未来調整官fuの意識は、サントドミンゴの熱気に満ちたナイトクラブ「Jet Set」に同期された。時刻は火曜午前0時48分。予測される事態発生まで、残り約12分。網膜ディスプレイに表示される情報(クロニトン流束密度、因果律共鳴スコアCRS)は、高確率での構造崩壊、予測死者数180名以上を示唆していた。依頼元――"当局"とだけ認識される存在からの指示は明確。「死者数を最小化せよ。ただし、介入は絶対に秘匿すること」。
fuは男女も年齢も超越した存在だ。物理的な肉体を持たず、時間流の歪みを観測し、微細な介入で未来の事象を調整する。通常業務は文明レベルの危機回避だが、今回は異例なほど局所的、かつ緊急性の高いミッションだった。CRSが異常値を示し、"当局"の警告がトリガーされたのは、つい3分前のことだ。
「状況把握を開始。リアルタイム感覚フィード接続、超小型偵察ドローン(MDS)展開」
fuの思考命令が、サントドミンゴ上空に待機していた不可視の機体群に伝達される。数秒のタイムラグ。量子通信ネットワークの僅かな遅延が、焦燥感を煽る。
クラブ内部の光景が、fuの知覚に流れ込む。ステージでは人気メレンゲ歌手ルビー・ペレスが情熱的に歌い、重低音が空気を震わせている。フロアは熱狂する人々で埋め尽くされ、VIPエリアには元メジャーリーガー、オクタビオ・ドテルやモンテクリスティ州知事のネルシークルスの姿も確認できる。彼らは今、人生の輝かしい瞬間を享受している。それが後数分で凄惨な悲劇に変わることなど、知る由もない。
fuは即座に構造解析を開始。MDSの一部が壁や天井に潜り込み、非破壊検査プローブで内部構造を探る。予測通り、老朽化した鉄骨と過剰な音響振動、そして連日の高湿度が複合的に作用し、天井中央部の支持構造が限界に達していた。
「崩壊予測ポイント特定。第3、第5トラス接合部。疲労破壊は臨界寸前」
第一次介入プランを策定。
「ステージ袖の配電盤に過負荷を誘発させ、小規模な発煙とスパークを発生させる。局所的な混乱を引き起こし、ステージ付近から避難を促す」
これは最も穏当な手段だ。パニックを最小限に抑えつつ、最も危険なエリアから人々を遠ざける。fuはMDSのマイクロマニピュレーターに指令を送った。
「…コマンド送信。実行まで3秒、2秒、1秒…実行」
ステージ袖で、配線カバーの隙間から白煙が上がり、バチッという音とともに火花が散った。計画通り…のはずだった。だが、音楽の爆音と照明の乱舞の中で、その小さな異変に気づく者は少ない。気づいたとしても、ステージ演出の一部だと誤解したようだ。警備員の一人がいぶかしげに目を向けたが、すぐに他の場所に注意を移してしまった。
fuのインターフェースにアラートが点滅する。
「警告:介入効果限定的。避難誘導効果確認できず」
舌打ちしたい衝動に駆られる。だがfuに舌はない。次の手を打たねばならない。残り時間は7分を切っている。
「第二次介入プラン。VIPエリア付近の空調ダクトに、刺激性の低い催涙性ガス(CSガス・低濃度変異体)を微量放出。不快感を与え、自発的退避を促す」
これはリスクが高い。気づかれれば騒ぎが大きくなり、パニックが予測不能な方向へ拡大する可能性がある。だが、選択肢は限られていた。
「…コマンド送信。展開シーケンス開始」
空調ダクトに潜んでいたMDSが、エアロゾルを放出した。それは無色透明で、ごく微かな刺激臭を持つ。
フロアの数人が咳き込み始め、目元を擦る仕草を見せる。計画通りか?…いや、違う。その反応はVIPエリアだけでなく、フロア中央部にも散発的に現れた。換気システムの気流が予測と異なっていたのだ。
そして、最悪の事態が発生した。咳き込む人々を見た別の客が、「ガスだ!テロだ!」と叫んだのだ。その一言が引き金となり、熱狂は一瞬で恐怖に変わった。人々は出口に殺到し、将棋倒しが起きる。怒号、悲鳴、泣き声。ルビー・ペレスの歌声は、恐怖の交響曲にかき消された。
fuのCRSモニターが激しく点滅する。
「警告:予期せぬ群衆行動。構造体への不規則な負荷増大。崩壊リスク急上昇。CRS DANGER LEVEL 5に移行」
まずい。非常にまずい。群衆パニックによる不規則な振動と衝撃が、弱っていた天井構造に更なるダメージを与えている。予測崩壊時間が早まり、さらに被害規模が拡大する可能性すら出てきた。データは、天井だけでなく、壁の一部も連鎖的に崩壊するシナリオを示唆している。
