「――きて」
「――きて、――いちゃん」
「――かしい――ねぇ」
誰だろ、この声。女の子……かな? それになんだろう、これ。暖かい、気持ちいい。
「きい――?」
「きいて――?ま――?」
「うーん?――はず」
体が、軽い。ふしぎだ、痛くない。俺は……そうだ蛇女と小屋に。この子たち、中に入ってきちゃったのか?それとも、俺が彼女たちの住む天国にきてしまった……?
「……はっ!!」
急激に意識が浮上し、目が覚めた。
見慣れない古びた木製の天井。そして両サイドから覗き込む七、八歳くらいの色鮮やかな着物を着た女の子。二人とも綺麗な金色の巻き毛で、こぼれそうなくらい大きな青い目で俺を見下ろしている。頭には、町で見かけた女性のように、ふわふわした猫耳が生えていた。雨に降られたのか、全身びしょ濡れになっている。
「おきた!」
「おきた! おにいちゃん!」
「ほら、大丈夫だって言ったじゃない」
少女たちとは別の女の子の声が頭上から聞こえ、体を起こして確かめようとして、気づいた。体中についていた傷も、疲労感も消えて無くなっている。
場所は、きっとあの小屋の中だ。確実にそうだと言えないのは、俺がこの部屋の内装を知らないからだ。さっきまで真っ暗だった。いまは小屋のなか全体が明るく照らされている、だが、光源がどこにあるのかわからない。引き戸であることと、カビ混じりの湿った木の匂いだけが同じ小屋だと判断できる材料だった。
「すごい!」
「すごい!お姉ちゃん!」
振り向くと少女たちよりも歳上の、十代なかばくらいの女の子が、両手で髪の毛の水気をしぼりながら座ってこちらを見ていた。
眉にかかる前髪の隙間から二本のツノが生えている。床につくほど長い黒髪をポニーテールにして、黒いシャツの上から赤い
「ありがとう。でもいまのはみんなに秘密よ?」
猫耳の少女たちは身を乗りだしながらキラキラした目でツノの女の子を見つめ、ツノの女の子は照れたように唇に人差し指を当てて「しーっ」と囁いた。俺が起きる前になにやら秘密にしたいような出来事があったらしい。
状況の把握に少し気を取られていたが、すぐにあの蛇女の姿がはっきりと脳裏に蘇ってくる。
そうだ、あいつはどこに行ったんだ。かすかにだが、まだあの生臭いイヤな臭いがする。近くで様子を見ているのか?この子たちも誘導されてきてしまったのかもしれない。
「き、君たち、どうやってここに? 外の蛇女は!? ここはすごく危ないんだ!! 早く逃げたほうがいい!!」
「死んでる」
「死んでる、外で」
「死ん……え?」
「あれなら退治したわよ。外、見てみたら?」
女の子たちは三人とも平然としていて、うろたえて早口でまくしたてる俺を不思議そうな顔で見ている。
「外……?」
死んでる……? 退治した……? あの巨大で恐ろしい蛇女を? にわかには信じられない。ちいさなメスの蛇じゃないんだぞ。立ち上がり、引き戸の前に立つ。あの顔を思い出すだけで、手が震えそうだった。深呼吸をして戸に手をかけ、ゆっくりと引く。引き戸はわずかな抵抗を見せながらも、静かに開いた。
湿った土の匂いと、鉄のような匂いが鼻をつき、冷たい空気が部屋の中に流れ込んでくる。俺を苦しめ続けた激しい雷雨は小雨に変わっていて、視界を遮るほどの霧が立ち込めていた。朝なのか昼なのかわからないが、あたりはうっすらと明るくて、生き物のようにうごめく霧が晴れてくると、徐々に
「っう……!」
蛇女は無数の断片に切り刻まれ、ぬかるんだ地面に散らばっていた。まぎれもなくあの女で、疑いようもなく死体だった。断片の間には血の混ざった水たまりができており、腐臭と鉄の匂いを漂わせている。ちょうど戸を向くように転がる首は青く、大きな目は光を失い、口は顎が外れそうなほどに開いて二股になった舌が飛び出していた。
蛇女の切り口は鋭利な刃物で一刀両断にされたように整っている。滑らかで、ブレのようなものが一切見られない。その正確さと力強さはとても人間業とは思えなかった。どれだけの力と技術がいるのか想像もつかない。これを、あの女の子がやったのか?
「安心した?」
背中から声をかけられ、急いで小屋の中に戻り戸を閉めた。あんなの、ずっと見ていたいものじゃない。
「蛇女は、本当に……君が殺したのか?」
ツノの女の子は持ち物から林檎を取りだし、小さなナイフで器用に皮を剥き始めている最中だった。それを見て思い出したように腹が鳴る。
「ええ。私が殺した。これ食べる?」
「あ、ありがとう!!」
林檎を差し出され、食い気味に答えてしまった。恥ずかしい、が、体は正直だ。いまは食べられるものならなんだって食べたい。
「お腹すいてるわよね。何日ここにいたかわかる?」
「んっ、知らない。三、四日は……いた気がするけど……」
「十日よ」
「え!?」
「あなたが森に向かってから十日経ってる」
「十日も……。俺、よく生きてたな……」
「…………」
彼女の紅い瞳が、じっと俺を
「ちなみにあれは濡女。この地方の川の近くに棲息しているモンスターよ。大雨が続いたせいで活動範囲が広がったみたい」
「ぬれおんな……モンスター……」
聞きなれない単語の連続。そうか、ここはモンスターが存在する世界なのか。
「はい、キヨちゃんとミヨちゃんのぶん」
「わーい」
「わーい、りんごー」
キヨちゃん、ミヨちゃんと呼ばれた猫耳の少女たちが林檎に飛びつく。すごくかわいい。異世界にいて、外にはモンスターの死体が転がっているこんな状況だが、ふと口元が緩む。
「もっと剥く?」
「い、いいのかな……俺、払えるもの、持ってなくて」
「これは善意よ。食べたいの? いらないの? どっち?」
「食べたいです」
また器用にナイフを操る。この子の名前はなんだろう。聞きたいことはたくさんあるが、まずはそれからだろう。名前……聞いてもいいのだろうか。
「あの、君の名前、聞いてもいいかな?」
「……あなたの名前を聞いたら、答えられるの?」
「えっ……」
一瞬、林檎から俺へと視線をうつし、彼女がたずねかえしてきた。
「ごめん。俺、自分の名前を覚えてないみたいなんだ。だから答えられないよ」
町でランさんに聞かれた時とは違う。落ちついて答えられた。彼女の落ちついた雰囲気のおかげか、なぜか正直に話してみようという気になれたのだ。
「名前を覚えてない? 記憶喪失なの?」
彼女は今度は顔を上げて、目を大きくまたたかせ、少し驚いたような表情をしている。
「……よく、わからない」
覚えていることと、覚えていないことと、思い出したことがある。でも、「よくわからない」というのも嘘じゃない。
「怪しいわね」
剥き終わった林檎を俺に差し出し、彼女が言う。無理もない。逆の立場なら、俺だって同じことを思う。
「私はエマよ。エマ・リュウエン。よろしく不審者さん」
「不審者」
「不審者ー!」
キャーとはしゃいだ声をあげてキヨちゃんとミヨちゃんが俺のまわりを飛び跳ねはじめた。エマと名乗った彼女はその様子を見てクスリと笑い、布でナイフを拭きはじめる。
「……よろしく、エマ」
受け取った林檎にかじりつきながら、これは少なくとも嫌われているわけじゃない、と自分を納得させることにした。