璃琥の通うジムはまぶしいくらいに照明の整った、真っ白で清潔なジムだった。壁紙からスパーリング用のグローブまで白色で統一してあった。
どうやらフィットネス会員も歓迎しているジムのようだ。レッスン制はヨガクラスのみ。みんな好きな時間にチェックインをしてサンドバッグを叩いたり、軽めのウェイト・トレーニングで汗を流していた。
僕は動きやすい服装に着替え、渡された軍手をはめた。体験入会ではバンテージを巻くは必要は無いらしい。璃琥の持つミットにパンチを撃ち込んで行くと乾いた音が鳴り響く。
「優希のパンチ、けっこう強いな」
なぜだか周りの視線がこちらに集中して、会長さんにも声をかけられた。
「本当に格闘技未経験か? 飲み込みが早いな。軽量級の会員は少ないし入会してくれるとすげえ嬉しいぜ」
前向きに検討しておきますと言い残し、僕は帰るための準備を始めた。
軍手とグローブは汗を吸ったのか、はめたときよりも重く感じられた。帰宅した僕は入会申込書を眺めていた。
駅から近く真新しいジムでもあるから月謝はそれなりの額がかかる。でも行く時間を気にしなくて良いのは便利だ。習い事から遠のいて久しいので、体を動かせること自体が新鮮だ。
体験入会をした翌週に記入済みの申込書、身分証明書、証明写真を持ってジムへ行った。手続きが終わると早速準備運動だ。ストレッチと軽い技練習が終わると、ボーイッシュな女子会員からスパーリングの申込があった。
「え、スパーリングとか、そんなのいきなりするものなんですか?」
すでに臨戦態勢に入っていた彼女はファイティングポーズを下ろした。髪はベリーショートで黒のトレーニングウェアを着ている。ぱっと見だと10代の男子中学生と勘違いしそうだ。
彼女はラウラ・カガミという名前で、ルーツはブラジルだそうだ。この近所には外国人観光客が多く訪れる市場がある。その影響か、訪日した外国人会員が多いようだ。
「緊張しなくて大丈夫ですよ。ここの人たち優しいから」
彼女の説明通り、柔らかい表情で雑談する人が多かった。中には過去に参加した飲み会の話しをしている人もいた。
サボテンをおつまみにしてテキーラの一気飲み勝負をしたことがとても楽しかったようだ。僕もその集まりに参加するシーンを想像して、血の気が引いた。ラウラは緊張している僕に飲み会は断れるからと行ってくれた。
「有名なところとかボクシングジムだったら半年くらい練習をしてから始めるみたいだけど、ここは軽いスパーリングはすぐに始めちゃうんです
会長さんも説明に加わった。
「打ち込みばっかやってたら退屈して辞めちまう会員が出てくるんだ。だから軽めのスパーはすぐにさせてる」
「そういった事情だったんですね。お手柔らかにお願いします」
「いつも練習相手に困ってたから、体格の近い会員さんが増えて助かちゃった」
満面の笑みで彼女は言った。小柄な体格をしているだけでここまで歓迎されるだななんて思わなかった。
初めてのスパーリングが始まった。彼女の身長は160cmあるかないかで60kg程度、ごく平均的な体格の女の子だ。彼女からはものすごいオーラが感じられた。こちらの攻撃はほとんどヒットしなかったし、軽いローキックを足に何度かもらってしまった。
これといった激しい動きはしていないけれど、慣れない動作だから3分間でも大きな疲れが感じられた。初心者は彼女相手に背を向けて戦意を喪失することも珍しくないらしい。
僕が比較的善戦した部類に入るというのが信じられなかった。未経験者が体の軸を保ったままテンポ良くパンチを打ち込めるというのは凄いことのようで、何度も褒められてしまった。
「しばらく練習したらうちが主催してる興行の試合に出ないか?」
突然のお誘いに言葉を失う。仮に僕に格闘技のセンスがあったとしても、プロの試合に出るなんてあり得ない話しだと思った。
「ごめんなさい、出来ません。僕、格闘技も喧嘩もしたことなくって」
