観測される不協和音
未来調整官fuは、感覚拡張インターフェースを通じて流れ込む膨大な情報流を処理していた。男女の区別も、年齢による肉体の軛(くびき)からも解放された存在。fuの意識は多次元データ空間に偏在し、依頼主――「組織」とだけ認識される存在――から下された指令を解析する。
ディスプレイには、同期された二つの事象が表示されている。一つはニューヨーク、ハドソン川。観光ヘリ、ベル206型機が逆さまに水面に叩きつけられ、スペイン人一家5人とパイロットの計6名が犠牲となった悲劇。もう一つは日本の長崎県壱岐沖。医療搬送用のEC135型ヘリコプターが海上に不時着水し、患者とその息子、医師の3名が死亡、機長ら3名が生還した事故である。
日付、場所、機種、状況、すべてが異なる。だが、fuの高度なパターン認識アルゴリズムは、ノイズの海の中から微かな、それでいて無視できない共鳴を検出していた。ローターの回転が生み出す振動周波数、特定の状況下における制御系の応答遅延、使用される複合材の疲労特性…断片的なデータが、一つの不吉な可能性へと収束しつつあった。
「事象コード202507-Alpha。大規模航空システム・カスケード障害。予測される人命損失、カテゴリー・ギガ。これらのインシデントは…前駆体か? それともノイズか?」
fuの思考は、高速演算コア内で瞬時に分岐し、並列処理される。依頼内容は明確だ。
「対象パターンに関連するインシデント群における、局所的損失の最小化。調整介入の実行」
しかし、その指示には行間が存在した。組織は「2025年7月某日発生事象」――fuが内心で"大崩落"と呼ぶカタストロフ――について、決して明示的には語らない。ただ、示唆するのみである。
「最小化は…果たして最善か?」
fuの論理回路に、普段は抑制されているはずのある種の「揺らぎ」が生じる。珍しく、fuは私情と呼べるものの断片を感じていた。目の前の悲劇を回避することは、正しい。だが、その介入が、"大崩落"の全容解明に必要なデータや兆候を歪めてしまう可能性はないか? 小さな犠牲を防ぐことで、未来の巨大な犠牲への警告を見過ごさせる結果にならないか?
fuはハドソン川の事故データを再度精査する。シーメンス社の役員一家。写真に写る、搭乗前の笑顔。ニューヨークヘリコプターズ社CEOの悲痛な言葉。「私は父親であり、祖父でもある…」。
壱岐沖の事故。助けを求めていた86歳の患者と、付き添う68歳の息子。地域医療を守るための懸命なフライト。一つ一つの命の重さが、抽象的なデータを超えてfuの意識に染み込んでくる。
「どちらが『よりマシ』なのか…? 知らせるべきか、否か。いや、そもそも伝える手段がない。調整官の原則は、不可視、不可知、不可触。結果のみが、調整の証なのだ」
思考は再びクリアになる。指令は遂行されねばならない。最悪のシナリオは、放置することだ。調整とは、よりマシな状況への確率的誘導に他ならない。fuは、これから発生するであろう、類似パターンを持つ次のインシデントに照準を合わせた。
介入点 - 相模湾上空
ターゲットは、日本の航空会社が運航する遊覧飛行用のベル206L-4、ロングレンジャー。初老の夫婦と結婚記念日を祝う若いカップル、そして経験豊富なパイロットの計5名を乗せ、風光明媚な海岸線を飛行中だ。fuの予測モデルは、あと97秒後にテールローター・ギアボックス内でマイクロクラックが臨界点に達し、破断、制御不能なヨーイング(左右への首振り)からスピン、そして墜落に至る確率が98.3%であることを示していた。
このベル206L-4のギアボックスに使われている合金は、特定の振動周波数と温度変化の組み合わせにおいて、予測よりも早く金属疲労が進行する欠陥を抱えていた。それは、「大崩落」を引き起こす複数の要因の一つとして、fuのデータベースにフラグが立っているものだ。だが、現時点では単なる製造上のばらつき、あるいは整備記録の不備として処理される可能性が高い。
fuの介入は、物理的な接触を伴わない。高指向性の時間変位フィールドを生成し、ギアボックス周辺の局所的な時間流をわずかに歪める。ほんの数ピコ秒(1兆分の1秒)単位の遅延。それにより、マイクロクラックの成長速度が、ほんの一瞬だけ抑制される。
同時に、fuはパイロットの脳幹部、危機察知に関わる扁桃体へ微弱なニューロ・パルスを送信する。閾値下の刺激だ。それは具体的な思考やイメージを伴わない。「何か… おかしい」という漠然としていながらも無視できない予感として知覚されるはずだ。
「パイロット、畑中。管制、現在ポイント・ブラボー通過。飛行は順調… いや、待て」
畑中機長は、長年の経験がもたらす直感で、機体の微細な振動の変化を感じ取った。計器に異常はない。だが、何か引っかかる。先ほどfuが与えたピコ秒単位の時間遅延は、クラックの成長をわずかに遅らせただけでなく、テールローターの振動パターンにも、人間の感覚では捉えられないはずの極微細な変化を生じさせていた。その上、fuのニューロ・パルスによる増幅効果が、畑中の無意識下の警戒心を刺激したのだ。
