「チョコレートと、そっちのイチゴの新作、お願いします」
カウンターの向こうの女性店員はにっこりとほほえんで、手際よくショーケースの中にならんだ色とりどりのケーキの中から、俺の注文した二品を箱に詰めはじめた。今日はチョコレートケーキと、つやつやした果実にピンクのクリームが可愛らしい苺のタルト。五ヶ月前、婚約者の
甘い香りが漂う店内から、ガラス張りの向こうに目をやる。柔らかな街灯の光やカラフルな看板のネオンが照らす通りを、春の装いに身を包んだ人々が
「お待たせいたしましたー」
顔をあげると、商品を詰め終わった女性店員がレジ前で俺を待っている。
「2点で860円になります」
持っていたスマホでそのまま支払いをすませ、店のロゴの入った紙袋を受け取る。ケーキを崩さないように慎重に持ち上げ、お礼を言って店を出た。
「ありがとうございました! またお越しくださいませ」
明るい声を背に、家で待つ未来のことを思い出す。
彼女は別部署で働いていて、俺より早く帰宅していることが多い。仕事から帰ってきた俺がケーキ店の紙袋をぶら下げているのを見ると「無駄遣いしちゃだめじゃない」と困ったように笑う。けれど、夕食を終えて、いかにも女性の好みそうな
「今日のも、美味しいね」
「うん。来週からイチゴの新作が出るって言ってたよ」
仕事から帰って、かわいい婚約者と美味しいものを食べて、ほほえみあう、俺はこの小さな幸せの瞬間を噛みしめるのが好きだった。
「今日は早く帰るよ」
店から出てすぐ、メッセージアプリに短い文章を入力し、
まだ少しだけ肌寒い夜風は肌に心地よく、スーツのネクタイを緩める。空には満月が浮かび、街灯の少ない通りも明るく照らしていた。最近は残業続きで、日を跨いでから家に帰る日が続いていたから、足が軽い。
「今日は何時に帰れそう?」と、いつも心配そうにしていた彼女の顔を思い出す。マンションのエントランスを抜け、エレベーターのボタンを押して待っているあいだ、ケーキの箱が入っている紙袋を覗き込み、思わず顔がほころんだ。新作の苺のタルトは心配性な彼女を笑顔にしてくれるだろうか。
△△△
――――寒い。
いつもの
……寝てしまった? いつから?
感覚が少しずつ目覚めてくると、背中や尻にあたる冷たさと硬さも気になる。盛り上がったりへこんだり、ボコボコと歪んでいる気がする。どうやらベッドやソファのような柔らかい物の上で寝ているわけではないらしい。そうなると、床くらいしか思いあたる場所がないが、こんなにボコボコしている部分なんてあったか?
手のひらを下にして体の周りを探る。ひんやりと冷たく、固い砂粒のようなものが肌に張り付く不快な手触りがあった。うちには定時になると動くようセットされたロボット掃除機があり、くる日もくる日も健気にフローリングを磨いてくれていた。こんな量のゴミが床に放置されているはずがない……。
「……?」
重なる不愉快さに思考が徐々に覚醒し、眉間にシワを寄せながらうっすら目を開けた。
屋外だった。あたりは暗く、視界いっぱいにひしめくように揺れる背の高い木々が、月の光をさえぎり輪郭だけを浮かびあがらせている。森。俺はおそらくどこかの森で、地面に仰向けに倒れている。一気に背中に冷や汗が浮かんだ。
なぜ? ……わからない。
「うわっ……」
ここが外だと悟った瞬間、いままで聞こえなかった風の音や虫の鳴き声、木の葉が擦れる音がワッと響いた。
「なんなんだ……」
上半身を起こして、身体中を確認してみる。服装は白いシャツと黒のスラックス。同じく黒の靴下と革靴。うで、あし、胴体、あたま。どこにもかすり傷一つないようだ。冷静でいたいが、さすがに混乱してくる。
「……夢?」
醒めにくい夢の可能性を期待して、強く頬をつねってみたら
深呼吸して立ちあがり、あたりを見回してみた。暗すぎて数メートル先もよく分からない。月明かりを頼りになんとか目を凝らす。右も左も何百もの黒い棒を突き立てたような木々が立ち並んでいる。
足元は形や大きさの異なる自然石を敷き詰めた石畳の通路が前方の暗闇に向かって一直線に伸びていた。手入れされず長らく放置されいるのか、ところどころ欠け、苔むしている。この上で寝転んでいたんだ、どうりで快適な寝心地とはいかない。
反対側を確認するため振り返り、俺は思わず後ずさった。
「は……?」
この場に相応しくない「異物」
そう表現するしかない。地面から40センチほど上空、鈍い金色に輝く巨大な金属が浮かんでいた。
「でか……」
直径七、八メートルはありそうな円形。表面には漫画でしか見たことのないような魔法陣らしき
「どうやって浮いてるんだ……?」
側面に回り込んでみる。厚みは30センチほどしかなく、浮かせるための動力源のような物が見当たらない。ぐるりと一周してみたり、表面に触ってみたり、移動できるか押してみたり、下部に仕掛けがないか手をかざしてみたり、一通り出来そうなことをしてみたが、うんともすんとも言わない。やっぱりただの浮いているだけの金属だ。
できるだけ全体を見渡せるよう数歩うしろに下がり眺める。
「……
なぜそう思ったのかわからない。でもそう思った。思ったことがただ口をついた。俺はこれを見たことがある、それもつい最近。
「そうだ、気になってたんだ」
自分の両手のひらを確認する。やはり傷一つついていない。数メートル先も見えない暗い夜の森を、服も靴も汚さず、かすり傷一つ付けずに歩いてこられるのか。俺は散策のプロじゃない、無理だ。疲れすら感じてないじゃないか。あまりにも不自然だ。きっと俺はこの森を歩いてなんかいない。
でもこれが扉なのだとしたら、この状況に少しは納得できる。俺はここから「出てきた」んだ。
なぜこの場所なのか、なぜ出てきたときのことを思い出せないのか、いくら考えても何もわからない。確実なのは、俺に何かが起きたことだけだ。
そうだ