「ねえ、それ……本当に大丈夫?」
俺とエマは夜鳴きの一階にある食堂で遅めの昼食をとっていた。
盛大に喰らった右ストレートでしばらく鼻血が止まらず、飛んできた従業員たちに介抱されていたが、その間にルリさんは落ち着きを取り戻したようでエマと言葉を交わし、また二階へと引き上げていった。
「大丈夫だよ、折れてなくて良かった。それにしてもいいパンチだったな」
「ルリさん、酔っぱらいを殴り慣れてるから……」
「ははは」
夜鳴きの食堂は、昼下がりの陽光がやさしく窓から差し込んでいて、明るく開放的な雰囲気だった。エマは窓際の席がお気に入りらしく、中に入るなり迷わずこのテーブルに座った。木製のテーブルと椅子が心地よいノスタルジアを醸し出している。
店内は和やかな笑い声と食器が触れ合う音が心地よく響き、カウンター越しに、白いエプロン姿の笑顔の絶えない料理人が、客との会話を楽しみながら料理を仕上げていた。
俺たちの前にあるのは「今日のおすすめ」と貼り出されていた、特製オムライスだ。黄金色に輝くふわふわの卵がライスを包み込み、トマトソースの香りが食欲をそそる。エマがナイフを入れると中からチキンライスが溢れ出し、一口食べたあと二人で感嘆の声を上げた。
「うっっまい!」
「本当、おいしい」
頬をおさえ、うっとりとした表情でオムライスを頬張るエマはまるで子供のようだった。驚いたことに、この数日で林檎しか口にしていない空腹状態の俺よりも食べるスピードが早く、ナプキンで口を拭うとまた真剣な顔でメニューを見始めた。
「餃子も美味しいの、食べられそう?」
「ああ、うん。いけるよ」
オムライスもまだ半分ほどしか食べていなかったが、おすすめされたら
「エマって食いしん坊だったりする?」
「食べるのが好きなの」
彼女のシンプルな答えに笑いが込み上げた、それを抑えつつ俺はオムライスを食べ進めながら餃子を待つことにする。しばらくすると熱々の焼き餃子が次々と運ばれ、ごま油の香ばしい香りがあたり一面に広がった。薄い皮がパリッと焼き上がり、箸をいれると中からはジューシーな肉汁が溢れ出す。エマが一口頬張り、目を輝かせた。
「本当に絶品。アマヤも、早く食べてみて」
うながされ、俺も同じように餃子を頬張る。ああたしかに、これはうまい!無言で二つ、三つと手を伸ばす俺を見て、エマは満足そうに笑った。
***
「はー。食った。腹いっぱい。うまかったー」
デザートのみたらし団子を食べ終え、緑茶をすするエマも満足そうだ。
「お腹も満たされたし、あなたのこと、それと、これからのことを少し話しましょう」
「……うん」
ついに来たか。このおだやかな時間が壊れてしまうのは惜しいけど、俺はもうすべて正直に話すことを決意している。信じてもらえなくても、変人だと笑われても、逃げ出して迷惑をかけるような真似はもうしない。
「エマは、俺が記憶喪失だって、信じてないよな?」
「ええ」
その答えは予想通りだったが、それでも聞くべきだと思った。彼女の表情には、疑念と、それから不安が交錯しているように見えた。
「それはどうして?」
「……そうね。なにか……不自然なのよ。町のことや魔法のことを覚えてない。家族のことを探したり話したりもしない……。それに、モンスターの存在にも驚いてたわよね? 何かを忘れているというより、大事なことを最初から知らないみたいで……」
鋭いな。さすがエマだ。でも、鋭すぎる。今の彼女はまるで「俺がこの世界の人間じゃない」ことを結論づけたいかのように答えを出そうとしている。俺の知らない何かを知っているんだ。
「エマ、俺は目覚めたら扉の前にいた」
「!」
「扉といっても……丸かったし、古かったし、ああ、あと浮いてたし。こちら側からは開かないようだったよ。どこかで開いたのを見た気はするんだ、でもいつどこでだったかは覚えてない」
「とびら……」
心なしか、エマの顔色が青ざめている。うつむき気味なのでよく見えない。
「どうして森にいるのかわからなくて、必死で下りてきて、この町についた。驚いたよ、鎧を着てる人がいたり、トカゲ人間がいたり、ネコ族の子達や、君みたいなツノの生えた子も、はじめて見た。ここは俺の住んでいる世界と違うみたいなんだ」
「……異世界」
「うん。異世界だよな、きっと。そう気付いたら、どうやって帰るんだとか、恋人とはもう会えないのかとか、いろいろ考えて途方に暮れてさ。そのときシキヤさんとランさんに声をかけられたんだ。で、名前を思い出せないことにパニックになって逃げ出した」
「力は……?」
「ん?」
震えるような、小さな声でエマが聞いてくる。なんなんだこの反応。信じてくれないだろうとは考えていたが、これは違う。エマは俺が異世界から来たことを信じている。信じたうえで、何かを疑っている。警戒されている。彼女のまわりの空気が張り詰めているのを感じる。
「力ってなんの?」
「……目覚めたとき、あなたは一人だったの?」
「うん。誰もいなかったよ」
「そう……、そうよね……だって、あなた……小屋で……」
「エマ、何を知ってるんだ? 君は俺より状況をわかってるみたいだ。教えてくれないか?」
俺をおいてぶつぶつと呟くエマを見て、妙に苛立つ。エマの表情に浮かんでいるのは恐れだ。爪が食い込むくらい拳を握りしめて、怒りがエマに向いてしまわないように耐える。なんなんだ。なんなんだよ。こんなふうに怖がられてしまうくらいなら、信じてもらえないほうが、笑われたほうがずっとマシだ。
「エマ……」
「……言ったでしょう。まだ、確証はないの」
たしかに、町までの道中でそんなことを言っていた気がする。名前をつけてくれたときだ。まだ一日も経っていないのに、あの瞬間が無性に恋しく感じる。
「私、調べものをしてくる」
「エマ、頼む。逃げないでくれ」
席から立ち上がったエマの手首を、咄嗟に掴んだ。ビクリと大きく肩を震わせたあと、深呼吸をして、炎のような紅い瞳で真正面からしっかりと俺の目を見つめ返してきた。
「誰に向かって言ってるのよ、私より弱いくせに」
「エマ……?」
「言葉が悪くてごめんなさい。でも逃げないわ、戻ってくるわよ。あなたなんて怖くないんだから」
「……うん」
あたりまえだ、エマを怖がらせるようなこと、俺がするわけがない。可能性もない。
「だってあなた、あの小屋で死んでたのよ」
「……は?」
「あんなザコにやられて死ぬ人なんて、怖くない! じゃあ行ってきます!」
俺の手を振りはらい、ポニーテールをなびかせて出口に歩いて行く。なんて言った? 俺が死んでた? じゃあ今はなんなんだ? ゾンビか?
「エマ、待って――」
「お代は部屋につけてるから心配しないで! あと、しばらく雑用係! 詳細はルリさんに聞いて!」
違う! そうじゃない。手を伸ばしたが遅く、エマは早足で出口を抜けていってしまった。調べものとやらが終わるまで、まともに話すのは難しそうだ。しばらく呆然としていたが、どうせ一人じゃ何もいい案は思いつかない。食器を片付け、食堂をでる。
「見つけた」
「見つけたー!」
突然、明るい声が場の空気を変えた。自然と顔がほころび、二人の姿を探す。
「キヨちゃん、ミヨちゃん……!」
「ルリが呼んでる」
「ルリが呼んでるよ!雑用!」