結論をだしてしまった途端、俺はその場にへたり込んでしまった。膝が震え、言うことを聞いてくれない。ポツリ、とまた小さな水滴が顔に落ちる。
「俺が何したっていうんだ、冗談だろ」
この状態はいつまで続くんだ? あした目覚めたら現実に戻っているのか? じゃなきゃどうなるんだよ。仕事は? 生活は?
「おい」
それにこういうのって、漫画やアニメだと誰かに召喚されてたりするだろ? 俺のまわりには誰もいなかったぞ!? 説明キャラはどこだよ、不親切にも程があるんじゃないか!? まて、じゃあ森のあれは異世界に繋がる扉だった? 離れて良かったのか? また開けば向こうに戻れるんじゃないか?
「おい、お前」
いやでも見ただろあれ、開くための仕掛けなんてどこにもなかったよな。こちら側からは開けられない仕組み? 呪文とか魔法とかそういうのが必要なのか? じゃあ、探すのは魔法使いか!? ふざけんなよそんないるのかどうかもわからないもん!
「おい、お前!!!!」
「なんだよ!?」
「ああ!? なんだよとはなんだ、てめえ!」
しまった、自問自答の深みにはまってしまっていた。ああクソ、こんなのありか。俺の目の前には筋骨隆々の巨大な体躯をもつ、首から下は人間、首から上は牛の姿をした人物が立っていた。どこからどう見てもミノタウロスだ。格好いい。彼は俺の態度にずいぶんお怒りの様子で、額に血管を浮かせ、荒い鼻息で鼻孔を膨らませている。八つ裂きにされるかもしれない。迷宮の底にいるんじゃなかったのかよ。なんでよりによって俺の前にいるんだ。
「まあまあ、ランさん落ちついて」
「とめるなシキヤ! こいつは口の利き方がなってねえ!」
「はいはい。君、具合でも悪い? こないなところで座り込んでどないした?」
ランさんと呼ばれたミノタウロスの後ろから、ひょっこりと顔をだした男性が、手を差し伸べて立ちあがらせてくれた。シキヤと呼ばれた彼は首をかしげ俺の返答をまっている様子だ。黒髪に黒い目、東洋人の顔立ちのようだけど、目から下は鳥のくちばしを模した尖った仮面で覆われていて確認できない。背中にはカラスのように黒光りする大きな羽がはえている。
二人とも同じ服装をしていた。格子模様の着流しに黒い羽織り、足元は
俺の記憶が正しければこれは時代劇でよく見るあれだ、…岡っ引き、じゃなくて、もう少し上の立場、「
「おーい。よう飛ぶなぁ君。いけるか?」
「は、はい……、すみません。大丈夫です、ちょっと立ちくらみで。ご迷惑をおかけいたしました! 失礼します!」
なにかボロを出して怪しまれる前に、この場を離れてしまおう。そう思い背を向けて歩き出そうとしたが、背後から両肩を掴まれる。
「逃げられると思ってんのか!」
「まぁ、まてまて君。ちょいお話しよう」
甘かった。怪しまれる前に、じゃない。もう怪しまれているのか。周りにいた人々が俺たちのやり取りに気付きはじめ、遠巻きに円を描くように集まってきている。興味津々な顔をしていたり、不安そうにしていたり、ひそひそ話しながら笑っていたりと、様々な表情が見て取れた。これから町の人たちに聞き込みをしたいっていうのに、警戒心をもたれてはたまらない。うまく切り抜けなければ。
「はい、なんでしょうか?」
「お前、あの森について聞いて回ってたようだな。なにが狙いだ!」
「うっ……。す、すみません。興味本位なんです。みんなが怖がっている様子でしたので、気になってしまって……」
森について聞いて回っていたことまで知られているのか。下手なウソはつけなさそうだ。
「あの、ランさん?は、なにか森のこと知ってますか? たとえば奥にある何かについてとか……」
「あぁ!? ふざけてんのかてめえは! そんなの知ってどうすんだ!!」
「ひっ……!」
「あーもう。迫力おさえてランさん。君、あの森にはなんもあらへんよ。けったいな話ばっかりひとり歩きしよるけど、暗いし深いし危ないさかい、みんな近づいてほしないんよ」
「そ、そうなんですね。それは、すみませんでした」
怒らせてはしまったが、なんとかうまくかわせそうだ。森の奥の異物については知っているのかいないのか、深く聞けそうにないが。
「そや。ケンがどうたら言うのんはなんや。冒険者なんやろ? 君の
「得物……。ああ、修理に、出してますけど……」
「ふーん、どの店?」
まずい。やってしまった。こんなすぐバレそうな嘘を。多少あやしくても無くしたと言ったほうが良かったかもしれない。
「あの店、です」
「確認とってくるわ。ランさん、ちょい任せたで」
適当に指さした、いま立っている場所から一番距離のありそうな武器屋にシキヤが歩いていく。まずい。確認されたらどうなる。嘘がバレたら八つ裂きか?この世界のシステムがわからない以上、不審者や役人の気分を害した者は切り捨てられる可能性だって充分にあるぞ。
追い打ちをかけるかのように、本格的に天気まで崩れてきた。雨粒が大きくなり、ポツポツと服にシミを作り始める。
「……お前、名前はなんだ」
「ああ、そうですね。失礼しました。俺の名前は――」
なんでいまさら気づくんだ。ありえない。
「なまえ、は――」
自分の名前が思い出せない。
職業、年齢、誕生日、住所、
「あ……、えっと」
「あぁ?」
混乱した。名前なんて、個人を識別するためのラベルで、とくべつ大事なものだと思ったことはなかった。だけどいま、自分の名前を思い出せないことが急に怖くて仕方なくなったのだ。さっきまで結ばれていた、「俺」を形作る輪郭がほどけて、大事なものがバラバラに溢れだしていくような気分だった。
「…………っ!」
そして俺は混乱のあまり、おそらくこのような場面で一番とってはいけない行動をとった。全速力で逃げ出したのだ。
「おい!?!?」
背後から鼓膜が震えるような大声が響く。すぐそばの
「み、身分証」
この町に来るまでも何度も確認した、無いものは無い。俺はいま、自分が何者か証明できるものをなにも持っていない。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう」
完全にパニック状態だった。知り合いもいない、金もない、そもそもここは俺の知ってる世界じゃない。自分自身の名前すらわからないなんて。どうすればいいんだ。
突然、ざあっという大きな音がして雨足が強くなり始めた。雨粒が地面に激しく打ち付けられ、容赦なく体を濡らしてゆく。
「そこかァ!!」
路地の入り口から、鬼の形相をしたランさんが明かりを片手にこちらを見ている。とにかく、逃げなければ。
「っ、クソ!」
森へ戻ろう。それしかない。暗くて周りが見えなかったから、落ちているものを確認できなかっただけだ。かばんやらスマホやら……せめて財布だけでもいいから、俺の持ち物が一緒にこの世界に来ているかもしれない。明るくなれば見つかるはずだ。名前が知りたい。俺の名前。
「おいお前!! 雨が降るぞ!! 戻れ!!」
「はぁっ、はぁ!」
「死に――か! 森に向――な!」
ランさんの絶叫を背に、町を飛び出した。森に着く頃には雨があがり、朝日が差していると信じて。