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第18話 限界

「縛る必要、あるか?」


「あなたのためよ。また暴れて、怪我するかもしれないから」


 昨夜と同じ、竹林の奥の開けた場所で火をおこし、エマと向かいあっていた。倒れこまないように最初から地面に膝をついて、両手は左右から伸びた植物のツルで拘束されている。強く引いてみてもビクともしない。引きちぎるのは無理そうだ。



「霧は十分……。準備はいい?」


「ああ。やってくれ」


「時の霧よ、記憶を呼び覚ませ。古きをしのび、真実を開け」


 エマの手のひらが額に触れ、冷たい電流が走る。歯を食いしばり痛みと頭の中の違和感に耐えた。






△△△






 暗闇の中、ソファに座り、テーブルの上で点滅する未来みくのスマホを見ていた。楽しげな笑い声と共に寝室のドアが開き、ナイトガウンを着た彼女が現れる。ソファに座る俺と目が合った瞬間「ヒッ」と息を呑む音がした。



「終わったか?」


「ま、まって。まってまって、説明するから」


「録画した。出ていってくれ」


「ちょっ……、待ってってば! ねえ! お願い聞いてよ!」


 未来みくの様子が気になったのか、すぐに下着だけ身につけた斗真とうまも出てくる。


「兄貴……」


「いますぐ出ていってくれれば慰謝料の請求はしない。2人ともな。だから黙って出ていってくれ」


「話っ、聞いて! ごめんなさい! わたし、わたし本当にあなたが好きなの! 斗真くんとは遊び! 反省してる、謝るから、お願い許してっ……!」


「婚約中の浮気の慰謝料の相場、知ってるか? 俺は知ってるよ、さっき調べた。引越しでだいぶ好き勝手に買い物してたよな。今のお前じゃ払えない。実家に泣きつくか? 婚約者の弟とヤってた尻拭いを、親にさせる気か?」


「ほ……本気じゃないよね? だってわたし達もうすぐ結婚するんだよ? 式場予約してるじゃん、どうするの? ドレスは? みんな結婚するって知ってるのに? こんなことで別れる気!? わたし、どうしたらいいのよ!?」


「……そうだな。残念だよ」


「あ……あ……」


 どこまで自分勝手な女なんだ。己の体裁ていさいしか考えていない。これが彼女の本性なのか? いままでの未来みくは、俺が好きになった彼女はなんだったんだ。



「お前もだ斗真。金、無いだろ。早く出てけ」


 斗真の視線が俺からそらされ、テーブルの上にむけられる。部屋の暗さに目が慣れて、月明かりを鈍く反射する包丁の存在に気付いたんだろう。何度かこちらとテーブルの交互に視線をやり、俺の本気を推し量っている様子だっだが、すぐに結論は出たようだ。


「……わかった」


「はあ!? わかったって何よ!? 出ていくわけないでしょ!? 私の家でもあるのよ!? ねえ、話し合おう? 大丈夫だから、ね? 絶対大丈夫だから!」


 なにが大丈夫なのかわからない。なにひとつ大丈夫じゃないんだよ。これはきっと俺への説得ではなく、未来みくが自分自身に言い聞かせている言葉なんだろう。



「はあ……」


 いつまでもゴネそうな未来みくの姿に嫌気が差し、寝室からバッグと服を回収してベランダから放り投げた。それを見て慌てて部屋から出て行く二人の背中を見送り、鍵とドアチェーンをかける。扉を背にずるずると座り込んで、深くため息を吐いた。


「朝イチで鍵かえて、あいつの荷物まとめて、式場のキャンセルに挨拶回り……。慰謝料いらねえは早まったかなぁ。どうせ本人が払えないのに、手続きとか、めんどくせえ」


 いつも優しく接してくれた未来みくの両親の姿を思い出す。彼らに負担をかけたいわけじゃない。本当に、なんてことをしてくれたんだろう。結婚なんて家族まで巻き込んだ一大イベントを前に、こんな愚かな真似を。いったいどれだけの人間に迷惑をかけることになるんだ。


「ああもう、疲れた……」






△△△







「――ヤ!アマヤ!!」


「んっ……」


 視界が真っ白になり、意識が戻りかける。エマの呼びかける声がする。


「また血が出てる、もうやめましょう! 」


「だめだっ、続けろエマ……」


 まだ、肝心なところを見ていない。二人をあの場で殺してない。じゃあ何があった? 俺は何をした? 昨夜のような激しい感情の揺れはない、まだ耐えられるはずた。集中しろ。戻れ。ぜんぶ見せてくれ。






△△△





 数日の休みをもらい出社すると、俺の暴力が原因での婚約破棄だと噂が広がっていた。赤く目を腫らした未来みくが恨めしそうに俺を睨む。どれだけ否定しようが彼女を信じる人間は消えなかった。しばらくすると未来みくは会社をやめ、陰口といやがらせだけが残った。少しの支えに縋りながら、なんとか自分を奮い立たせて毎日を過ごしていたある日、母からの着信があった。



「……あのね、斗真と未来みくさんがね……結婚するそうなのよ。妊娠してるんだって、いま四ヶ月」


 一瞬、俺の子かと最悪の考えが頭をよぎる。あの女との繋がりが切れないのかと、目の前が真っ暗になりそうだった。枕元のカレンダーに目をやり指折り計算してみると、未来みくと最後に行為を持ったのは半年以上前だ。何度か誘ってみても、仕事の引き継ぎや式の準備で疲れていると断られはじめた時期で、よく覚えている。結婚って大変だねと笑いあって、できるだけ彼女に負担のないよう努めていた。