「話題性があるから、そういう枠だ。璃琥との幼馴染みだからストーリー性がある。ツラも良いし、格闘家っぽくねえのが良い」
「筋肉も力も無いし、本当に弱いですよ。お客さん怒っちゃうかもしれません」
はっきりと断ったものの、会長さんはそれでもスカウトを続けた。僕のどこにそこまでの価値を感じているのだろう。
「一試合や二試合、何ともねえよ。うちはローカル団体だから目立つ試合がやりてえんだ。技術のセンスを感じるんだ。特にタイミングとフェイントがな」
舞踊の経験や演劇研究が、思わぬ形で発揮されたのかもしれない。リアリティのあるフェイントのフォームを作るのは本来とても難しいそうだ。
「格闘技って僕は特別好きでは無いので、真剣にやってる人に対し失礼な感じがして無理です」
会長さんと璃琥は、言いかけた言葉を飲み込んだように思えた。どうしても試合に出てほしい事情があったのだろう。どうやら現在、赤字経営らしかった。
次の相手は璃琥だった。経験も体格も差があるから、ストレッチでもするかのようにゆったりした動きでジャブを打ちつつロープ際を回っている。彼のバックステップの着地際を狙い、僕は覚悟を決めて踏み込んだ。こめかみ付近にフックを打つと、璃琥のガードが少し揺れた。もしかしたら当たってしまったかもしれない。
「大丈夫? ごめん強く打っちゃったかも」
「ポイントを突いてるな。良い練習相手になりそうだ」
「僕で良ければ相手になるよ」
「試合が近いから後でミット持ってくれるか?」
「え、璃琥って試合出てるの?」
「格闘家って名乗れるようなレベルじゃねえけど一応プロルールの試合でやってるよ。今在籍してる会員は出場してる人のほうが多いくらいだ」
ファイトマネーを貰って試合に出ているだなんて驚きだ。格闘技だなんて僕には一生縁の無い世界だと思っていた。それがプロ格闘家の人たちに囲まれて、親しげに話しかけられている。先月までの自分に言ったところでこんなシチュエーション、絶対に信じないだろう。
突然大き過ぎる環境の変化があったから、気持ちの切り替えが出来ずにいる。半信半疑のまま璃琥のミット打ちを始めた。これはコツがかなり必要で、ミットを構える位置の変化のつけ方が難しかった。
終わると汗の光る笑顔で握手をした。璃琥とチームメイトとしてやりとりできるのはとても嬉しかった。このまま格闘技を続けてしまおうかと思えてきた。
ジム通いはしんどくもあるけれど、楽しさも大きいのでそこまで苦にならなかった。だけどトレーニング機器をひたすら持ち上げて、ボディビルコンテストへの出場を夢見るスポーツジム会員。それは今の僕でも共感するのは難しい世界だ。
午前のデータ入力が終わった。ここは雑談が発生するようなアットホームな職場では無い。図書館のように静かなランチタイムなので、読書好きの僕にはとても居心地が良い。
今日はジムの練習の疲れからお弁当は作ってこなかった。職場近くのビストロで、鶏肉のコンフィランチを注文した。オイル煮された塩漬け肉が口の中でほろりと崩れた。
食後は紅茶を飲みながら璃琥のバンドの曲を聴いていた。ライブハウスで撮影された様子が動画サイトに配信されている。白くファンデーションを塗った璃琥は裸の上半身に直でジャケットを着ていた。
ライブの後半からはジャケットを脱ぎ捨ててトレーニングで培った腹筋を披露していた。璃琥から聞いていた感じよりもずっと真剣に取り組んでいるように思えた。
彼と会うのが楽しみで胸が熱くなってくる。今日も早く会いたくって、午後のタイピング中も璃琥のことを何度も思い浮かべてしまった。
そして今夜もジムへ向かった。基礎が全くわかっていないから、しばらくの間は週に何度か通おうと思っている。
璃琥は縄跳びをしていた。そろそろ試合に向けて食事制限をかけるそうだ。
「なあ、アサイーボウルって知ってるか?」
璃琥が予想外の単語を口にした。
「オーガニック系のカフェメニューだね」
「興味があるなら練習終わりに行こう」
「気になってたし1度食べてみたかったよ」
「あたしも行って良い?」
