お昼休憩のアラームが鳴った。僕はまるで学生のように飛び上がって会社を出た。限られた休憩時間の中、職場から近くにある璃琥のお店へ小走りした。
地下へ通じる階段を降りていくと、クラブ風のBGMが聴こえてきた。
店内にはステージがあって、壁にはカントリーバンドのライブ告知が貼ってある。ビリヤード台もあったけれど、プレイしている人はいなかった。
メニューは英語の字が大きくて、日本語は小さく補足のように表記されていた。ここはあきらかに外国人客向けのお店だ。
「見慣れない名前の料理が多くって、なにを注文すれば良いか悩んじゃう」
「まあ基本的にはビールをあおりにくる店だな。主にオランダ料理を出している。エンドウマメを使ったエルテンスープは珍しいし、ソウルフードだからおすすめだ」
璃琥はカウンターにもたれかかり、肩を揺らしている。そして爪を立て、小気味良く音を立てていた。
「温かいものが飲みたかったからそれちょうだい。パンとヨーグルトディップもほしいな」
「OK、スープにパンにヨーグルトディップだな」
彼は手早く冷蔵庫の中をかき分けた。
前菜のマッシュポテトには馴染みのないハーブの草っぽい香りが効いている。本場の西洋の香りといった感じがした。
そして美味しい。素朴な料理なだけに作りの丁寧さが感じられた。クリーミーでなめらか、そして乳製品のコクも深い。
美食の国のフルコースはもちろん好きだ。でもドイツやイギリス料理と聞いてイメージが浮かぶような、ヨーロッパの素朴な家庭料理には憧れがあった。
璃琥のポテトはお世辞抜きで、豪華なフレンチレストランや高級ホテルの前菜よりも美味しいと思った。
先に到着したヨーグルトディップは刻みきゅうりの食感がアロエのようにぷにぷにした爽やかな後味をしている。塩味のヨーグルトはマヨネーズをヘルシーにしたみたいで、僕の好みにぴったりだ。
スープは濃厚な黄緑色をしてていかにも健康的だ。具には刻みソーセージも入っている。璃琥の料理の腕前はお見事だ。
夢中で食べている僕に璃琥は微笑んだ。
「食後に甘いもん、欲しい?」
「揚げバナナアイスって美味しそう。飲み物はミントティーにするね」
怖いもの見たさで注文した揚げバナナは初体験の味。タイの遠征試合の時に食べたのがきっかけでメニューに取り入れたそうだ。
ふんわりと揚がったバナナは青いものを使っているみたい。アイスの甘さとはよく釣り合っている。
アツふわ食感のバナナとアイスの冷たさの融合は、予想できるようなハーモニーではなかった。すばらしく美味しいのだ。
高く掲げられたティーポットを、フレッシュミント入りのグラスに注ぐ。その様は執事のようにスマートなものだった。
ワイルドさと華麗さ併せ持っている。彼はとにかく格好良いとしか言いようがない。
「初めて食べるものばかりだったけれど、どれも美味しかったよ」
「そりゃ嬉しいな。これで客がもう少し入ってくれたら良いんだが」
「本当に美味しいのにね」
「オランダ料理ってのが日本ではマイナーだからな。サイドメニューのトルコとバリ料理をメインにしようかと毎日悩んでる。でもそこはブレたくねえしな。俺、小さい頃は爺さんにすげえ懐いてたんだよ」
璃琥の父方の祖父はオランダ人だ。日本に移住する前はナイトクラブで働くセキュリティをしていたらしい。毎晩のように暴力沙汰が起きては複数人を相手に制圧出来るような武道の実力だったとか。
道場を開くと璃琥のお父さんも同じように強く育った。璃琥も同じような生き方を期待されたものの、格闘技をするのは嫌だったようだ。
強引に訓練を受けることとなり、青あざが絶えなかった。虐待相談所に行ったこともある。
周囲から不良視されていたけれど、悪いやつには見えなかった。どうしても放っておけない感じがして彼とは友だちでいたんだ。
「毎日アクティブに活動しているようだね」
