朝方には雨が降った。眠れずに、止むまでずっと窓の外を見ていた。仕事の支度をする時間になると、スタッフの一人が今日は休めと伝えに来た。エマか、おばば様か、どちらかが気を回したんだろう。
布団の上に座り、一日中きのう見た光景を思い出していた。激しい怒りのあとには、ひたすら
浮気のショックだけでも耐えがたいのに、未来と弟を殺す場面を見ることになるかもしれない。勝手に涙が流れては、無力感でいっぱいになる。俺は本当に人殺しなんだろうか。あの怒りを経験してしまった以上、完全に否定することができない。
「ちょっとアマヤぁ? 」
ルリさんの声だ。いつのまにか、入口の前に立っている。まったく気付かなかった。もう昼休憩の時間か。誰とも話す気分じゃないし、居留守を使いたいが、この人はどっちにしろ戸を開けるだろう。
「今日は休みだって聞いたんだけど! 急になんなの? アンタなんかが一人でなにして過ごすのよ。どうせならアタシと休みを合わせなさ――」
騒々しくまくしたてる声とともに、戸が敷居を滑り、いつも通り着飾ったルリさんが現れる。布団の上に座る俺を見下ろし、目を丸くした。
「ひっどい顔。それになに? その怪我」
「関係ないだろ」
「……消毒くらいしなさいよ、バカ」
ルリさんはそのまま許可もとらず部屋に上がりこむと、戸を閉め、
「ルリさん。あんたも、俺があの森の扉から出てきたって、気付いてたのか」
「……気付いてなかったわよ。最初はね。おばばが、そうじゃないかって。ほら、年寄りのほうが昔ばなしに詳しいから」
傷に軟膏を塗りながら、ルリさんがうつむいた俺の顔を覗きこむ。
「……やっぱり、召喚されてきたの? あの扉が最後に開いたのって、300年くらい前らしいわよ。貴重品じゃない、アンタ」
「人殺しが召喚されてくる扉があるから、みんなあの森が嫌いなんだな」
「……昔はそうだったかもね」
手当てを済ませて道具をしまい、木箱を布団の端に寄せたルリさんが、瞬きもせずに俺を見つめている。ネコ族の子どもたちもよくやる仕草だ。興味の対象から目をそらせないらしい。じっと見られていると心のうちまで読み取られてしまいそうで、まぶたを伏せた。
「俺……覚えてないだけで、婚約者と弟を殺したかもしれないんだ」
「……バカバカしい。そんなわけないでしょ。アンタに人を殺す度胸なんてないわよ」
「なんで言い切れるんだよ。俺のこと、何もしらないだろ。あいつら浮気してたんだ、殺しててもおかしくない」
「うるっさいわね。ここに来てからのアンタを見てるから言ってんのよ。アタシは人を見る目があるの、口ごたえしてんじゃないわよ」
俺もルリさんも静かに睨み合っていたが、一息つき、どちらともなく視線をそらせた。べつに言い争いたいわけじゃない。争うどころか彼女は、口は悪いけれどずっと俺を励ましている。
「ヘリオンの扉から出てきたから何よ。べつに良いじゃない。……昔ばなしを信じるくらいなら、アタシは今のアンタを信じるわよ」
「…………」
「なに落ち込んでるの。自分じゃどうしようもないことだって、たくさんあるの。しっかりしなさい」
「……うん」
「もう……そんな顔しないでよ」
ふわふわの耳と眉を下げて困りきった表情をしたルリさんが、そっと身を寄せてくる。膝立ちになると俺の頭をかかえこむようにして抱きしめた。温かな首筋と胸元から桜の甘い香りが匂い立つ。しばらくそのまま抱かれていると、固くなっていた心がほぐれていくような気がした。この世界にきて、こんなふうに安らぎを感じたのは初めてかもしれない。目を瞑って頬をすり寄せる。
「抱きしめられると安心するわよね」
「……うん」
「ねえ、なぐさめて欲しい?」
布団の上で男女二人きり。ルリさんの声色から「なぐさめ」がなにを意味するのか察して、鼓動が高鳴る。このまま彼女の柔らかな胸に顔を埋めて、布団になだれ込んでしまいたい。この人を組み敷いて、ままならない感情を発散できたら、そうしたら、どんなに気が晴れるだろうか。でもそれは一時的なものだ。俺を信じると言ってくれた彼女を、そんな風に利用するわけにはいかない。
「……いい。これで充分。ありがとう、ルリさん」
「アタシの誘いを断るなんて、バカね。二度はないわよ」
「わかってる。ほんとバカだよ」
ルリさんの小さな笑い声がして、自然と俺も笑みを浮かべることができた。
「……ん?」
「なに、ルリさ――」
ルリさんが顔を上げ、入口の引き戸を見ている。彼女が閉めたはずの入口の引き戸が10cmほど開いていた。あんな隙間、さっきは無かったはずだ。
「あっ! キヨとミヨ!!」
「えっ!?」
「アマヤのすけべーー!」
「アマヤのよわむしーー!」
途端に、明るい声と廊下を走っていく二つの足音が響く。
「まったく……。覗いてたわね」
「すけべ……よわむし……」
「まあ、気にかけてるのは私だけじゃないって事よ。良かったわね」
ルリさんは気にも止めていなかったが、いい歳をした男が女性に甘えているシーンを見られたのはダメージがでかい。しかも子供に。あとで何かしらのご機嫌とりをして忘れてもらわなければ……。というか、ますます手を出さなくて良かった。自分の理性強さを褒めてやりたい。
「じゃあ、仕事に戻るわアタシ」
ルリさんが立ち上がって着物を整えだした。名残惜しさを感じつつ、見送るために俺も重い腰をあげる。
「うん、頑張って。ありがとな、ルリさん」
「アンタはなにか食べて、さっさと寝ちゃいなさい。考えすぎてもどうにもならないんだから」
「……そうするよ」
彼女が優しく微笑むと、少しだけ心が軽くなるように感じた。いま俺がどんなに考え込んだところで状況が良くなるとは思えない。エマが迎えにくるまで、無理にでも眠ってしまおう。少しでも体力を回復して、頭の中をこじ開けてくるあの魔法に耐えられるようにしよう。逃げ出したいほどの恐怖が心を覆いそうになる。でも大丈夫だ、ルリさんのおかげで少し前向きに考えられるようになっている。今は、眠ることで自分を守るしかない。そう決めた。
ルリさんの背中を見送ったあと、食堂に向かい簡単な食事を取った。食べることで少しでも力をつけようと決心し、一口一口を大切に味わった。食事を終えて部屋に戻り、布団に身を投げ出すと疲労感が一気に押し寄せてくる。目を閉じ、浮かんでくる