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未来調整官fu
未来調整官fu
深海インク
ミステリーサスペンス
2024年11月18日
公開日
20.7万字
連載中
過去に介入し、歴史の流れを微修正することで、悲劇的な未来を回避する。未来調整官fuは、その最前線で戦うエージェント。任務は常に危険と隣り合わせ。うまくいこともある。うまくいかないこともある。 future, function, fusion, funeral, fumble, futile ... さまざまな「fu」がそこに。 *一話読み切り *第2章から、目次は、更新日時が新しい順です。

52_リングの残像:打ち消された未来、打ち捨てられた現在

2025年7月某日 未明



まとわりつく熱帯夜。大阪湾に浮かぶ人工島、夢洲(ゆめしま)。ここで開催されている「EXPO2025 大阪・関西万博」は、真夜中の休息を迎えていた。その静寂は、しかし表面的なものに過ぎない。華やかなパビリオン群が眠る地下深く、そして目に見えない情報網の中では、破滅へのカウントダウンが静かに進行していた。


田中一郎は、汗ばんだ額を拭い、古びた清掃カートの軋む音を響かせながら会場内を移動していた。52歳、バツイチ。高校生の娘、美咲の学費を稼ぐため、昼間の土木作業とこの万博会場の深夜清掃、ダブルワークに身を削る日々だ。眼前に聳え立つのは、未来社会の象徴とされる大屋根リング。ヒノキやスギをふんだんに使った世界最大級の木造建築物。その優美な曲線を見上げても、一郎の目に宿るのは未来への希望ではなく、ただ今日のシフトを無事に終えたいという疲労の色だけだった。


「次は休憩所エリアか…」。一郎が向かうのは、タイプXと呼ばれる元々は用途未定だった区画に、暑熱対策と来場者サービス向上の名目で急遽設けられた仮設休憩スペース。最新鋭パビリオンが立ち並ぶ中では、安普請が否めない簡素な造りだ。彼にとっては、清掃範囲が広いだけの厄介な場所でしかない。それでも、娘の「ありがとう、お父さん」という言葉を心の支えに、一郎は重い足を引きずる。作業を終えれば僅かな休息が待っている。それがささやかな楽しみだった。



同時刻、非局在化情報空間



コードネーム“fu”。未来調整官。その存在を知る者は極めて少ない。依頼主――超国家的な危機管理機関か、あるいはさらに別の組織か――からの指令に基づき、確率分岐する未来の中から、人類にとって許容できない破滅的事象を特定し、その発生確率を閾値(しきいち)以下に調整するオペレーター。fuは今、万博会場全体の神経系とも言える統合情報管理システム(公益社団法人2025年日本国際博覧会協会管轄)の深層レイヤーにアクセスしていた。物理的な監視は不要。fuの意識そのものが、遍在する観測装置なのだ。


目前のホログラフィック・インターフェースに、緊迫したデータストリームが流れ続ける。


【脅威レベル98.7% :: カタストロフィ事象_OMEGA :: 大屋根リング_火災による全壊 :: 臨界点到達予測時間: 1時間32分14秒】

予測される被害:直接的経済損失数兆円規模、関連インフラ麻痺、国際的信頼失墜、多数の死傷者発生の可能性。


「原因解析モジュール起動」。原因は複合的かつ連鎖的だった。


①:異常気象下の電力需要急増に対応するための暑熱対策強化(ミスト噴霧装置増設、空調フル稼働)に伴う、特定時間帯における電力網への過負荷。

②:最新型BEMS(ビルエネルギー管理システム)ファームウェアv3.1.4に潜む未確認バグ。特定条件下での電力サージに対し、誤った空調制御シーケンス(異常過熱モード)を誘発。

③:会場地下、旧廃棄物埋立層由来の微量メタンガス(対策済だが完全除去は不可能)の予期せぬ滞留。

④:①と②の複合による空調ダクト内配線の異常過熱と、③のメタンガスへの引火。それが連鎖的火災を誘発し、大屋根リングの巨大な木造構造体が燃料となって未曾有の大火災へと発展する。


「実行プラン策定開始」。fuは膨大なログデータ――理事会議事録、技術仕様書、電力消費パターン、危機管理センター運用マニュアル、気象予測、来場者流動予測――を並列処理し、介入による副作用(Side Effect)が最小となる最適解を探る。


介入点は三つ。


1.電力系統制御:深夜自動システムチェック時のサージ電圧発生ポイントを特定。該当シーケンス中の電力負荷を人為的に分散させる。ターゲットは西ゲート近傍のP23パビリオン(常時稼働の自律型メンテナンスドローンの電力消費が計算可能で、変動予測が容易なため)。負荷調整は許容誤差0.01%以内に抑制。結果、ドローンの充電スケジュールに微細な遅延が発生する可能性を受容する。

2.BEMS制御:脆弱性を持つファームウェアv3.1.4のセルフチェックプロトコルに量子暗号化パッチを適用。異常検知アルゴリズムの閾値パラメータをリアルタイムで微調整し、サージ電圧による誤作動トリガーを無効化する。同時に正常ログを強制生成。