「バンドとキックボクシングと立ち仕事やってるからな。それでも体力は有り余ってるから楽しくやってる」
「バンドって、ロックとか?」
「V系ロックバンド。親父がV系のボーカルやってた影響だな。メイクするのが始めは嫌だったけど、今ではけっこう楽しくなってきたな。ヴァンパイアとかゾンビまでやってるよ」
「似合いそう。楽しそうだね」
「優希はどんな感じ?」
「僕はお茶と読書が趣味で、事務仕事をしてるよ」
「飲み歩く、とかそういうタイプじゃないよな」
「うん。ジム通いはしたいんだけど、勇気が出なくって」
「俺はライブの後半になると上を脱ぐし、泥酔客もよく見かける。鍛える必要があると思って、ここから近いところへトレーニングしに行ってんだ。興味あるか?」
「見学してみたいな」
「格闘技だぞ」
「とりあえず見てみたくって」
何を習うかなんてどうでも良かった。璃琥とまた一緒になりたい一心でジム通いを承諾した。
僕は運動神経は鈍く、体力なんてあるはずが無い。勉強だって平凡な成績だった。だけど習い事に対する集中力には自信があるから、なんとかなるだろうという気でいた。
「ところで、昔は色々悪かったな」
背後から璃琥の手が伸び、僕を抱きしめた。
「俺は昔すげえ荒れてて、そのうち優希に酷いことしちまうんじゃないかって怖かった。しょっちゅう不良どもと路上で喧嘩ばかりしてたしな。親父に格闘技を叩き込まれてたから、素人をボコるのは良くなかったな。そういう荒んだ生活が恥ずかしくて顔を合わせるのが気まずかった。でもずっと会いたかった」
「気にして無いから。僕、大学は心理学部だったよ。人の役に立つことがしたいって思ってたから。璃琥と出会ってなかったら家族に流されて、お稽古漬けの人生で終わっていたかもしれない。すごく苦しんでいた時、君に何も出来なくてごめん」
「話しをよく聴いてくれるやつだなとは思っていたけれど、セラピストを目指していたのか。俺はこうしてカタギで暮らしているし、無駄な喧嘩はしない。酔っ払いにしては健康にも気をつけてまずまず真面目にやってるからな。優希と出会えて良かった」
璃琥からどう思われているのか何年間も気にしていたのが、あっけなく打ちとけてしまった。無神経に彼のトラウマを覗き見してしまったのでは無いかと怯えていた。でもど本当に歓迎してくれているようで、涙が滲むほど嬉しかった。
「なあ。あの川、久しぶりに行かね?」
彼はそう言って僕の腕を引っ張った。すれ違う人とぶつかりそうな勢いで全力で走った。久しぶりに心の底から笑顔がこみ上げる。僕のほうこそセラピーされているみたいだった。
川の周辺は若者と観光客と飲食店で埋め尽くされ、相変わらずとても賑やかだった。ファストフードをテイクアウトして、ベンチで川を眺めながら食べるのがすごく美味しいんだ。
目の前のカップルは仲良くエッグタルトを食べていた。橋では奇抜なコスチュームのパフォーマーがポーズを決めている。
ネオンの看板は眩しく輝いていて、ここは観光客の撮影スポットとして大人気だ。璃琥はパフォーマーの前に置かれたギターケースに投げ銭をした。
熱気のある街並みの中で川の流れは際立って涼しげだ。騒がしく感じさせない心理的効果がある。
「よくここのベンチに一緒に座ってくれてたよな。今考えると真冬のくそ寒い中、いつまでもいられたのが不思議だ。そういやスクールカウンセラーに繋げてくれたこともあったし」
「僕、そういうの自然としちゃうんだよ。璃琥、今は元気?」
「ああ、どうにかなってるよ。たまにすっげえ嫌な夢を見るくらいか」
「夢って、嫌でなければどんな内容か教えてくれる?」
「親から暴力受ける夢。たぶん、一生つきあっていくんだろうな」
璃琥はこう見えて暴力が嫌いで、父親から格闘技や極端に男性らしい振る舞いを強要されるのに耐えがたい様子をしていた。いじめられていた時期もあったから、喧嘩を繰り返していたことがあっただなんて、信じられなかった。
