくざく感が小気味良い。そして茶盤に乗せた小ぶりの茶壺で淹れる台湾茶に束の間の静寂を満喫出来た。
一息ついていると台湾人のオーナーが声をかけてきた。酢豚や青椒肉絲は無いのかと聞いてくる日本人客が多いようで、本場の台湾メニューを注文する客の来店が嬉しいようだ。台湾旅行に一度おいでとしきりに誘ってくれた。
「台湾カフェとか初めて入った。食べ慣れないから不思議な感じがするな。確かにけっこう美味いが」
海苔無しの長方形に握られたもち米おにぎりを眺めてそう言った。彼は豆乳紅茶とデニッシュ生地のハンバーガーを食べていた。
「良かったね、有名人になれて」
「応援してくれる人がこんなに多いとさすがに嬉しいな。もうちょい格闘技を真剣にやるか迷っちまう。音楽活動を続けるのが難しいなって最近思っていたところだ。セミプロでどっちもそこそこ楽しんでやる予定が狂っちまったな。事務所から別の音楽ジャンルへ転向するよう言われてるし、この際音楽は潔く諦めるか」
名残惜しそうなため息をつく彼を、僕は元気づけたいと思った。
「明日の祝勝会、前嶋さんのお店に決まったよ」
「おお、そうか。あそこのパッタイはビールとよく合うんだよな」
うちのジムに所属している現役プロ選手が経営するタイ料理のお店だ。海外で試合をしたときに屋台や食堂で口にした本場の味を売りにしている。珍しいミャンマー料理も数品作っていて、それ目当てのお客さんも来るらしい。そして月に1度だけ子ども食堂を開いたところ、格闘技界でも話題となって注目を浴びることになったのだ。
そのお店は見た目はスナック風で、飲み屋さんの居抜き物件だった。入口には本日貸し切りと書かれたプレートが下げられていた。今夜はスタッフとしてラウラも働いている。彼女はタイのルールで試合をしているからタイ文化に詳しいんだ。
「璃琥の勝利と、メジャー団体参戦決定を祝して乾杯!!」
「一気に駆け上がったな」
「SNSを使った宣伝のおかげだ。俺自身は大したことはしてねえ。みんなには感謝してる」
「璃琥もしっかり笑いをとってたよ」
笑顔のラウラが言った。璃琥の動画やプロモ写真撮影を担当しているのは主にラウラだから、特に喜ばしいだろう。
「うちみたいなローカル団体に2人も現役のスター選手が所属しているなんて、いまだに実感が湧かない状況だ」
会長が感慨深そうにつぶやいた。
「赤字出しながら必死にやってた時は泣かず飛ばずだったんだぜ。それが最近になって突然有名になって、見学申し込みが急増してんだ。信じられねえよ」
ビール入りのグラスを握る会長は、すでに酔いが回っている様子だ。
「俺はそろそろ引退するつもりだから璃琥、後は頼んだぞ」
「前嶋さん、引退するつもりなの?」
「ああ。ミャンマールールはギャラは良いけど肉体の消耗が激し過ぎる。重い後遺症とか残る前に辞めようと思ってるんだ」
オーナーの前嶋さんは日本とミャンマーの両国で有名になったものの、本当はタイで有名になりたかったという筋金入りのムエタイマニアだった。このお店がタイ料理店なのもその名残だ。
数年前にミャンマーのレジェンドファイターに勝ったんだけど、前嶋さんや会長さんは対戦相手の名前すら知らなかったそうだ。現地の食堂での食事中に握手を求められても半信半疑だったという。それほどミャンマールールは日本に浸透していない。だけど、ブレイクしそうな活路があればそれを掴み取るのは普通のことだろう。
「元々開業資金目的で始めたことだ。繁盛してる店を持てたんだから、試合で鼻を折られたり顔中腫れ上がるハードな闘いをした甲斐があったよ。けどな、目標を達成したからにはもう戦いたいって思わなくなってきたんだ。今さらムエタイ王者を目指すのは無理があるしな。試合よりも、貧困や難民の支援に関心があるんだ」
「俺もそういう感じで綺麗に引退するきっかけが欲しいぜ」
40代前半の現役プロが言った。プロ格闘家としての生活を続けるのは難しいことだ。だけど、辞めるのもまた難しいそうだ。
「優希も試合出ないか?」
「ごめんなさい、僕はやっぱり抵抗があります」
「そうか、盛り上がりそうなんだがな」
会長が璃琥の肩に手を置いた。
「やっぱ璃琥しかいねえな。マジで頼むぜ。お前の試合にこのジムの命運が懸かってるからな」
「スポンサーもついたことだし、飲み屋のシフト減らして貰って練習量を増やすか。うちは客からの奢りも少ねえから、酒も控えやすい」
「おお、ついにやる気になったか」
「ああ。虐待親父の家業を継ぐ時が来たようだな。俺もとうとう格闘家になっちまったか」
「親にそこまで言わなくても」
璃琥は舌打ちをすると、自分の分のお会計をテーブルに置いた。明日もジムに行くとだけ言い残し、足早に自宅へと戻っていった。後を追うことはしなかった。今の璃琥なら気持ちの面で折り合いをつけられそうだと思ったのだ。
璃琥からみんなの機嫌を気にしたメッセージが送られてきたので、大丈夫だと返信しておいた。