「ウウウ……グルルルルル」
ギラギラと金色の眼が光る。唇を捲り上げて鋭い牙をむき出しにしたダイアウルフ・アルファの喉から発せられる低い唸り声は、骨の髄まで震わせるような恐ろしさだった。
「ごめんなさい。あなたをかばいながら戦える相手じゃない。私が注意をひくから、とにかく逃げて」
「……っ」
こんなエマは初めてだ。相手は巨大なオオカミの化け物。背中の毛を逆立て殺気立ったダイアウルフを前に、少しでも間違った選択をすれば、即座に命かかわると本能的にわかる。
「ウウウッ!!」
ピリつくような緊張のなか、ダイアウルフが動いた。こちらをめがけて一直線に突っ込んでくる。エマが瞬時に反応し、俺を押しのけた。
「逃げて!!」
エマが刀を構え、ダイアウルフと対峙する。飛びかかってきたダイアウルフの牙がエマの腕をかすめるが、彼女は素早く身をかわし、反撃の一撃を加える。しかし、ダイアウルフの皮膚は予想以上に硬く、深手を負わせることはできない。
「くっ……」
エマは歯を食いしばり、態勢を立てなおした。ダイアウルフの攻撃は止まらず、エマは必死に防御と回避を繰り返す。しかし、圧倒的な力の前に、少しずつ押されているのがわかる。
「エマ……!」
足が動かない。エマの邪魔にならないよにしたくても、背を向けて逃げることすら恐ろしくて仕方ないのだ。
「アマヤ……! 逃げて、おねがい……!」
エマはこちらを見ずダイアウルフに集中したまま、俺に向かって叫ぶ。なんとか足を動かそうと後ずさりするも、目が離せない。
エマの動きが徐々に鈍くなっていくのが分かる。ダイアウルフの一撃一撃は重く、すばやく、勢いをそぎ切れないままそれを受け続けている彼女に疲労が蓄積されている。
突然、ダイアウルフが深く踏みこんで大きく跳躍した。エマはそれを避けようとしたが、間に合わない。前足が彼女の肩を抑え、細いエマの体を押し倒した。
「うっ……!」
エマは必死に抵抗するが、重みで身動きが取れない。ダイアウルフの鋭い爪がエマの肩を深く引っ掻き、周囲に血が飛び散る。
「やめろ!!」
その光景を見た瞬間、こわばっていた俺の体がとっさに動いた。近くにあった岩を拾い上げ、ダイアウルフに向かって投げつける。岩は横っ面を直撃し、巨体が一瞬だけよろめいた。その隙にエマは這いずり、体を回転させてダイアウルフから距離をとると、刀を構えなおす。痛みと焦りが混ざったような苦し気な表情をしている。
「アマヤ、下がって! 危険よ!」
だめだ、動け。エマを助けなければ。いま俺が逃げたところで、彼女がこの場を切り抜けられる可能性は高くない。なら協力して戦うほうがいい。動くんだ!! そう思った瞬間、うなり声をあげてダイアウルフが俺に向かって飛びかかってきた。すごい速さだった。エマは俺を気にしながらこんなものを相手にしていたのか。
「アマヤ!! だめっ!!」
エマの悲鳴が聞こえ、次の瞬間、熱と激痛が走る。ダイアウルフの鋭い爪が一瞬で俺の腕と足を深く引っ掻いていた。血が飛び散り、涙があふれる。傷口を抑えようとあげた腕も素早く払いのけられ、また皮膚が切り裂かれる。ダイアウルフはただ怒りと殺意だけを瞳に宿らせているように見えたが、俺を一瞬では殺さなかった。まるで悲鳴を聞くのを楽しむかのように、いたぶって弄んでいる。
「ぐあっ、ああっ!」
「アマヤっ!!」