「今はもう何もされてない?」
「家出して絶縁状態だからな。役所や警察とかいろいろ相談に行って、切れるだけ関わりを切った。そんで仲間や彼女の家に転がり込んで、状況が落ち着くまで世話になってたな」
「そ、そう……とても大変だったようだね。でもどうにかなったようで、嬉しいよ」
「毎晩親に復讐することばっか考えてたんだがな。今でもバンドだの格闘技だのって、親の影響を受けまくっていることが癪に障る」
璃琥は顔を手で覆うと、深いため息をついた。
「再会したところなのに暗い話しになっちまったな」
「僕は性格的に、話しは聴いちゃうから」
「教師まで反抗期扱いして聞く耳を持たなかったのにな。スクールカウンセラーも似たようなものだった。優希だけだ、まともに話しを聞いてくれてたの」
「聞かせて欲しい。璃琥の気持ちを」
2人は仕切り直すように川岸の手すりにもたれかかった。川を進むクルーズが見えたので、しばらく移動するところを眺めていた。
この近辺で未成年が補導されている様子がたまに報道されている。行き詰まりを感じていた僕たちも、かつてここ以外に来るところが無いかのように感じていた。
「璃琥、昔ここでオーバードーズしてたね」
「優希も一緒に飲んでたな。あれにはすげえ焦った」
笑っているけれど、彼は両手いっぱいの眠剤を飲んでいたから、致死量に近かかかっただろう。
「人の気持ちがわかりたかったから。今じゃ絶対できないよ」
川の湿っぽさと璃琥の香水の合わさった匂いに気持ちが高まって、キスをしたことがあった。それは思春期・青年期に時折見られる一過性の感情だろうと思っていた。
2人とも同性愛者では無いのだから、2度と起こることが無い出来事だと信じて疑わなかった。
でも、璃琥との再会に高揚感を抱いていることは否定出来ない。胸の高鳴りが止まないでいる。どうして璃琥に惹かれてしまうのか自分でもよくわからなかった。
似た物同士が結びつく傾向にあると心理学の教科書で読んだ覚えがある。璃琥の気持ちは少しだけわかるような気がしている。
璃琥のほうを見ると、はっきりと目が合った。璃琥は僕の両肩に腕を廻し、唇にキスをした。
「本当に再会できて良かった」
そう言った璃琥の瞳は潤んでいた。月明かりに照らされた肌は蒼く、明るい金髪はルチルクォーツのようにきらめいている。
そしてどちらからともなく手を繋いだ。喧騒を離れ暗い夜道を歩いていると、お城っぽいデザインのホテル前で立ち止まった。エントランスの頭上では白い天使がホルンを吹いていた。
「優希、こういうところ来るの初めてじゃねえのか。大丈夫か?」
「ちょっと緊張してるけど、綺麗そうなところだし大丈夫」
浴室には虹色に光るジャグジー風呂があった。喜んで入ろうとすると、璃琥がゆっくりどうぞと言った。
艶めかしい場所を想像していたので、こんな幻想的な演出は意外だった。
湯上がりに大きなふかふかのベッドに寝転んだ。
天井を見上げていると、あまりの心地よさに眠ってしまいそうだった。璃琥が出たことを告げたので、声のする方を見た。
ジムで鍛えた腹筋はくっきりと割れていた。音楽ライブでお客さんに見せるには十分すぎるほどの仕上がりだろう。
ジョークで殴る真似をしたら、彼は空手の押忍みたいなポーズをして耐える真似をした。久しぶりに心の底から笑ったような感じがする。
抱き合うと温もりが感じられ、胸が高鳴った。うとうとした雰囲気も限界近くなっていた。僕たちはハイタッチのようなキスを交わして照明を消した。
僕たちの交流は再開した。彼は友だち。幼なじみ。毎日の孤独とさよならするんだ。
「なあ、マジで来てくれんの?」
「うん、行ってみる」
ジム通い。僕にとっては場違いで、一生縁が無いと思っていた空間。そこへ行くという事実には実感が伴わない。