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第9話 アマヤ

 町に戻るシキヤ、キヨちゃん、ミヨちゃんを見送ったあと、エマは考え込むように無言になってしまった。聞きたいことは山ほどあるが、なんとなく彼女の考えを邪魔しちゃいけない気がして、水田や空を見ながら静かに歩く。



「町につく前に、話しておきたいことがあるの」


「えっ、な、何?」


 唐突にエマが口を開いたので少し驚く。ちょうど、水田の真ん中あたりにいる白い大きな鳥の種類がなんなのかを考え始めていたところだった。エマは真剣な目をしていたので、俺もすぐに鳥から気持ちを切り替える。


「あのね、まだ確証はないんだけど……」


「うん?」


「名前を覚えていないこと、周りにはまだ言わないほうがいいと思う」


「なんで? 記憶喪失ってやっぱり怪しいか?」


「そうね、それもあるんだけどそうじゃなくて……。あの森から来たってことがね、ちょっと、気になってて……」


 なにかの結果を出すのをためらっているような、決断を先延ばしにしているような……いままでのエマらしくない歯切れの悪い物言いだ。少し戸惑いながらも俺はうなずいた。エマはもしかして、あの扉のことをなにか知っているのかもしれない。確証はない、らしいが。



「私、すこし調べたいことがあるの。だからしばらく、周りには偽名……というと心証が悪いんだけえど……。そうね、その、仮の名前を名乗るのはどうかしら」


 エマの困った顔を見たくなかったし、名前がないことに不便さを感じていた俺としては何の文句もない提案だった。


「ああ。いいと思う」


「そう……。えっと、じゃあ希望はある? なんて呼んで欲しい?」


「希望か……」


 なんというか単純に、人前で自分の名前を自分でつけるというのが恥ずかしい。モニター越しのハンドルネームならいくらでも思いつくんだけど。エマにどう思われるかと、自意識過剰になってしまっている。これはきつい。



「う、うーん……。なんでも良いんだけけど、パッとは思いつかないな。ははは……」


「仮なんだし。深く考えずに覚えやすいものでいいのよ」


「うーーん……。エマ、一緒に何か考えてくれないか? 浮いてなくて、何か俺にちなんだ覚えやすい名前……」


 無茶ぶりだとわかってはいるが、俺は自意識に負けてしまい、エマに命名権をぶん投げた。それに真面目そうな彼女なら、真剣に考えてくれると思ったからだ。


「そうね……。うーん。あなたにちなんだ名前と言っても、私、あなたのことぜんぜん知らないのよね……」


「たしかに」


「あまり適当な名前をつけて、呼ばれて反応できなかったら困るわよね、余計に怪しさが増しちゃうし」


 予想通り、エマは俺の仮の名前について真剣に考えだしてくれた。俺も考えるふりをして唸ってみたり首をかしげてみたりするが、ここは彼女にすべて任せよう。申し訳ないが、二十七歳の大の男が考えた「紅蓮ぐれん ほむら」や「闇月やみづき 狼牙ろうが」などの厨二病ネームを実際に口に出すわけにはいかないのだ。


「あっ!」


 エマが手を叩き、明るい表情を浮かべた。いい案が浮かんだようだ。


「モリさん! モリさんはどうかしら、すごくあなたにちなんでいると思うわ!」


「モリ……。森か! 森さんか! ごめんちょっと他ので頼む! あんまりいい思い出がなくて!!」


「あっ、そ、そうよね。あなたあんな目にあってたものね……」


 『森』もちろんあの森での苦しい出来事を思い出すという理由もあるのだが、なぜだが本能的に否定の言葉がでてしまった。ノイズがかかったようなスーツ姿の男性の姿が脳裏に浮かび、グッと吐き気が込み上げる。他に選択肢があるのなら、避けたい。


「ちょ、ちょっと大丈夫? ごめんなさい辛いことを思い出させたのね、えっとじゃあ……」


「いや……これは、違――」


「アマヤ!」


 エマが空を指さす。その声は、言葉は、俺の心にストンと落ちてきて、はじめからそこにあったピースかのように馴染んだ。


「雨の夜。あなたをはじめて見つけた日よ!」


「アマヤ。雨夜か……」


「あっ……!これも良くないかしら、あなたあの大雨の中で遭難してたのよね?」


 さきほどのように俺が青ざめることを心配したのか、慌てだしたエマを制すように、笑顔を返した。


「たしかに遭難はしたけど……エマと、キヨちゃん、ミヨちゃんに見つけてもらって、助けられた日だ。いい名前だと思う。決めたよ、ありがとう」


「そう……?そうね、よかった」


 エマは自分の案が採用されたことが嬉しいのか、少し照れたように長いポニーテールを手ぐしでといて、はにかんだ。

 森をぬけて子供たちを無事に帰し、気が抜けてきたのか彼女はだいぶ年相応のリアクションを見せてきている。きっと根がすごくいい子なんだろうな。


「アマヤ」


「ん?」


「町につくまでに呼ばれ慣れとかなきゃ」


「ははっ。そうだね。じゃあ、もっと呼んでくれ」


「アマヤ」


「はい」


 エマが数歩先を歩きながら何度も新しい名前を呼び、そのたびに俺は返事をする。もうずっと前に過ぎ去った青春の一ページのようだ。照れくささを感じたが、そのやり取りはどこか心地よかった。名前を口にされるたびに、エマとの距離が近づくような気がする。



「町に着いたら、荷物を置きに夜鳴きに寄るわ。あそこが緑風町リョクフウマチでの私の宿なの。もうキヨちゃん、ミヨちゃんも着いているはずよ」


「ああ! あの二人は夜鳴きの子なのか?」


「ええ。学校に行ったり友達と遊んだりしながら、たまにお店のお手伝いもしてるわよ」


 なるほど、夜鳴きの子なら、あの綺麗な服装も納得だ。俺に手ぬぐいをくれた猫耳の女性と似たような華やかさだった。


「食堂で食事をしたら、宿の人にあなたを任せて、私は図書館に行くから」


「ん、宿の人に任せて……?」


「うん。シキヤさん、自分のところに来いって言ってたでしょ?でも、詰所でたくさんのお役人さんに囲まれるのは大変そうだから。宿まで来てもらえるようお願いするわ。私が同席できたらいいんだけど……あまり迂闊うかつなことは話さないようにしてね」


「……なにからなにまで、ありがとうエマ」


 迂闊なこととは、どこまでのことなんだろうか。シキヤとランさんに、森の扉のことや俺がこの世界の住人じゃないことを伝えるのは、先にエマに話してからがの方がよさそうだ。



 町が近づくにつれて、心の中にわずかに不安がよぎる。でも、エマの隣で歩き続けるうちに少しずつ前向きな気持ちが芽生えていた。この世界で、俺はもう名前を手に入れたんだ。迷惑をかけてしまったことを謝って、めげずに帰る方法を探そう。俺にいまできることはそれだけだ。






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