3.危機管理センター監視システム介入:偽のアラートシグネチャを注入。システムチェックが正常完了したログデータと同期させ、わずかな電力変動と空調ログの不整合を正規のノイズ範囲としてマスキング。これにより、人的監視、AI監視双方からの検知を回避する。


副作用予測:P23パビリオンのドローン数機が充電不足により緊急着陸シーケンスを発動、展示物との軽微な接触リスク(物的損害確率0.8%)。散水システムの一部(S11パビリオン管轄)が偽アラートシグネチャに過剰反応する確率(0.03%)。水漏れ発生、人的接触リスクは極低レベル。


「リスク評価完了。全プロセス許容範囲内」


fuは思考コマンドを発する。「調整開始」。


fuの介入は、時間と空間を超えた精度で実行された。量子もつれを利用した通信に、物理的遅延は存在しない。統合情報管理システムの最深部でコードが書き換えられ、電力の流れが制御され、ログが生成される。その全てが、システムの正常なゆらぎの範囲内に巧妙に隠蔽された。人間には、そして多くの場合、事後解析を行っても、痕跡を辿ることは不可能だ。



同日 早朝、夢洲 仮設休憩スペース



硬いベンチでうとうとしていた一郎は、突然の冷たさに飛び起きた。足元が水浸しになっている。「なんだこりゃ!?」見回すと、壁に設置されたグリーンウォール――植物が植え込まれた壁面――の下部から水が漏れ出していた。配管でも壊れたのだろうか。


立ち上がろうとした瞬間、一郎は濡れた床で足を滑らせ、体勢を崩す。「うわっ!」反射的に手をついた。ピキリ、と手首に嫌な音が響き、鋭い痛みが走る。「いってぇ……!」見れば、手首がみるみる腫れてきた。捻挫だ。それもかなり酷いかもしれない。


「最悪だ…」呻き声が漏れる。派遣会社に連絡しなければ。病院にも行かねばなるまい。日雇いの身で労災はすんなり認められるだろうか? 休めば日給はゼロ。今月の美咲の塾代は? アパートの家賃は? 様々な不安が一気に押し寄せてきた。


手首を押さえ、よろめきながら一郎は立ち上がる。痛みが引く気配はない。朝日が昇り始め、巨大なリングのシルエットが徐々にその姿を現す。それは、一郎の絶望などまるで意に介さないかのように、ただ美しく、荘厳にそこにあった。



同時刻、非局在化情報空間



fuのシステムは、調整の完了と副作用の発生を同時に記録していた。


【OMEGA事象発生確率: 0.0008% :: 調整完了】

【副作用レポート :: エリアP23: 軽微な物的損害(ドローン接触)。推定コスト: €35,000 :: エリアS11: 散水装置誤作動、水漏れ。インフラへの損害は軽微。人的インシデント: 田中一郎(契約スタッフ)、滑走による軽傷(手首捻挫)。勤務シフトキャンセル確認済。許容可能な付随的損害として評価。】


調整官の任務は完了した。大災害は回避され、付随的な損害は設定された許容コストの範囲内に収まった。fuは思考を停止し、統合情報管理システムから完全に離脱する。その存在の痕跡は、極微細なエントロピーの揺らぎとなり、情報の大海に拡散し消滅した。依頼主への報告は、「調整完了。損害軽微」という暗号化データパッケージが、量子通信チャネルを通じて送信されるだけだ。fuに感情はない。成功も失敗も、単なるデータ処理の結果に過ぎない。



同日、開場後



万博会場は、再び生命を吹き込まれたように活気に満ち溢れていた。ゲートをくぐる来場者たちは、輝く大屋根リングに歓声をあげる。「すごい!」「未来って感じ!」。誰も知る由もない。ほんの数時間前、このリングが炎に包まれ、彼らが立つこの場所が地獄と化す可能性があったことなど。


その喧騒を背に、田中一郎はよろよろと会場を後にした。右手首には応急処置の湿布が巻かれ、鈍い痛みが続いている。派遣会社担当者の声が耳に残っていた。「明日のシフト? 代わりはいくらでもいますから。労災? まずはご自身で病院に行って診断書を…」。冷たく事務的な声。使い捨てられる駒。それが自分の今の価値なのだと思い知らされる。


一郎は立ち止まり、振り返る。巨大なリングは、真夏の太陽を浴びて力強く輝いていた。無数の人々が、笑顔でその下を行き交っている。「いのち輝く未来社会のデザイン」。万博のテーマが、空々しく胸に響く。俺のいのちは? 美咲の未来は?


未来社会の象徴は、何事もなかったかのように輝き続ける。まるで、昨夜起こりかけた悲劇と、その身代わりとなった小さな犠牲を嘲笑うかのように。リングはそこに在り続ける。しかし、一郎が見ているのは、もはや現実のリングではないのかもしれない。回避された破滅の、そして打ち捨てられた自分の現在の、「残像」なのかもしれなかった。


その頃、fuはすでに、地球の裏側で発生が予測される別の確率事象の調整準備に入っていた。世界は回り続ける。光が強ければ影も濃くなる。そのバランスを調整するのがfuの役割。ただ、それだけだった。

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