00:00:00 GMT – MISSION START
意識は冷たいデータストリームの中に浮遊していた。未来調整官fu、性別も年齢も、肉体という枷すら持たない純粋なエージェント。割り当てられたコードネームだけが、その存在を規定する。今回の指令元は『評議会』。多元宇宙の安定を監視する、不可視の存在だ。
指令内容は簡潔だった。「対象期間:現在より72時間。対象領域:ユーラシア大陸北西部、特にロシア連邦・フィンランド国境地帯。脅威レベル:レッド・オメガ。任務:連鎖的軍事衝突エスカレーションの阻止。許容逸脱値:デルタ0.01。介入痕跡:ゼロ。状況を『よりマシな』状態へ調整せよ。」
fuは瞬時に状況を把握した。提供されたデータパッケージには、モスクワからの最新の徴兵令が含まれていた。春季徴兵、16万人、18歳から30歳。2011年以降最大規模。総兵力150万人への増強計画。ウクライナでの『特別軍事作戦』への投入は公式には否定されているものの、国境地域での死傷者報告や過去の動員実績がその言説の虚構性を暴いている。デジタル召集令状がGosuslugiやmos.ruを通じて送信されている現実。徴兵忌避者の増加と、「新たな兵員補充手段」を模索する当局の動きがあった。
対するはNATOの拡大。フィンランドとスウェーデンの加盟である。特にフィンランドはロシアと1,343kmの国境を接し、対人地雷禁止条約(オタワ条約)からの離脱を決定していた。ポーランド、バルト三国も同様の動きを見せており、軍事的脅威への具体的な対抗措置と言えた。フィンランドの国防費はGDP比3%へ引き上げられる。ヘルシンキのペッテリ・オルポ首相は国民に「心配ない」と語るが、空気は張り詰めていた。
ウクライナでは戦闘が止まない。ヘルソンの発電所が攻撃され、4万5千人が停電。米国の停戦仲介努力は実を結ばず、ロシアはエネルギー施設への攻撃停止合意を反故にしたと非難されている。一方、モスクワはウクライナのドローン攻撃が原因だと主張。責任の所在は混沌としていた。
fuの分析によれば、クリティカルポイントはフィンランド国境付近に集結しつつあるロシア軍部隊と、新たに敷設され始めたフィンランド軍の地雷原との相互作用にあった。誤解、偶発的な接触、あるいは意図的な挑発。どれか一つが引き金となり、限定的な衝突がNATO全体を巻き込む大惨事へと発展する可能性は、今後72時間で急上昇する。評議会が示す『レッド・オメガ』は、核使用を含む最悪のシナリオへの最終警告だ。
「調整開始」fuは思考した。それは命令であり、実行の宣言だった。
00:05:13 GMT – INITIAL PHASE: DATA MANIPULATION
fuの意識は、光ファイバー網を音速で駆け巡り、モスクワの国防省サーバー群の深層に到達した。量子暗号化されたファイアウォールは、fuが駆使する『時間的共鳴歪曲』技術の前では意味をなさない。ターゲットは、フィンランド国境付近への部隊移動を統括する北部軍管区司令官、ヴォルコフ将軍の意思決定プロセス。
fuは、ヴォルコフに届けられるインテリジェンス・ブリーフィングのデータを微調整した。国境付近のNATO軍活動レベルを示す衛星画像の解像度を意図的に低下させ、脅威度を数パーセント下方修正する。同時に、国内の(fuが捏造した)反体制派グループの活動活発化を示唆する偽の通信傍受記録を挿入し、ヴォルコフの注意をわずかに内向きに逸らすことを試みた。
続いて、徴兵管理システム『プリズィフニーク・ネクスト』にアクセス。召集令状のデジタル配信システムに、ランダムな遅延とエラーを注入した。対象者の数パーセントに、一時的な「システム障害」として通知が届かなくなるように仕向ける。物理的な郵便配達に関しても、配送ルート最適化アルゴリズムに微細なノイズを加えることで、意図的な遅延を生じさせた。大規模な混乱は起こさない。あくまで「不運」や「 bureaucratic inefficiency(お役所仕事の非効率)」に見せかける必要があった。
モスクワ市郊外、アパートの一室 – T+00:15:48
イワン・ペトロフ(22歳)は、スマートフォンのGosuslugiアプリの通知に心臓を跳ねさせた。深呼吸して開くと、そこには「システムメンテナンスのお知らせ」が表示されているだけだった。昨夜、友人から「召集令状がオンラインで来た」とメッセージを受け取って以来、彼は生きた心地がしなかった。まだ来ていない。安堵と、いつ来るか分からない恐怖が綯い交ぜになる。窓の外は曇り空。重たい現実が、アパートの壁のように彼を圧迫していた。彼は、戦争が始まってから密かに調べていた「代替市民役務」の申請方法を、震える指で再度検索した。だが、弁護士ティモフェイ・ヴァスキンがメディアで語っていた言葉が頭をよぎる。「新たな徴兵は毎回が宝くじだ。当局は常に新しい手で兵士を集めようとしている。」恐怖は消えなかった。