「最悪予測:ほぼ全員死亡」
“当局”からの通信が入る。
「fu、状況は制御不能か? 死者数予測が再上昇している。許可する。カテゴリーB介入プロトコルを使用せよ」
カテゴリーB。それは、限定的ながら物理的介入を伴う、より積極的な調整手段だ。秘匿性のリスクは格段に上がるが、今はそれしか無い。
残り時間は推定3分。fuは最後の手段に出る。
「局所構造維持フィールド(LSIF)展開準備。MDS群を再配置、崩壊予測ポイント直下にエネルギーフィールドを形成。衝撃を吸収、崩壊タイミングを遅延させ、崩壊形態を制御する」
これは禁じ手だ。LSIFは膨大なエネルギーを消費し、一時的に周囲の電磁場に観測可能な異常を引き起こす可能性がある。だが、やるしかない。fuは全リソースを投入し、MDSネットワークにフィールド形成を指示した。
まさにその時。ステージ近くにいた男が、天井を指差して何か叫んでいる映像がMDSから送られてくる。
「天井から何かが…」
ルビー・ペレスも訝しげに視線を上げる。その直後だった。
ゴォォォォン、という地響きのような轟音。
LSIFは間に合ったのか? フィールドは形成されつつあった。だが、完全ではなかった。パニックによる想定外の負荷が、予測よりも早くトラス接合部を破壊したのだ。
fuの知覚は、一瞬ホワイトアウトした。轟音、衝撃、粉塵、断末魔の叫び。接続していた複数のMDSが一斉に信号をロストする。
LSIFは部分的に機能した。天井は完全に崩落したが、その崩れ方が変わった。巨大な一枚岩のように落下するのではなく、フィールドの影響で亀裂が走り、複数のブロックに割れて落下したのだ。これにより、わずかながら生存空間が生まれた…はずだった。だが、その介入が同時に新たな悲劇も生んでいた。予期せぬ方向に飛散した巨大なコンクリート塊が、比較的安全と思われたバーカウンター付近を直撃したのだ。そこにいた人々は、回避する間もなかっただろう。
fuは残存するMDSを駆使し、必死に状況を把握しようとした。瓦礫の下から聞こえる呻き声、助けを求める叫び。それらに混じって、携帯電話の着信音が鳴り響いている。誰かが、ここに来られなかった家族や友人に連絡しようとしているのか。あるいは、連絡を待っているのか。
暗闇の中、MDSの微弱な赤外線センサーが、瓦礫の隙間に動く人影を捉える。fuは思考する。「生存者座標送信。秘匿チャネル経由で救助隊の誘導端末へ」。これは規定外の行動だ。だが、"死者数の最小化"という目的のためには、許容される範囲かもしれない。
救助隊のサイレンが近づいてくる。混乱と絶望の中で、わずかな希望の音が響く。
fuは、静かにJet Setから意識を引き上げた。網膜ディスプレイには最終的な推定結果が表示され始めていた。
死者数:113名
負傷者数:150名以上
当初の予測死者数180名からは減少した。パニック発生後の最悪予測「ほぼ全員死亡」は回避できた。この点だけを見れば、fuの介入は成功したと言えるかもしれない。
だが、fuの処理コアには、成功とは程遠い重いデータが刻み込まれた。オクタビオ・ドテル死亡。ネルシークルース死亡。ルビー・ペレスも瓦礫の下から救出されたが、病院で死亡が確認された。fuが救おうとした著名人たちは、結局助からなかった。LSIFが作り出した偶然の生存空間と、偶然の死地。それは調整とは名ばかりの、混沌とした偶然の産物だった。
"当局"からの評価は、「結果Bマイナス。目標達成度:部分的。介入痕跡:軽微(許容範囲内)」。淡々とした評価だ。彼らにとって、113という数字は、回避された数百の死に比べれば「マシ」な結果なのだろう。
しかし、fuのログには、メレンゲのリズムに乗って踊っていた人々の笑顔、ルビー・ペレスの情熱的な歌声、友人たちと語らうドテルの穏やかな表情が、断片化された感覚データとして焼き付いている。そして、通信遅延、誤算、パニック、間に合わなかった介入…そのすべてが、重い残響となってfuの論理回路にこだましていた。
これは、成功ではない。調整でもない。ただ、最悪の悲鳴を、少しだけマシな悲鳴に変えただけだ。サントドミンゴの夜空の下、誰にも知られることなく、未来調整官fuは、決して成功とは呼べない任務の記録を静かに閉じた。その和音は、ひどく不協和で、歪んでいた。