エレベーターが到着したことを知らせる電子音が鳴り、中に乗りこむ。目的地の七階のパネルを押し、スマホを取りだしてメッセージアプリを開いた。「今日は早く帰るよ」にまだ既読はついていない。
「サプライズになっちゃいそうだな」
風呂にでも入ってるのかと特に気にせず、スマホをポケットにしまう。
「七階です。ドアが開きます」
電子音声に促され、鞄の中の鍵を探しながらエレベーターから降りた。自宅のドアの前に立ち、インターホンを鳴らそうかと人差し指を持ちあげて、自分の家でもあるんだしなと思い直してやめた。未来がまだメッセージを読んでいないのなら、ちょっとしたサプライズのまま進めようと、少し楽しくなっていた。
鍵を差し込み静かにドアを開ける。玄関は真っ暗だ。てっきり、いつものオレンジ色の暖かな光に迎えられると思っていた俺は拍子抜けしてしまう。
「まだ八時だよな……もう寝た?」
音を立てないようにドアを閉めて、靴を脱ぎ、玄関と同じく真っ暗なキッチンまで歩みを進める。換気扇のライトだけをつけて、ダイニングテーブルの上に鞄を置き、ジャケットを脱いで椅子にかけた。
(――――――耳障りな音がする)
リビングのカーテンは閉じられておらず、月明かりが濃い影を作りながら室内を照らしていた。テーブルの上に未来のスマホが置かれていて、着信や未読のメッセージを知らせる背面のLEDライトが点滅している。やっぱり俺からのメッセージはまだ読まれていない。
(――――――耳障りな音がする)
「寝てるんだな」
小さく呟き、寝室のドアの前に立った。ドアの下の僅かな隙間から、ベッド横のサイドテーブルに置いてあるランプの明かりが漏れている。
(――――――耳障りな音がする)
震える手でドアノブに手をかけて、静かに押し開いた。
△△△
また、意識が飛んでしまったみたいだ。森に逃げ込みどれくらいの時間が経っただろう。振り続ける大雨のせいで時間と方向の感覚が狂い、持ち物を探すどころではなくなってしまった。
「ゲホッ、ゲホッ」
何度もやってくる空腹感の波から察するに、一日か二日は経っている気がする。寒い。雨の中を歩き続けたせいか、いつのまにか咳も止まらなくなっていた。
木々の葉っぱのひとつひとつがザアザアと不規則なリズムで揺れて、森全体が激しい雨音に飲み込まれていた。踏み入れるたびにずぶずぶと沈むぬかるみに足を取られ、片方の靴を無くしてしまった。遠くからは荒れた水の流れのようなものが聞こえた。どこかに川があり、氾濫しているのかもしれない。濁流が迫りくる不穏な予感に、早くこの場を離れたいと気が焦る。
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ」
持ち物のために森に入ったが、この雨と暗さの中では扉があった場所に辿り着くことすら出来ない。深みにハマってしまったと気付いたときには町に戻る方向も分からなくなっていて、ただ震える体を引きずり彷徨い続けている。すぐに町への道を見つけることができたあの日の俺は、幸運なだけだった。本当に愚かだ。町でも、もっとうまく助けを求める方法があったかもしれないのに。後悔ばかりが
「はぁ……寒っ……」
休憩しようと木の根元に腰をおろす。一眠りしたくても、葉の隙間を突き抜けた冷たい雨粒が体中を打ち付け、容赦なく意識を覚醒させてしまう。ただでさえ暗く不気味な森だったけれど、雨がその陰鬱さをさらに増幅させていた。何かにずっと見られていて、圧倒的な力に支配されている。逃れられない運命の中にいるような気分だった。心細さに涙がにじみ鼻をすする。
――どおん!
また、近くに雷が落ちた。体は驚いて反射的に跳ね上がるが、雷鳴にはもう慣れてきていた。むしろ雷はありがたい。稲妻が一瞬の明るさをもたらすのだ。暗い森の中で、この一瞬だけ数十メートル先になにがあるのか確認できる。
「あ……やった、嘘だろ……」
目の中にまで刺さる雨を両手で必死にガードしながら、遠くに見えた光景に信じられない思いで立ちつくす。小屋だった、まちがいなく見えた。数十メートル先に小屋が立っていた。 あたりは再び闇に包まれていたが、あの小屋にさえ辿りつければ安全だ。雨風をしのいで体を休めることができる。食料は期待できなくても、眠ることさえできれば十分だ。
「よし……、よし……!」
疲れ果てた体をひきずり、小屋の見えた方向に歩きだす。泥水に一歩足を踏み入れた、その時だった。
『ズルルル……』
何か大きなものを引きずるような音が、雨音に混ざって聞こえた気がする。
「なんだ……?」
ずっと森の中でいろいろな音を聞いていたが、こんな音は、はじめてだ。しばらく耳を澄ませてみたけれど、もう聞こえない。気のせいかと再び歩き出す。
『パキッ……ズルル』
枝が割れる音に、何かを引きずる音。気のせいじゃない。背筋がゾッと粟立った。はっきりと視線を感じる。もう隠す気もないようで、こちらの様子を伺いながら動いている。
「……っ、ゲホ、ゲホッ」
町の人が話していた「良くないもの」の存在が頭をよぎった。いやまさか。でも、猫娘にトカゲ人間にケンタウロス、まさかの存在ならもう見ただろ。
『ズッ……ズルルル』
まずい、あきらかに近づいてきている。何も見えない! 相手からは見えているのか? どうしたらいい?
「……っ」
その場にしゃがみこみ、手探りで地面を探る。手頃な枝を持ち上げて構えた。
「近づくなよ! ゲホッ、容赦しないぞ!」
精一杯に声を張り上げて威嚇してみる。野生動物なら
「チ……ち……ちかヅくなヨ……よ……うふふ」
「ひっ……!」
なんだ!? しゃべった!? 人間なのか!? 一気に得体の知れない恐怖が体を這い上がってくる。小屋に向かって一気に走った。木にぶつかり、ぬかるみに足をとられ、何度も転んで尻もちをついたが、じっとしてなんていられなかった。その間にも引きずる音はどんどん近づいてくる。この音はなんなんだ? 誰が何をひきずってるんだよ!?
「ゲホッ、ハァッ、ゴホッ、ゴホ」
「ダァぁぁあいじょウぶ――?……ふふふ……ゲホッ……うふふ」
『バキッ!ボギッ!』
背後から木をなぎ倒すような音がして、ぬかるみを滑るように急激に距離をつめてきているのがわかった。相手は俺をおちょくるようにかん高い笑い声をあげている。こんなにおぞましい声は聞いたことがない。
「っう、なんだ、この匂い……!」
周囲に生臭い匂いが充満してきた。腐った肉のような、鋭い酸っぱさと獣臭が混ざったような匂いだ。耐えられず腕で鼻を覆う。いよいよ命の危機を感じはじめたとき、天の恵みか、空に閃光が走った。稲光だ。小屋がすぐ目の前に見える。よかった! 間に合うぞ!
扉に指が触れた瞬間、俺は一瞬だけ振り向いてしまった。どうしも、自分を追い詰めているものの正体が知りたかった。
「ふふふ……あはハはは」
高笑いしていたのは女だった。濡れた髪の毛が張りついた顔は生白く、口は耳元まで裂けていて、鋭利に尖った牙が何本も覗いている。首から下は……蛇だ。アンバランスに生えた二本の細い腕が妙にグロテスクに見えた。
「アははハハは!」
木々をなぎ倒しながら、恐ろしく太く長い蛇の体をひきずる、女の顔をした化け物が迫ってきていた。