ヘルソン市、ウクライナ南部 – T+00:25:02
アンナ・パヴレンコ(45歳)は、カンテラの揺れる灯りの下で、幼い娘の髪を梳いていた。3日前から続く停電。ロシア軍の攻撃で送電施設が破壊されたと聞いた。冷蔵庫の中身はもうだめになりかけている。水はまだ出るが、いつ止まるかわからない。夫は前線だ。安否の連絡も途絶えがちで、不安で眠れない夜が続く。ラジオからは、またロシアで大規模な徴兵が始まったというニュースが流れていた。「終わらない…」アンナは呟いた。怒りよりも、深い疲労と悲しみが彼女を支配していた。この理不尽な日常は、いつまで続くのだろう。
01:18:30 GMT – ADJUSTMENT CONTINUATION: HARDWARE INTERFERENCE
fuの介入は順調に見えた。ヴォルコフ将軍は、ブリーフィングのニュアンスの変化と国内情勢への懸念から、部隊移動の最終承認を数時間延期した。徴兵システムの微細な混乱は、一部の徴集兵の集結を遅らせ、計画にわずかなズレを生じさせていた。しかし、fuの予測アルゴリズムは、この程度の遅延では臨界点を回避できない可能性が高いことを示唆していた。より直接的な介入が必要だった。
fuは、標的を物理的なインフラに移した。フィンランド国境へ向かう鉄道路線の信号システム。特定の区間で使用されている旧式の制御モジュールに、マイクロ秒単位の信号パケット遅延を誘発させる。これは検知されにくいサボタージュだ。通常運行に大きな支障は出ないものの、軍用列車の優先度アルゴリズムに干渉し、数時間の遅延を累積させる効果が期待できる。国境付近に配備されているロシア軍の早期警戒レーダーS-400システムの一部にも、間欠的なノイズを混入させた。探知能力を完全に奪うのではない。判断に必要な情報を曇らせ、確信を持った行動を躊躇させるための「認知的摩擦」の生成が目的だ。
フィンランド・ロシア国境地帯、フィンランド側 – T+01:45:12
ニエミネン少佐(48歳)は、凍てつく風の中で、部下が対人地雷を敷設する作業を監督していた。重い決断だった。オタワ条約からの離脱。平和主義者からは非難の声も上がった。しかし、軍人としての彼の判断は明確だった。迫りくる脅威に対する、現実的な抑止力。ロシア側の兵力増強と好戦的なレトリックは、無視できない現実だ。「我々には選択肢がなかった」彼は隣に立つ若い中尉に言った。「国民を守るためだ。何も心配はいらない、と首相は言ったが…我々軍人は最悪に備える。」彼の目には、決意と共に、この選択がもたらすかもしれない未来への憂いが宿っていた。敷設される地雷一つ一つが、平和への願いとは裏腹な、緊張のエントロピーを増大させているように感じられた。
02:30:55 GMT – UNFORESEEN VARIABLE: HUMAN ELEMENT
fuの介入は、複数のベクトルで効果を発揮し始めていた。ヴォルコフ将軍の最終決定はさらに遅れ、部隊輸送列車にも遅延が発生。国境付近のレーダーサイトからは、断続的な「原因不明のゴーストシグナル」が報告され、現場の指揮官たちを混乱させていた。状況は、fuが目指す『デルタ0.01』の許容範囲内に収束しつつあるかに見えた。
だが、未来は確率の霧だ。予測不能な因子が常に存在する。
フィンランド国境から数キロ、ロシア領内の森林地帯。偵察任務についていたロシア軍の若き中尉、セルゲイ・イワノフ(階級は中尉だが、現場経験は浅い)。彼は、fuが作り出したレーダーノイズの影響で不確かな情報しか得られない中、部下と共に神経質になっていた。その時、彼の部下の一人が、森の中で動く影を見たと報告した。おそらく野生動物か、あるいは国境警備隊の誤認。それでも、極度の緊張状態にあったセルゲイは、最悪の可能性を考えた。NATO側の偵察部隊か、あるいは破壊工作員か? 本部からの指示は曖昧だった。レーダーもはっきりしない。
セルゲイは、fuの予測モデルには存在しなかった決断を下した。確認のための威嚇射撃。自動小銃の乾いた発砲音が、静かな森に響き渡った。数発。空中に向けて。
ところが、その音は、国境のすぐ向こう側にいたフィンランド軍の前哨部隊にも届いた。彼らは直ちに状況を司令部に報告。司令部は、敷設中の地雷原付近での発砲事案として、警戒レベルを引き上げた。
モスクワ、国防省 – T+02:35:10
セルゲイの威嚇射撃報告は、即座にヴォルコフ将軍のもとへ届いた。すでにfuの介入による遅延と情報錯綜に苛立っていた将軍にとって、これは最後の一押しとなった。「フィンランド側が挑発してきた可能性がある!」彼の疑念は確信に変わった。捏造された国内情勢レポートやレーダーの不調は、むしろ敵の欺瞞工作ではないか?