ラウラも加わって3人で行くことになった。ウッディーな内装からはぬくもりが感じられ、落ち着いて食事が摂れた。
アサイーボウルにはフルーツや穀物がたっぷり盛られていた。ボウルはヤシの実で出来ていて、赤く映えたベリーソースが健康的だ。
「美味しいね。ここのお店、よく来るの?」
「塩抜き期間中は特に通ってる。美味くてヘルシーなスイーツならここが良い。ブッダボウルも先週まで食べてたしな」
「塩抜きって?」
「塩分の摂取をカットして体内に水分を溜めないようにするんだ。半身浴やサウナも使って水抜きするのは計量する日がもっと迫ってからだな」
「そうだよね。プロだっていつも脱水症状が起きそうな食生活してるわけじゃないよね。良かった……」
「仲良いけど、2人はつきあい長いの?」
ラウラが言った。
「高校が一緒だった。毎日のように会ってたんだ」
「兄弟みたいね」
「どっちが兄貴だ?」
「優希のほう」
「僕は長子で璃琥にはお姉さんがいるね」
「え、お姉さんいるの?」
「姉貴はプロボクサーだ。世界タイトル獲ってるぞ」
「璃琥もそろそろチャンピオン目指せそうね」
「今一番ベルトに1番近いのはラウラのほうじゃねえか?メジャー団体でもやっていけそうだ。俺はそんなに強くねえ。バンド活動のために始めたことだしな」
「そのわりに試合前日とかの璃琥、目と頬っぺたが窪んだりして倒れそうになってる」
「勝負事は自然と命賭けでやっちまう。うちはそういうタイプの一族だ。だからこそ1番を目指すようなことをしたら深追いのしすぎでぶっ壊れちまうような気がする。こうして仲間と食事をしてるだけでも楽しいんだ。世界最強とかあんまり興味ねえな」
璃琥は楽しげな表情で言った。少年時代の底なしに悲しい表情をしていた璃琥を知っているだけに、みんなと仲良くしている様子が嬉しくてたまらなかった。
3人とも完食したところでお店を出た。食事制限と聞けば過酷で悲壮感すら漂うイメージもあったけれど、意外と美味しいものって作れるようだ。
ラウラは自宅に帰るようで手を振って挨拶を済ませた。璃琥は僕を見て言った。
「なあ、俺のマンション来ねえ?」
ここからは璃琥の家のほうが近かった。
「うん、行ってみたい。璃琥の部屋、楽しそう」
彼の家はギターにCDや衣装など、音楽関係のものが多かった。他にもドクロや眼球のオブジェ、吊るされたボクシンググローブ、それに神秘的な鹿のラベルが貼られた酒瓶も飾られていた。
「ロックテイストの部屋、なのかな?」
「過激めの小物とかあって騒がしいだろ」
「毎日ハロウィン気分だね」
「ああ、好きだなハロウィンは。メンバーでどんな仮装してSNSに載せるかって毎年すげえ悩んでる」
「見たい。見せて見せて」
「これ、ドラキュラの衣装」
彼は衣装に着替え、牙を装着した。髪も後ろに流して即席のコスプレをした。片手にワイングラスを握り、気取ったしぐさで一口の赤ワインをすすった。笑いをが込み上げてくる。
「オールバックが似合うね。けどちょっとドラキュラにしては逞しい感じがするかも」
「青白いイメージだもんな。優希のほうが似合うんじゃね?」
「美しい吸血鬼が見られると思ったんだがな。きれいな首だ。血を吸いたくなる気持ちもわかる気がする」
璃琥は牙のおもちゃを口にはめ、マントを翻した。にやりと笑うと僕を抱き寄せた。笑いが堪えられなくて思わず吹き出してしまった。
「お前は俺の永遠のパートナーだ」
彼はそういって額にキスをしてきた。そして抱き寄せられて、彼の体温が僕に広がった。
僕の胸が熱くなった。恥ずかしさもあって広い胸板に顔を埋めた。
BGMには洋楽のメタルロックが流れている。金属のようなシャウトが響き、ドラムの音は臓腑をえぐるようだ。おそるおそる抱きしめ合うと、今度はじっくりと口づけをした。
照明を消して真っ暗になると、蛍光色のスライム状の血やドクロの置物が鈍く光っていた。彼にどんどん惹かれていくことが幸せでありながら少し怖くもあった。