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第37話 セオ

 女性は手になにかの空瓶をもったまま息を荒らげている。酒だろうか。

「バカ男」と罵られた人物がさきほど吹き飛ばされた相手だろう。酔った末の痴話げんかだとしたら、手がつけられないほどにヒートアップしている様子にも納得できる。


「いってて……」


 壁に激突したなにか、もとい、男がゆっくり立ち上がり首を鳴らしながら女性に向き直る。アッシュピンクの短髪に、鋭い緑色の瞳をした端正な顔立ち。上半身は裸で、悔しいほどに引き締まった彫刻のような身体をしている。割れたプランターで怪我をしたのか額にうっすら血がにじみ、そしてなぜか、テカテカと光る液体まみれだった。


「急にどうしたんだよリュシー? らしくねえな?」


「うるさい!!みんなうるさいのよ!!わたしだって幸せになりたいのに!!もうあんたを殺して私も死んでやるんだから!!」


 髪を振り乱して叫ぶ女性の叫び声は、怒りと悲壮さが混ざりあう絶望的な響きをもっていて、いつのまにか集まってきた周囲の人々も不安そうに様子をうかがっている。


「エマ……向こうの通りから行こうか?」


「え、ええ……大丈夫かしら……?」


「痴話げんかだよ、俺たちにはどうにも――」


 エマの手を引き野次馬のむれから抜け出そうとしたとき、男を睨みつけたままの女性が、首から下げていた長いペンダントを持ち上げて口元に寄せた。トップには装飾を施された笛らしきものがついている。それを見た瞬間、エマが血相を変えた。


「いけない! あれ炎笛えんてきよ!!」


「えっ、なに!? えんてき!?」


「魔法道具! 火を呼び出す笛なの!」


「火って……、うわ!じゃああの人が被ってるのって油か!?」


 男の頭から上半身にかけてをべったりと濡らしているテカテカした液体、それはおそらく油だった。女性のもっている空瓶に入っていたものかもしれない。目の前で油まみれの男が火をつけられそうになっている。混乱して、とにかく阻止せねばといきおいよく二人のあいだに割って入った。


「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってください! それはよくない!話しあいましょう!ね!?」


「そうです、お姉さんおちついて! どんなにひどい男でも、燃やすのはいけません!」


 エマも慌てた様子で女性のまえに立ちふさがる。群衆がどよめくなか、いままさに燃やされかけている当の本人は、何がおもしろいのか、うっすら笑みを浮かべていた。


「誰よ!あなたたち!どきなさいよ!」


「おー、離れてた方がいいぞー。俺これから死ぬみたいだし」


「なにを、のんきな、離れるのはあんただよ! そんな油まみれで!」


 近くにいると植物油特有の匂いが漂ってきて、こちらのほうが無駄に焦る。手汗がにじむなか、男が近づいてこないようにジェスチャーで制す。


「リュシー、俺が死ぬのはよくても、お前が死ぬのはだめだろ?」


 男は俺から視線を外すと、子供に語りかけるようなやさしい声色と表情で、リュシーという女性に話しかけはじめた。


「私が死んだってだれも悲しまないもの!!私はセオみたいに愛されてないの!!わたし、わたしは……!!」


「そんなこと言うなって。リュシーがいなくなったら、俺は悲しいよ。いままでのこと全部、忘れちまったのか?」


 やさしい笑みを浮かべ、首をかしげる男。その雰囲気にほだされたのか、女性の心に変化がおきたようだった。彼女の表情は揺れ動き、肩が震え、大粒の涙をこぼしはじめる。ついには空瓶を取り落として両手で顔をおおった。


「わ、忘れてないわ……わたし、セオが大好きよ……」


「わかってるよリュシー。なあ、ほら、こっち来てくれよ」


 男が両手を広げてほほえんだ。なんというか、その余裕に満ちた蠱惑的こわくてきな表情と仕草は、人の心を引きつけ、惑わすような力があった。これをモロに食らった女性は、ひとたまりもないだろうということだけはわかる。現に女性は、完全に心を奪われたようだ。


「セオ……! ごめんなさい! わたし、わたしどうかしてたの……、急にさみしくなって、むなしくなって、セオにこんなこと……!」


「ああ」


「怒らないで、嫌いにならないで、セオ」


 震えた声で懇願する女性を前に、男がいとおし気に目を細める。ボロボロと涙を流しながら、彼女が走って男に抱きついた。


「怒ってねえよ。そんな気持ちにさせてたなんてなぁ。気づいてやれなくてごめんなぁ?」


 男は彼女を抱きとめると、顔じゅうにキスを落としながら猫なで声で機嫌をとりはじめた。しっかりと抱き合い、もう火をつけられる心配はなさそうだ。というか、別の意味で燃え上がりはじめている。



「……ねえ、もしかして解決した……?」


「解決してるな……」


 二人が目の前でイチャつきはじめ、俺とエマは完全に置いてけぼりだった。なんとかは犬も食わぬとやらだな。仲裁に入る必要はなかったかもしれない。あぜんとしていると、女性の肩越しに男と目が合った。パチリとウインクをして、片手で親指を立てたサムズアップポーズをしてくる。それすらめちゃくちゃ絵になるのがムカついた。あらためて正面から見てみると、おそろしくイケメンだ。


「行こう、エマ……なんかすっげー疲れた……」


「そうね……」


「なあ」


 ため息をつきつつ、その場から離れようとした俺たちを男が呼び止める。静かになった女性の頭を胸によせ、長い髪を撫でながら相変わらず余裕のある笑みを浮かべていた。油まみれなのに、女性はそれすら厭わないようだ。


「あんたら、名前は?」


「……アマヤだよ。こっちはエマ」


「そうか。俺はセオ。またな」


「……?」


 騒ぎがやみ、周囲の人々が安心したように日常の喧騒に戻っていくなか、俺とエマも今度こそカップル二人の世界となりつつあるその場を離れた。


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