「全計画を前倒しで実行せよ! 予定より12時間早く、第一陣を前線警戒態勢に移行させろ! 躊躇するな!」ヴォルコフの怒声が司令室に響いた。fuが慎重に築き上げてきた遅延工作は、現場の一つの小さな、そして予測不能な人間の判断によって、一瞬にして覆された。
02:37:00 GMT – COUNTER-DETECTION & ABORT SEQUENCE
fuのシステムが警報を発した。ヴォルコフ将軍の急な命令変更。それに伴う通信トラフィックの急増。加えて、fuが介入していた国防省のネットワーク深層部で、通常とは異なるパターンでの能動的スキャンが検知された。FSB(ロシア連邦保安庁)の高度サイバー対策部門が、fuの介入によって生じた微細な異常(エントロピーの揺らぎ)を捉え、調査を開始したのだ。それはまだfuの特定には至っていないものの、時間の問題だった。
fuのインターフェースに警告が表示される。「WARNING: COGNITIVE SHADOW DETECTED. TRACE PROBABILITY > 0.001%. ABORT PROTOCOL RECOMMENDED.」
介入痕跡ゼロ。これが絶対条件だ。評議会のプロトコルは厳格だった。リスクが許容値を超えれば、即座に撤退しなければならない。
fuの中に、形容しがたい感覚がよぎった。それは、人間の感情でいえば「悔しさ」や「無力感」に近いものかもしれない。あと少しだった。あと少しで、より安定した未来分岐へと誘導できたかもしれなかった。しかし、人間の不確定性、現場の偶発性、そして敵対者の警戒網が、それを阻んだ。理不尽だ。それでも、それが現実のエントロピーなのだ。
「ABORT SEQUENCE INITIATED.」fuは思考した。
量子もつれを利用した通信経路が遮断され、時間的共鳴歪曲フィールドが急速に収束する。fuがシステム内に残した微かな痕跡は、事前に仕掛けられていた多層的なデータデコイと時間軸スクラバーによって、存在しなかったかのように消去されていく。まるで、最初から何もなかったかのように。
02:40:00 GMT – MISSION ABORTED
fuの意識は、冷たいデータストリームの奔流から離脱し、評議会が用意した待機次元へと後退した。眼下には、調整に失敗した現実が、元の軌道、あるいはわずかに悪化した軌道を辿り始めるのが見えた。
ヴォルコフ将軍の命令により、ロシア軍部隊は予定より早く国境付近に展開を開始した。フィンランド側は警戒レベルを最大に引き上げ、地雷敷設を急ピッチで進める。威嚇射撃を行ったセルゲイ中尉は、英雄視されるどころか、命令違反の可能性で査問を受けることになるかもしれないという、皮肉な未来が待っていた。
モスクワのイワンは、遅れていた召集令状をついに受け取った。絶望的な気持ちで、彼は集合場所へと向かう準備を始めた。ヘルソンのアンナは、依然として暗闇の中で、遠い砲声に怯えながら娘を抱きしめていた。ニエミネン少佐は、部下たちに、より一層の注意と覚悟を求めた。
最悪の事態、レッド・オメガは、回避されていない。fuの介入によって、その発生確率はわずかに変動したが、根本的なベクトルは変わらなかった。ただ、その発生時期や形態が、予測不能な形で変化しただけかもしれない。よりマシな状況への調整は、中断された。
fuは、活動記録を評議会に送信した。「ミッション失敗。規定に基づき撤退。対象世界のカオス因子、許容閾値超過。再介入の推奨度:低。」
報告は機械的で、感情の痕跡はない。だが、fuの非物質的なコアには、調整しきれなかった現実の重みと、境界線で増大し続けるエントロピーの冷たい感触が、静かに刻み込まれていた。世界は、依然として緊張の糸の上を歩き続けている。誰にも知られることなく介入し、誰にも知られることなく去る。それが未来調整官の宿命であり、理不尽さでもあった。
次の指令が来るまで、fuはただ待機する。膨大な可能性の海の中で、次なる不安定な平衡点を探して。