足の感覚がおぼつかなくなり、立っていられない。くずれるように地面に膝をつき、ぐらつく視界のなか、ダイアウルフが大きく前足を振るった。横腹に衝撃が走り、爪が肉を引き裂く感覚に、悲鳴を上げた。横倒しに吹き飛ばされ、地面に強く頭を打つ。なんとか目を開くと、腹部から流れでる血で、周りの地面がみるみる赤く染まっていくのが見えた。なにか柔らかいものも中からはみ出てしまっている。腹の中に押し込もうにも腕がまともに動かない。信じたくない光景と、痛みで意識が遠のきそうになる。
「やあああああああああ!!」
エマの叫び声が聞こえた。彼女が全力でダイアウルフに突進していく。刀はダイアウルフの脇腹に突き刺さり、「ギャッ!」と痛みに悶える鳴き声がこだまする。しかし、ダイアウルフの力は衰えていない。太い尻尾がしなるように動き、エマの体を強く打ち付けた。彼女の体が宙を舞い、洞窟の壁に激突する。「ドン」という鈍い音とともに、エマの体が地面に崩れ落ちた。
「エマーーーー!」
どこからこんな声を絞り出せたのか、俺の叫び声が洞窟に響き渡る。嘘だ。エマは動かない。パラパラと鉱石や岩のかけらが彼女の体に降り注ぐ。嘘だ。嘘だ。きっと気絶してしまったんだ。エマが負けるわけない、死ぬわけない。こんなの嘘だ。
ダイアウルフはしばらくじっと動かなくなったエマを見ていたが、何度か耳をぴくぴくと動かせたあと、ゆっくりと彼女に向かって歩き出した。
「だめだ、っ、だめだ、……行くな!」
必死に這いずって、ダイアウルフに近づく。注意をひこうと、手当たり次第に落ちている石や鉱石を投げつけた。
「ああああクソっ痛ってえええ」
ごつごつした岩肌に傷がこすれるたび痛みが増し、体をおろし金ですり下ろされるような気分だった。なめくじが這ったあとのように血の筋がつづく。なんなんだよ。なんなんだよこいつは。俺とエマはゴーレムを倒して、魔石をとって、無事に村に帰るはずだったんだ。こんなケダモノと戦う予定なんて、エマが傷つくはずなんてなかったのに。
「行かせねえよ、畜生! こっち見ろ!」
「ウウウウウ……」
何度目かに投げた石がダイアウルフの後ろ足にあたり、動きがとまる。忌々し気に牙をむき出し、こちらを振り返った。この傷と出血じゃ俺はもう助からない、わかっている。死んでもいい、エマだけはこれ以上ぜったいに傷つけさせない。
「うっ、……うう」
脂汗をかきながら後ろ足までたどり着き、腕をまわしてしがみついた。ダイアウルフの体温、強靭な筋肉の動きを手に取るように感じる。俺の腕は皮膚が大きく切り裂かれていて、骨まで見えている部分もあった。血があふれ続けて、ダイアウルフの毛を汚す。ぜんぜん力が入らない。動きをとめることなんて出来そうになかった。少しでも気を引くため、ベルトのナイフを片手で握りしめ、ダイアウルフの足の健にゆっくりと突き刺す。
「ガアアアアア!」
「ぐっ! ううっ」
逆上したダイアウルフがふりむき、後ろ足にしがみつく俺の胴体に嚙みついた。バキバキと骨の折れる音が響く。すぐに逆流してきた大量の血を吐いた。エマ。エマ。エマ。少しでもいい。エマのもとに行かせない時間稼ぎをさせてくれ。怒りと痛みで心臓がとんでもない強さと速さで脈打っている。いままでに感じたことのない動悸に、いよいよ死が目の前に迫ってきているのを感じた。悔しい、許さない、痛めつけてやりたい、痛い、痛い、痛い、痛い!!
「ああああああああああ!!!!!!!」
感情が濁流になって全身を駆け巡る。頭のなかで何かが弾けた。激しい怒りと苦痛が一つに溶け合い、視界が赤く染まる。体中に力がみなぎる。それは今まで感じたことのない、異質なものだった。