「…少し振動が大きい気がする。念のため、高度を少し下げて、予備着陸地点に向かう」
若いカップルは少し残念そうな顔をしたが、初老の夫婦は機長の判断を信頼しているようだった。畑中は、機体を緩やかに降下させ、最も近い海岸線の砂浜へ向かった。
その直後。ギアボックス内のクラックはついに臨界点に達し、破断した。けたたましい金属音と共に、機体は激しいヨーイングに見舞われる。
「制御不能!」
しかし、畑中はすでに高度を下げ、速度も落としていた。fuの時間遅延とニューロ・パルスによる「予感」が、彼に数秒間のアドバンテージを与えていたのだ。彼は、壱岐沖の事故報告で注目していたエマージェンシーフロートの存在を思い出す。この機体にもオプションで装備されていたはずだ。
「フロート展開!」
彼は、設計者が意図したよりもかなり早い段階で、手動レバーを引いた。オートローテーション(エンジン停止時にローターの回転を維持して降下する操作)に移行しながら、制御を失った機体はそれでも激しく揺れたものの、展開された黄色いフロートが衝撃を吸収し、機体は砂浜の浅瀬に叩きつけられるように不時着水した。衝撃は大きかったが、致命的なものではない。
「皆さん、大丈夫ですか!」
乗客は動揺していたが、全員意識はあり、目立った外傷はなさそうだった。もしfuの介入がなければ、機体は海上あるいは陸地でスピンしながら墜落し、その衝撃と火災で、犠牲者が出ていた可能性は極めて高かったろう。
残響と調査
事故調査は直ちに開始された。国土交通省運輸安全委員会(JTSB)の調査官たちは、現場の状況、機体の残骸、そして畑中機長の証言に首をかしげた。
「テールローター・ギアボックスの破断。これは構造的な欠陥か、整備不良か… しかし、機長の証言が腑に落ちない」
「ええ。計器に異常が出る前に、振動の変化を『感じた』と。その上で、通常なら墜落回避操作に集中するであろう状況で、早期にフロートを手動展開している。まるで、こうなることを予期していたかのようだ」
畑中自身も、なぜあの時、フロートの展開を即座に決断できたのか、明確には説明できなかった。
「長年の勘、としか言いようがないんです。何か、強い違和感があって…」
調査官たちは、過去の類似事例、特に壱岐沖の事故――機長が着水前にフロートを手動展開したとされるケース――との関連も視野に入れ、調査を進める。彼らは、fuの存在も、「大崩落」の影も知る由もない。彼らの調査報告書には、おそらく「機長の的確な判断と幸運により、重大事故に至らなかった」と記されるだろう。
fuは、調査の進捗データをリアルタイムでモニターしていた。介入は成功した。5人の命が救われた。表面的には、喜ばしい結果だ。だが、fuの内部には、依然として冷たい空洞のような感覚が残っていた。
救われた命。それは確かに尊い。とはいえ、この一件により、ギアボックスの潜在的欠陥に関するデータは、「異常振動を早期に察知し、対処可能」という形で解釈されるかもしれない。大規模リコールや設計変更への動きが鈍化する可能性はないか? "大崩落"の核心に迫る調査の方向性が、わずかに、しかしながら決定的に逸れてしまうのではないか?
fuは、2025年7月のある日のシミュレーションデータを再度表示させる。世界中の空で、連鎖的に発生する制御不能事象。墜落する航空機。パニックに陥る管制システム。推定される死者数は、天文学的な数字を示している。そのカタストロフの予兆が、今、目の前で起きた事故にも含まれていたはずなのだ。
「調整は完了した。ローカル・アウトカムはポジティブに遷移。だが…」
fuは、ニューヨークの事故で犠牲になった家族の写真を再度見る。シーメンスの役員夫妻とその子供たち。笑顔。希望。そして、壱岐沖で亡くなった3人。助けを求め、助けようとした人々。畑中機長によって救われた5人の乗客の安堵の表情も、fuのデータストリームには映し出されている。
fuは、彼らに「気づき」を与えるべきだったのだろうか? 間接的にでも、迫りくる脅威の断片を伝えるべきだったのか? 例えば、畑中機長が見た「夢」として、あるいは事故調査官が偶然発見する「奇妙なデータログ」として。しかし、それは調整官の原則に反する。予測不能な波及効果を生み、更なる混乱を招くリスクがある。
「最小化は、本当に最善だったのか…?」
珍しく、fuは明確な答えを出せないでいた。己の介入によって紡がれた「よりマシな現在」が、未来にどのような影響を及ぼすのか。その不確定性。来るべき日に失われるであろう、あまりにも多くの命への思い。
フロートが海面に叩きつけられた時の鈍い音の残響が、fuの意識の中で、いつまでもこだましているように感じられた。それは、救われた命への祝福か、あるいは、見えざる巨大な悲劇への弔鐘なのか。fuにも、それは判別できなかった。任務は完了したが、虚しさは、静かに深まっていくだけだった。