 あれは単純に男が足りていただけだったんだな。でもよかった、俺の子じゃないのは確実だ。無意識に詰まっていた息を吐き出す。



「だからね、難しいとは思うんだけど……二人を許してあげなさい」


「…………許す?」


「起きたことはもうしょうがないじゃない。あんた叔父おじさんになるのよ? 甥っ子か姪っ子が産まれても、そんな態度でいるつもり?」


「……もう切るよ」


「ちょっと壮馬そうま、大人になりなさ――」



 この日、俺の中でなにか大事なものが壊れた気がする。あの女が家族になる。どうしようもない事実だけが積み上げられ、誰も俺の気持ちなんて気にもしない。なにをしても無駄だと、抵抗するのをやめた。








 俺が暗い顔ばかりして、ゴマもすれず、気も利かず、有益で愉快な話し相手じゃなくなったからだろう、取引先からは次々と担当の変更を打診された。いくらでも替えが効く営業の世界で、好感度を保てなくなった人間の末路なんて決まっている。営業成績の良さのおかげでなんとかパワハラ気質の上司をかわせていたのに、今の俺には会社に持ち帰る成果もなければ味方もいない。自分を守る術を失ってしまった。


佐島さじま! お前、またやらかしたな! これで何度目だと思ってるんだ?」


「申し訳ありません、森課長。次回は必ず——」


「次回? 次回なんてないんだよバカ野郎!お前に次回を考える資格なんてない! お前のせいでどれだけの損害が出たか、分かってんのか!?」


「……すみません、課長」


「すみませんじゃ済まないんだよ! お前なんのために会社にきてるんだ? お前がミスするたびに、俺の評価まで下がるんだよ! お前なんか必要ない! ただのお荷物がなめた口をきくな!」


「……本当に申し訳ありません」



 成績が落ちるにつれて叱責しっせき苛烈かれつを極めていき、人の仕事や責任を押し付けられ、サビ残と休日出勤が増えた。「いじめだろ」と笑う同僚の声を聞いて、ああ、これはいじめなのかと理解したが、その頃にはもう自分の立ち位置なんてどうでもよかった。頭にはつねにモヤがかかり、自分と世界の間には見えない厚い幕が垂れていて、もう俺はスポットライトを浴びていた人生の舞台から降ろされているのだと感じた。



 家に帰れば度数が高いだけの酒を煽り、朝まで気絶する日々を繰り返すようになった。現実を見ないようにもがけばもがくほど、目が覚めたときの辛さが増す。朝から床にうずくまり泣いて、鉛のように重い体を引きずり出社する。長くは続かないとわかっていた。








「はい」


 会社の屋上でぼんやりしているとき、つい相手を確認せず電話に出てしまった。数ヶ月ぶりに聞く母の声は明るかった。


「ああもう! やっと出た! 壮馬、産まれたわよ! 未来みくちゃん、きのう元気な双子を産んだのよ!」


 頭のモヤが急に晴れ、鋭利な現実が差し込まれる。


「斗真によく似た子でね、もう! 天使みたいにかわいいのよ!」


 俺と斗真は顔だけならよく似ている。斗真によく似た子なら、俺にも似ているということだ。未来みくとのあいだに産まれた、自分の面影を感じる子供を見て、俺は正常でいられるだろうか。自分が手にするはずだった幸せだと、彼らにこれ以上の憎しみを抱いたりしないだろうか。吐き気がした。足元がぐにゃぐにゃに歪み、息の仕方も忘れそうだ。


「会社は何時に終わるの? あした土曜日じゃない、病院に会いに来なさい。津ノつのぐち病院よ。あんただってこの子たちを見たら、これで良かったんだって、絶対に納得するから!」


 急いで通話終了の表示をタップする。これ以上は無理だ。これ以上は大きな感情に耐えられない。いまだって、もう、立っているのさえやっとなのに。






 その日の深夜、車を走らせて病院に向かった。真っ暗な、誰も走っていない田舎への山道だった。ただ、限界だったんだ。限界。それだけ。


 俺はアクセルを踏み込んで、ハンドルから手を離した。警告音が鳴り、カーブを曲がりきれずに車体が崖から投げ出される。浮遊感に似た怖気おぞけが全身に走ったあと、すぐに気がラクになった。恐怖を紛らわすために脳が意図的にバグをおこしたんだろう。


 体がシートベルトに引き寄せられて、内臓が上下に揺さぶられる。耳元で鋭い風切り音が響き、地面が迫る。嫌になるほど冷静にすべてをとらえていた。叩きつけられる衝撃と、轟音と、炎のなか、あの扉が開くのを見た。







△△△







「うっ……ぐ……うっ」


「アマヤ!」


 目を開くと、心配そうに覗きこんでくるエマに抱き止められていた。


「……誰も傷つけてない」


「……え?」


「よかった……未来みくも斗真も……、誰も傷つけてなかった」


「じゃあ……」


「俺が殺したのは自分だ……、自殺したんだ。よかった……本当に……よかった」


「……アマヤ……」



 涙が止まらなかった。未来みくと斗真を傷つけていないことへの安堵と……あの地獄の日々から逃げきれた安堵の涙だった。

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